長嶋南子「さくりゃく」「ビーフジャーキー」(「きょうは詩人」10、2008年05月05日発行)
長嶋南子のことばには不思議な「日常」のちからがある。「暮らしの知恵」の「思想」がある。「思想」というのは、カントとかヘーゲルとか、さらにははやりのなんとかかんとか(よくわからないので書かない)の面倒くさいことばのなかにもあるだろうけれど、ふつうの暮らしのことばにもある。そして、ふつうの暮らしのことばの方が完全に「思想」になってしまっている。長い時間をかけてたたき上げた(たたきこわして残った?)ものがある。頼りにできる何かがある。
たとえば「うそ」と本音」。それを「暮らしの知恵」はどんな具合にかきまぜるか。「さくりゃく」の全行。
「うそ」と「本音」は区別がつかない。「建前」と「本音」も区別なんかつかない。「建前」にほんとうにいいたいことがある。「そんなことは建前だ」と否定されるとき、「建前」には希望のような「本音」があることに気づいたりする。
「触れたら落ちるからね」ということばの奥には、触れられて、落ちてみたいという「本音」がある。そして、それが「本音」だとわかるからこそ、友だちはそれを「うそ」と笑う。だって、触れられて、落ちてみたいのは、だれにだって共通した欲望である。長嶋に先を越されたら、その話を聞かされるだけである。だから、「冗談じゃないわよ」という否定を隠して「笑う」のである。
こういうことは、会話の「呼吸」である。
書いてしまうと、説明がとても面倒である。ただ、会話の呼吸とだけ指摘しておく。「暮らしの知恵」(暮らしの思想)は、こういう「呼吸」のなかにある。「呼吸」はことばを発しないが、その発しない部分に「思想」がある。ことばを飲み込んで、破壊し、知らん顔をする。ことばで築き上げる「思想」よりも手ごわいものがある。「かなわないなあ」というようなものがある。
長嶋は、その「呼吸」の瞬間を、詩のなかに取り込んでいる。
「ビーフジャーキー」も、そういう「呼吸」でできている。言いたいことば、言えないことば。気づいてほしいことば。長嶋が彼女自身で飲み込んで、肉体に隠したことば。それが、ふわふわと解放されて、自由に動いている。とても気持ちがいい。
「カクシツ」と「角質」であると同時に「確執」である。「角質」と「確執」をつきまぜて、ごちゃごちゃにして、で、それのどこがちがうのよ、と長嶋は啖呵を切っている。なるほど、似ている。「確執」はこわばってこわばって、人間からやわらかさを奪っていくからね。
長嶋南子のことばには不思議な「日常」のちからがある。「暮らしの知恵」の「思想」がある。「思想」というのは、カントとかヘーゲルとか、さらにははやりのなんとかかんとか(よくわからないので書かない)の面倒くさいことばのなかにもあるだろうけれど、ふつうの暮らしのことばにもある。そして、ふつうの暮らしのことばの方が完全に「思想」になってしまっている。長い時間をかけてたたき上げた(たたきこわして残った?)ものがある。頼りにできる何かがある。
たとえば「うそ」と本音」。それを「暮らしの知恵」はどんな具合にかきまぜるか。「さくりゃく」の全行。
仕事をやめた
夫も亡くなったので未亡人でいく
いろけ
くいけ
おかね
じかん
主婦よりも割がいい
もっとしおしお歩きなよ
触れたら落ちるからね
っていったら
またうそばっかと友だちは笑う
親は何度も殺してきたし
男をとっかえひっかえしたとか
出たくない会合にはいいわけじょうず
うそばっかりついてきた
これからは本音でいく
と また自分にうそをつく
「うそ」と「本音」は区別がつかない。「建前」と「本音」も区別なんかつかない。「建前」にほんとうにいいたいことがある。「そんなことは建前だ」と否定されるとき、「建前」には希望のような「本音」があることに気づいたりする。
「触れたら落ちるからね」ということばの奥には、触れられて、落ちてみたいという「本音」がある。そして、それが「本音」だとわかるからこそ、友だちはそれを「うそ」と笑う。だって、触れられて、落ちてみたいのは、だれにだって共通した欲望である。長嶋に先を越されたら、その話を聞かされるだけである。だから、「冗談じゃないわよ」という否定を隠して「笑う」のである。
こういうことは、会話の「呼吸」である。
書いてしまうと、説明がとても面倒である。ただ、会話の呼吸とだけ指摘しておく。「暮らしの知恵」(暮らしの思想)は、こういう「呼吸」のなかにある。「呼吸」はことばを発しないが、その発しない部分に「思想」がある。ことばを飲み込んで、破壊し、知らん顔をする。ことばで築き上げる「思想」よりも手ごわいものがある。「かなわないなあ」というようなものがある。
長嶋は、その「呼吸」の瞬間を、詩のなかに取り込んでいる。
「ビーフジャーキー」も、そういう「呼吸」でできている。言いたいことば、言えないことば。気づいてほしいことば。長嶋が彼女自身で飲み込んで、肉体に隠したことば。それが、ふわふわと解放されて、自由に動いている。とても気持ちがいい。
息子が帰ってきて
ビーフジャーキーの袋を開けている
(食べちゃだめ それは男のために買ってきたんだもの)
片眼で見ながらクリームつけて
顔のカクシツ落としている
腕だって足だっておなかまで塗りたくる
ふりつもった日々がよじれてボロボロはがれていく
(略)
いい気になって毎日ぬりたくって
カクシツ落としをしていた
皮膚がなくなって体液がしたたり落ちる
骨を抜いて干されてビーフジャーキー
男がたずねてきて
おいしそうにかじっていく
(もっとかじって もっと)
息子が缶ビール片手に
ビーフジャーキーをかじっている
あっ 痛いよ
そこはわたしのスネ肉のところ
「カクシツ」と「角質」であると同時に「確執」である。「角質」と「確執」をつきまぜて、ごちゃごちゃにして、で、それのどこがちがうのよ、と長嶋は啖呵を切っている。なるほど、似ている。「確執」はこわばってこわばって、人間からやわらかさを奪っていくからね。