詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

池井昌樹『眠れる旅人』(3)

2008-08-11 01:04:29 | 詩集
 池井の詩には「なつかしい」ということばがたくさん出てくる。9、10日に取り上げた「カンナ」にも登場した。「なつかしい」は基本的に、なじみがあって、その親しいことに対してこころが動くときにつかわれることばである。「カンナ」の

かどをまがればカンナのはなが
なんだかなつかしいにおい
あたりいちめんたちこめていて

 は、そういう意味でつかわれている。
 池井は、しかし、そういう意味とは少し違った意味でも「なつかしい」ということばをつかう。たとえば、「毎朝」。

まいあさバスをまつあいだ
いろんなひととであいます
おたがいはなしたこともない
いろんなゆくえがあるのです
まいにちしらないひとたちと
こうしてバスをまっていますが
いつからかしらきがつけば
もうであえなくなったひと
あのひとたちはバスにのり
どこへはこばれたのかしら
なんだかなつかしそうなめで
ときどきぼくをそっとみた
あのおじいちゃん
あのおばあちゃん
まいあさバスをまつあいだ
まいあさしらないひとたちと
かたをならべて

 「しらないひと」。その「しらないひと」が「なつかしそうな」目で池井をみつめる。知らないひとが自分を「なつかしそうな」目で見ている、と感じる。
 ここでは、現実がみつめられていない。「いま」「ここ」ではなく、別のものがみつめられている。知らないひとは池井自身を見ているのではなく、池井をとおして別の存在を見ている。そのことを池井は感じている。
 池井と見知らぬひととの間には、時間と場を超えてつながる何かが存在し、その何かを見ている。そして、そのとき見えるものを「なつかしい」と感じているのだ。

 いま、ここにはないもの。

 そして、その、いま、ここにはないものとは、この詩では、「なつかしい」目である。池井を「なつかしそうなめで」見つめた「あのおじいちゃん/あのおばあちゃん」こそがいない。
 ここに、痛切な悲しみがある。愛しみがある。
 
 存在するものをとおして、存在しないものを見つめる。存在するものをとおして、存在しないものを愛する。その悲しみ。それが池井にとっての「なつかしさ」である。
 「カンナ」の場合も、ほんとうに「なつかしい」のは「カンナ」のにおいではない。

どうかされましたかあなた
しらないこどものてをひいた
しらないどこかのおかあさん

 「しらない」のに、池井に接してくる人々。その人々、その接近してくるということそのものが「なつかしい」のである。「しらない」のに接近してくるとき、そこには「人間」そのものに対する愛がある。特定の誰かが好き、というのではなく、人間そのものへの愛がある。その愛を池井は、思い出し、その愛のなかに佇んでいるのである。しゃがんでいるのである。そして放心しているのだ。
 悲しいと愛しいが、このとき重なり合うのだ。

 池井はいつでも「愛しみ(悲しみ)」を生きていて、そのこころの動きを「なつかしい」と感じている。「知っている」を超越して「しらない」ということのなかにある、純粋なもの、「知っている」ものにまみれていない純粋な愛を生きている。
 そういう「愛」を「なつかしい」ということばで書かなければならないのは、そういう愛が現実には存在しなくなっているからかもしれない。消えていきつつある愛--それにむかって、池井は手を伸ばしている。たったひとりで。だれかがそばにいるときでも、いつもたったひとりで。





眠れる旅人
池井 昌樹
思潮社

このアイテムの詳細を見る


池井昌樹詩集 (現代詩文庫)
池井 昌樹
思潮社

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする