きのう取り上げた「カンナ」という詩には、もうひとつ、おもしろい特徴がある。
まず、池井の嗅覚はカンナの花に集中する。カンナの花のなつかしいにおい、に集中する。そして、そこから「あたりいちめん」へと広がっていく。辺り一面になつかしい匂いがしていて、その匂いは何かと見回してみるとカンナの花であった、というのではない。カンナの花の匂いに気がつき、なつかしいと感じる。そのあとで、その匂いが辺り一面に広がっているのに気がつく。
カンナに求心した感覚が、遠心となって周囲へ散っていく。求心の瞬間には「ぼく」というものがしっかり存在している。その確固とした存在が遠心によってあたりいちめんに広がる、拡散する。
その結果として、
という状態が訪れる。
求心→遠心。ひとつの、確固とした「ぼく、自己」が、あらゆるところに拡散してしまえば、「ぼく」がだれであるかはもちろんわからなくなる。
求心の瞬間、「ぼく」はカンナの花の匂いを「なつかしい」と感じる感覚に統合されている。そして、その統合する感覚が強くなると、それはビッグバンのように瞬間的に爆発して、辺り一面に広がり、中心(ぼく)をなくしてしまう。「ぼく」が誰かはどうでもよくなる。「どこ」かは、どうでもよくなる。
求心→遠心は「放心」でもあるのだ。
放心とは無防備のことでもある。無防備だからこそ、「しらないどこかのおかあさん」が心配して声をかけてくる。放心は無防備だからこそ、こどもの直感には何だか不気味に見える。
放心というのは、何とつながっているかわからない、何とでもつながりうる状態であるということをこどもは直感として知っている。本能として知っている。
だから、こわい。
そして、「放心」した「ぼく」には、その本能としての「こわい」だけが強烈に迫ってくる。結びついてくる。こどもは「こわい」という一点の感情に集中している。「こわい」という表情をみせてはいけない、などという配慮はしない。ただ「こわい」。その剥き出しの感情も、また、無防備である。
「ぼく」の無防備と、こどもの無防備が、無防備であるという一点で重なり合う。区別がつかなくなる。「ぼく」がこどもなのか、こどもが「ぼく」なのか。そして、区別をなくして、そのまま「おかあさん」の手をにぎりしめるのである。
それは、遠い日のことだ。
「きょうもぼろぐつひきずって」で始まった詩は、「いつだかとおいひるさがり」へ迷い込んで終わる。「きょう」と「特定できない過去」が一瞬のうちに出会う。その「一瞬」のなかに、こどもと母と路傍にしゃがむ男が「てにてをつな」いでいる。
実際手をつないでいるのは母とこどもだが、見えない手と手を3人はとりあっている。実際には手をつながずに、直感のなかで、本能のなかで手をつないでいる。そしてその手は「やさしい」のである。
この「やさしい」はひとを拒まない、ということでもある。
拒まないというのは、ある意味では、拒めないにもつながる。だから、こわいのだ。すべてが、こわいのだ。存在していること、生きていること、ことばを書いていることがこわいのだ。
何とつながってしまうのか、それはだれにもわからない。しかし、詩人は、つながってしまう。つないでしまう。いま、ここにはない何か、と。
かどをまがればカンナのはなが
なんだかなつかしいにおい
あたりいちめんたちこめていて
まず、池井の嗅覚はカンナの花に集中する。カンナの花のなつかしいにおい、に集中する。そして、そこから「あたりいちめん」へと広がっていく。辺り一面になつかしい匂いがしていて、その匂いは何かと見回してみるとカンナの花であった、というのではない。カンナの花の匂いに気がつき、なつかしいと感じる。そのあとで、その匂いが辺り一面に広がっているのに気がつく。
カンナに求心した感覚が、遠心となって周囲へ散っていく。求心の瞬間には「ぼく」というものがしっかり存在している。その確固とした存在が遠心によってあたりいちめんに広がる、拡散する。
その結果として、
ここがどこだかぼくがだれだか
もうわからなくなってしまって
という状態が訪れる。
求心→遠心。ひとつの、確固とした「ぼく、自己」が、あらゆるところに拡散してしまえば、「ぼく」がだれであるかはもちろんわからなくなる。
求心の瞬間、「ぼく」はカンナの花の匂いを「なつかしい」と感じる感覚に統合されている。そして、その統合する感覚が強くなると、それはビッグバンのように瞬間的に爆発して、辺り一面に広がり、中心(ぼく)をなくしてしまう。「ぼく」が誰かはどうでもよくなる。「どこ」かは、どうでもよくなる。
求心→遠心は「放心」でもあるのだ。
放心とは無防備のことでもある。無防備だからこそ、「しらないどこかのおかあさん」が心配して声をかけてくる。放心は無防備だからこそ、こどもの直感には何だか不気味に見える。
放心というのは、何とつながっているかわからない、何とでもつながりうる状態であるということをこどもは直感として知っている。本能として知っている。
だから、こわい。
そして、「放心」した「ぼく」には、その本能としての「こわい」だけが強烈に迫ってくる。結びついてくる。こどもは「こわい」という一点の感情に集中している。「こわい」という表情をみせてはいけない、などという配慮はしない。ただ「こわい」。その剥き出しの感情も、また、無防備である。
「ぼく」の無防備と、こどもの無防備が、無防備であるという一点で重なり合う。区別がつかなくなる。「ぼく」がこどもなのか、こどもが「ぼく」なのか。そして、区別をなくして、そのまま「おかあさん」の手をにぎりしめるのである。
それは、遠い日のことだ。
「きょうもぼろぐつひきずって」で始まった詩は、「いつだかとおいひるさがり」へ迷い込んで終わる。「きょう」と「特定できない過去」が一瞬のうちに出会う。その「一瞬」のなかに、こどもと母と路傍にしゃがむ男が「てにてをつな」いでいる。
実際手をつないでいるのは母とこどもだが、見えない手と手を3人はとりあっている。実際には手をつながずに、直感のなかで、本能のなかで手をつないでいる。そしてその手は「やさしい」のである。
この「やさしい」はひとを拒まない、ということでもある。
拒まないというのは、ある意味では、拒めないにもつながる。だから、こわいのだ。すべてが、こわいのだ。存在していること、生きていること、ことばを書いていることがこわいのだ。
何とつながってしまうのか、それはだれにもわからない。しかし、詩人は、つながってしまう。つないでしまう。いま、ここにはない何か、と。
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