有松裕子『エデン』(書肆山田、2008年08月20日発行)
「連続」ということばがある。だれもが知っていることばだと思う。だれもが知っていることばということは、だれもがつかっていることばである、ということと同じだ。しかし、そのだれもがつかっているはずのことばが、有松の詩のなかでは不思議な輝きを持っている。
「古川の浅いみずたまり」。そのなかほど。
「川は/昔もいまも連続している」。これはあたりまえのことである。あたりまえだからこそ、たとえば「方丈記」の冒頭の「無情」が鮮烈に響く。つまり「方丈記」には鴨長明の「発見」があるのに対し、有松の表現には「発見」がない。だれもが知っている。
だが、それにもかかわらず、私は、この部分でつまずいた。つまずいて、体をたち直したとき、その目の前に、有松という人間が突然現れたように感じたのである。ここに書かれている「連続」はとても新鮮である。そして、その「連続」のなかにこそ、有松がいる。そう感じた。
この「連続」には「矛盾」がある。「汚れた」と「キレイ」という反対のことばが「連続」するというのは「矛盾」である。それは「連続」しない。だが、有松は「連続」すると書く。どうして「汚れた」と「キレイ」が連続するのか。その「矛盾」の間には、実は「変わった」(変わる)という運動がある。
そのことを、有松は「発見」している。
そして、もし「変わった」(変わる)という運動があるならば、すべては「連続」するのである。ここに、有松の「思想」がある。世界はばらばらに見える。あらゆる存在はばらばらに存在し、ときには対立(矛盾)する。しかし、そういう世界も、存在が変われば「連続」するのである。
「汚れた」川と、「キレイ」な川は、まったく別の存在のように見える。しかし、それは「かわる」という変化を間にみつめるとき、その変わるという運動の「場」として「連続」して姿をあらわす。
「連続」は、そんなふうにして「場」を、「場」の存在を意識させる。「連続」は「場」はともにあり、そこでは「変わる」という運動がある。
これが、有松が発見したことである。
「古川の浅いみずたまり」にはいろいろなものが登場する。いろいろな事件が登場する。犬と私とあなた(2連目)。足をだしてひとをつまずかせる遊びと、折れた歯。水野さん(3連目)。2連目と3連目に、何の「連続」もないように感じられる。「連続」がないからこそ、「 1行あき」が挿入され、その断絶によって「連」が誕生する。
この空白、断絶の象徴としての1行あきこそ、「連続」の「場」である。
そこでは何が「連続」しているか。転ばせるという行為である。2連目で「わたし」はかけてくる犬を転ばせる。3連目では「水野さん」が「わたし」を転ばせる。
そのつ転ばせるという行為が3連目と「連続」する。
ただし、2連目の行為の主体は「わたし」。3連目は「水野さん」。そこに断絶がある。いわば「矛盾」がある。「わたし」と「水野さん」という、けっして融合しない人間が、加害者・被害者という対立する存在としてそこに存在し、その対立した存在(矛盾)が、転ばせるという行為のなかで溶け合ってしまう。
1行あきは矛盾を融合させる。
有松の詩は、わかりにくい。少なくとも、私には非常にわかりにくい。ひとつの作品のなかにいくつもの要素が盛り込まれ、その関係が、すぐにはわからない。なぜ、この連の次に、こんな連が、と思ってしまうことがある。だが、それこそ有松の書きたいことなのだろう。「思想」なのだろうと思う。
ばらばらな存在。その対立(矛盾)。だが、そこに「矛盾」があるわかったなら、その「矛盾」を変えれば「連続」になる。そのことを夢見て、そして有松の意識のなかでは、その「変化」が実際に起きていて、「連続」が誕生しているのである。
一読しただけでは、それだけのことしかわからない。だが、たしかに、1行の空白、連と連をつくりだす空白は、有松の「変化」と「連続」の結び目なのだということは、作品を読み進めれば進むほど強くなる。
そして、こういう印象に拍車をかけるのが、
という奇妙に強い力で結びつく行。「矛盾」を含んだ行だ。「なにげなく」「わざと」は、けっして溶け合わない概念だ。本来結びつくはずがない。「連続」するはずがない。でも、有松は結びつける。そうすると、不思議なて現象が起きる。
「なにげなく でもわざと」は誰の行為? 「わたし」の? あるいは「水野さん」の? どちらともとれる。たぶん有松は両方にとれるように、変わってしまうのだ。
1行あきの「場」で対立するもの(矛盾)を有松は溶け合わせたが、1行のなかでは対立するもの(矛盾)を連続させ、別々の存在(「水野さん」と「わたし」)を融合させるのだ。同じいのちをもった人間として浮かび上がらせるのだ。
不思議な詩集だ。とても不思議な詩集だ。
「連続」ということばがある。だれもが知っていることばだと思う。だれもが知っていることばということは、だれもがつかっていることばである、ということと同じだ。しかし、そのだれもがつかっているはずのことばが、有松の詩のなかでは不思議な輝きを持っている。
「古川の浅いみずたまり」。そのなかほど。
のぞきこんだ古川はひとびとの努力でキレイになり
落とし込まれたサビつき自転車の登録証がまるみえ
誰がやったかわかるのに調べられることはない
汚れた水を飲み込んでキレイに変わった川は
昔もいまも連続している
「川は/昔もいまも連続している」。これはあたりまえのことである。あたりまえだからこそ、たとえば「方丈記」の冒頭の「無情」が鮮烈に響く。つまり「方丈記」には鴨長明の「発見」があるのに対し、有松の表現には「発見」がない。だれもが知っている。
だが、それにもかかわらず、私は、この部分でつまずいた。つまずいて、体をたち直したとき、その目の前に、有松という人間が突然現れたように感じたのである。ここに書かれている「連続」はとても新鮮である。そして、その「連続」のなかにこそ、有松がいる。そう感じた。
汚れた水を飲み込んでキレイに変わった川は
昔もいまも連続している
この「連続」には「矛盾」がある。「汚れた」と「キレイ」という反対のことばが「連続」するというのは「矛盾」である。それは「連続」しない。だが、有松は「連続」すると書く。どうして「汚れた」と「キレイ」が連続するのか。その「矛盾」の間には、実は「変わった」(変わる)という運動がある。
そのことを、有松は「発見」している。
そして、もし「変わった」(変わる)という運動があるならば、すべては「連続」するのである。ここに、有松の「思想」がある。世界はばらばらに見える。あらゆる存在はばらばらに存在し、ときには対立(矛盾)する。しかし、そういう世界も、存在が変われば「連続」するのである。
「汚れた」川と、「キレイ」な川は、まったく別の存在のように見える。しかし、それは「かわる」という変化を間にみつめるとき、その変わるという運動の「場」として「連続」して姿をあらわす。
「連続」は、そんなふうにして「場」を、「場」の存在を意識させる。「連続」は「場」はともにあり、そこでは「変わる」という運動がある。
これが、有松が発見したことである。
「古川の浅いみずたまり」にはいろいろなものが登場する。いろいろな事件が登場する。犬と私とあなた(2連目)。足をだしてひとをつまずかせる遊びと、折れた歯。水野さん(3連目)。2連目と3連目に、何の「連続」もないように感じられる。「連続」がないからこそ、「 1行あき」が挿入され、その断絶によって「連」が誕生する。
昼下がりの
隣の犬のはしゃくぐ声を追いかけて
小犬の鳴ききまねをする ピッピッピッピィー
おびやかされた犬がそよ風にももんどりうって
荒々しく雲を呼ぶのを待っている
やめな と あなたは言うけれど
いじめてなんかいない
傷をうずかせるの雨は血のにおいに似ている
四年生の教室の床に横たわるハイソックス
避けることも思いつかなかったわたしの足
なにげなく でもわざと
やった水野さんも泣いていた
この空白、断絶の象徴としての1行あきこそ、「連続」の「場」である。
そこでは何が「連続」しているか。転ばせるという行為である。2連目で「わたし」はかけてくる犬を転ばせる。3連目では「水野さん」が「わたし」を転ばせる。
そのつ転ばせるという行為が3連目と「連続」する。
ただし、2連目の行為の主体は「わたし」。3連目は「水野さん」。そこに断絶がある。いわば「矛盾」がある。「わたし」と「水野さん」という、けっして融合しない人間が、加害者・被害者という対立する存在としてそこに存在し、その対立した存在(矛盾)が、転ばせるという行為のなかで溶け合ってしまう。
1行あきは矛盾を融合させる。
有松の詩は、わかりにくい。少なくとも、私には非常にわかりにくい。ひとつの作品のなかにいくつもの要素が盛り込まれ、その関係が、すぐにはわからない。なぜ、この連の次に、こんな連が、と思ってしまうことがある。だが、それこそ有松の書きたいことなのだろう。「思想」なのだろうと思う。
ばらばらな存在。その対立(矛盾)。だが、そこに「矛盾」があるわかったなら、その「矛盾」を変えれば「連続」になる。そのことを夢見て、そして有松の意識のなかでは、その「変化」が実際に起きていて、「連続」が誕生しているのである。
一読しただけでは、それだけのことしかわからない。だが、たしかに、1行の空白、連と連をつくりだす空白は、有松の「変化」と「連続」の結び目なのだということは、作品を読み進めれば進むほど強くなる。
そして、こういう印象に拍車をかけるのが、
なにげなく でもわざと
やった水野さんも泣いていた
という奇妙に強い力で結びつく行。「矛盾」を含んだ行だ。「なにげなく」「わざと」は、けっして溶け合わない概念だ。本来結びつくはずがない。「連続」するはずがない。でも、有松は結びつける。そうすると、不思議なて現象が起きる。
「なにげなく でもわざと」は誰の行為? 「わたし」の? あるいは「水野さん」の? どちらともとれる。たぶん有松は両方にとれるように、変わってしまうのだ。
1行あきの「場」で対立するもの(矛盾)を有松は溶け合わせたが、1行のなかでは対立するもの(矛盾)を連続させ、別々の存在(「水野さん」と「わたし」)を融合させるのだ。同じいのちをもった人間として浮かび上がらせるのだ。
不思議な詩集だ。とても不思議な詩集だ。
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