詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

チャン・イーモー監督「北京五輪開幕式」

2008-08-12 08:29:43 | その他(音楽、小説etc)
 チャン・イーモーはたいへんな野望の持ち主である。野望がそのまま映像となって噴出してくる。
 私は今回の映像ではじめてチャン・イーモーが「墨」の色にも関心があることを知った。(これまでの映画に「墨」が出てきたかどうか、記憶にない。出てきても、記憶にない程度の印象だったのだろうと思う。)ただ、やはり、「墨」はチャン・イーモーにはあわない。チャン・イーモーの色彩、動きは抑制ではないからだ。抑制ではなく、解放だからである。
 集団の演技には「抑制」が必要だ、という見方もあるだろうが、チャン・イーモーの演出を貫いているのは抑制ではない。2008人の奏者が太鼓をたたく。そのとき、その集団を貫いているのはリズムを伝えるという統一した意識・リズムをあわせるために肉体そのものを他者にあわせるという抑制ではない。そこには「禁欲」がない。彼らを貫くのは、2008人の背後に存在する13億の人間の解放である。
 チャン・イーモーの演出によって繰り広げられる集団の演技には、たとえば北朝鮮のマスゲームのような完璧な統一感はない。ひとつのものをつくりあげるにしろ、そこには何かふぞろいなものがまぎれこんでいる。そして、そのふぞろいのなかに13億の人間がいる。13億の人間の解放がある。
 これはとても強烈であり、また不気味でもある。人間の奥にひそむ欲望。それを実現するためにはときには集団行動が必要である。集団を組織することが必要である。そういうことは、頭では理解できるが、実際にそういう集団を見ると、私はおびえてしまう。人間が集まりさえすれば、集団で行動さえすればなんでもできる。なんでも可能である。そういう「本能」の爆発のようなものを感じるからである。
 私はどこかで集団というのはうさんくさいと感じているのかもしれない。

 それにしても、次々に繰り広げられる集団パフォーマンスはすごい。ハリウッド映画ならCGでやってしまうことを、チャン・イーモーは人間をつかってやってしまう。そうなのだ。この開会式は、ある意味ではチャン・イーモーのハリウッド映画に対する挑戦なのだ。CGにやれることには限界がある。どんなに巧みに描いてみても、そこからは恐怖は生まれない。人間のもっている謎、本能が絡み合って動くときの不可思議なものを描ききることはできない。チャン・イーモーはCGではなく、人間を、何万人(と、思う)を動かしてみせる、演技させてみせることができる。そう啖呵を切っているのである。
 人間だけではなく、中国の街そのものをも背景にしてスペクタクルを描く。「鳥の巣」をはみ出し、北京の街そのものを会場にして繰り広げられる花火。それを俯瞰する映像。それは「鳥の巣」のスタンドからは肉眼では見えない。モニターがあれば、そのモニターをとおしてみるのだろうけれど(たぶんモニターがあって、そこから市街の花火も見えるのだろうけれど)、それはフィールドのパフォーマンスを見るのとは違った目である。そして、この市街を(さらには遠く離れは万里の長城を)巻き込む演出は、肉眼をあざむくという映画特有の演出である。北京市街の方々で打ち上がる花火を私はテレビで見る。モニターで見る。まるで実際に花火を見るように。しかし、それは私が見ているのではない。あくまでチャン・イーモーの演出した「映像」を見ているだけである。私の「肉眼」は動いていない。動いているのはチャン・イーモーの「肉眼」であり、彼の「肉眼」を代弁するカメラである。「肉眼」では同時に見ることのできないものを、ひとつのモニター(スクリーン)のなかで合体させ、そこに観客が「肉眼」では体験できないものを描き出し、魅了する。そういう魔法。それを、チャン・イーモーはCGではなく、人海戦術でやってのける。
 これは、ハリウッドに対する(あるいは世界の映画関係者に向ける)たいへんな宣伝である。

 それにしても。

 私は、その人間を集めさえすればなんでもできるというチャン・イーモーの思想(そして、それはもしかすると中国そのものの思想かもしれない--そのことに対して、私はとても恐怖を感じている。これはほかの映画の感想でも書いたけれど)にいやなものを感じないわけではないけれど。
 それにしても。
 最終聖火ランナーには度肝をぬかれた。これまで書いてきた感想をすっかり忘れてしまうくらいに度肝をぬかれ、夢中になって見てしまった。一種のワイヤーアクションである。ワイヤーでつり下げられて天を走る。映画で見慣れている。しかし、映画はフィルムの継ぎ接ぎである。実際に天を(宙を)走るのは10メートルもないであろう。ところが、この開会式では「鳥の巣」をほぼ一周する。ワイヤーでその間つり下げられているだけでもたいへんだと思うが、そのつりさげられている間中、ランナーは空中を走っている。まるで大地を軽々と走る短距離ランナーのように正確な歩幅で走っている。小さなモニターで見て、こんなに度肝をぬかれるのだから、実際に「鳥の巣」で見たら、どうだろう。私は感動で気が狂ってしまったかもしれない。いや、そうではなく、これはやはり映像で見るからこそ、気が狂うほど引き込まれるのかもしれない。演出である、天を駆けて見えるが見えるが実態はワイヤーでつり下げられているということがわかっていて、よけいに度肝をぬかれるのかもしれない。
 チャン・イーモーは他人に対してこんなことを平然とさせることができるのだ。たいへんな困難をともなう肉体の動き。それを他人に平然とおしつける。そしてまた中国人はそれ楽々とこなしてしまう。チャン・イーモーのアイデアと中国人の肉体で、いままで存在しなかったスペクタクルをどこまでもどこまでも実現できる。

 チャン・イーモーの力業。ただただ、それに圧倒された。




 チャン・イーモーの映画はいろいろあるが、見るならやっぱり、これ。
 コーリャンの緑のいのちと、真っ赤に飛び散る血。その対比の強烈さ。若い若いコン・リー。完璧な映画の1本。



紅いコーリャン

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