貞久秀紀『明示と暗示』(思潮社、2010年07月31日発行)
貞久秀紀については何度か感想を書いたことがある(と、思う)。私には記憶力というものがない。かつて読んだ詩について、きょう詩集で読んで書く感想は、それとはまったく違うものになるかもしれない。あるいはまったく同じものになるかもしれない。どうなるかは、わからない。そして、それには記憶力以外に、別な要素もからんでくる。かつて、その詩を読んだときの私といまの私とのあいだには時間があり、そのあいだに私の考え方が変わってしまった、ということがあるかもしれない。また、雑誌(同人誌?)に発表したときから詩集になるまでにも時間がある。その時間のあいだに、書かれたことばそのものが、「文字(ことば)」としては同じであっても、含むものが変わったということもあるかもしれない。書かれた「文字(ことば)」が同じなら、それが含むもの(意味や感情)が変わるはずがない--というのが一般的な考え方かもしれないが、ことばだって時間とともに成長する。変わったとしても不思議ではない、と私は考えている。
--と、くだくだと書いたのは。
「数のよろこび」という詩が出てくる。この詩は読んだ記憶がある。
私は、この詩を読んで「二、三本の木」ということばについて不平を書いたと記憶している。一本の道(おなじ道)を通り、そこで「二、三本の木」というような、あいまいな思い出し方(思い返し方)を私はできない。ここに書かれているのは、ことばであって、ことば以外のものではない、ことばでしかない、というような不満が私にはある。
その不満は不満のままなのだが、この詩の前に、「序」がついている。タイトルはないのだが、目次に「序」と書いてあった。
私が最初に「数のよろこび」を読んだとき、「序」があったかどうか、記憶にない。あったとしても読み落としていた。今回、そのふたつをつづけて読むと、「数のよろこび」のことばが「成長している」と感じたのだ。
論理を脱線させながら書くことになるが……。
「序」を読んで思うことはふたつある。ひとつは、貞久の書いている「暗示」と「明示」は「デジャヴ」(既視感)と「現実(存在)」にいくらか似ているということ。ある文を読む。そうすると、それをどこかで読んだような気がする。ある枝がゆれているのを見る。そうすると、それをどこかで見たような気がする。そのとき、私が見ているのは、目の前にある「実在の文・枝」ではなく、「記憶の中にある文・枝」である。「実在」が目の前にあるのに、「実在」ではなく「記憶」(意識)を見る。この瞬間のめまいのようなもの。めまいの力のようなもの。--そこにあるのは、実在でも記憶でもなく、実は、その「めまいの力」そのものである、というようなことは確かに存在する。
もう一つは、たとえば枝がゆれているを見るとき、それは枝がゆれているのか、あるいはゆれが枝なのかという問題。つまり枝という場にゆれがあらわれてきているのか、それともゆれという運動が枝を出現させているか、という問題。これはさらに、枝がゆれているのは風が吹いているからか、あるいは風が吹いているのは枝がゆれているからなのかという問題にも変化していく。これは、ある存在があり、そこに運動があるとき、それは存在が運動しているのか、それとも運動が存在を存在させているのか--という問題に集約できる。この存在と運動は、また、より正確に(?)言いなおせば、ある存在が存在として意識化されるのは、存在がある運動のなかで位置づけられるときである、運動のなかに位置づけられないかぎり存在は存在として意識化されない、という考えに収斂していく。
なんだか、書いている内にわけがわからなくなるようなことだが、私は、そんなことを思った。
ことばと存在は、ふつうは緊密に結びついている。木ということばは、具体的な木と結びついている。特に道端の木は特定され、その木について木ということばをつかうときは、そのことばは貞久が思い起こしている木そのものである。
はずである。
そして、木がことばではなく、ことばが木であるとき、そのことばは木でありながら、木であることだけでは満足できずに、ことばそのものとして運動することある。「二、三本の木」とことばにした瞬間から、それは実在の木ではなく、「二、三本の木」ということば自体として、かってに動く。「二、三本」とは何なのか。なぜ「二、三本なのか」をことばは解明しようとする。
貞久の詩は、そのことについて答え(?)は出していない。「二、三本の木」と書いてしまえば、それは「二、三本の木である」と思い起こし、その思い起こしそのものを、ことばのあり方とする。
ことばは存在と結びついた何かではなく、それは、思い起こすという運動なのだ。
べつの日になおおなじ道をゆけば、二本か三本かいずれかがあり、いずれもこの二、三本の木であるのにほかならない。
この行はふたつの文から構成されている。「べつの日になおおなじ道をゆけば、二本か三本かいずれかがあり」と、「いずれもこの二、三本の木であるのにほかならない。」そして、ここには2回「ある(あり)」という動詞が出てくるが、それは同じことばでありながら、同じ「意味(?)」ではない。
「べつの日になおおなじ道をゆけば、二本か三本かいずれかがあり」の「あり(ある)」は存在する、である。「あり」を「存在し」と言い換えることができる。ところが、次の「いずれもこの二、三本の木であるのにほかならない。」の「ある」は存在を意味しない。「存在し」とことばにしたことを、言い換えると「存在する」という「運動」のなかで浮かび上がらせたもの(木という対象)から、「運動」を排除し、「木」そのものに返している。そこには「同定する」という別の意識の運動がある。
ことばによって、存在を存在させ、その存在したものを反復(同定)することで、ことばとは、なにごとかを反復し、同定させる運動だということを貞久は言うのである。
貞久のキーワードは「である」ということばである。何々があるのは何々である--その後半の「である」。「同定」の「ある」。それは、ことばを「存在」から解放し(乖離させ?)、意識の運動、思考の運動へと暴走させる。
「明示」と「暗示」。それは「同定」されないかぎり意味はない。「同定」されるとき、そこに「ことば」が浮かび上がる。もの、ではなく、ことばが。その運動としてのことばの暴走を貞久は押し進めている。
前に何を書いたか、私は忘れてしまったが、否定的なことを書いてきたのだとしたら、それを訂正しなければならない。この詩集はいい。おもしろい。刺激的だ。詩集になることで、断片的に発表されたときとは違った次元に飛躍・成長している。そう感じた。
貞久秀紀については何度か感想を書いたことがある(と、思う)。私には記憶力というものがない。かつて読んだ詩について、きょう詩集で読んで書く感想は、それとはまったく違うものになるかもしれない。あるいはまったく同じものになるかもしれない。どうなるかは、わからない。そして、それには記憶力以外に、別な要素もからんでくる。かつて、その詩を読んだときの私といまの私とのあいだには時間があり、そのあいだに私の考え方が変わってしまった、ということがあるかもしれない。また、雑誌(同人誌?)に発表したときから詩集になるまでにも時間がある。その時間のあいだに、書かれたことばそのものが、「文字(ことば)」としては同じであっても、含むものが変わったということもあるかもしれない。書かれた「文字(ことば)」が同じなら、それが含むもの(意味や感情)が変わるはずがない--というのが一般的な考え方かもしれないが、ことばだって時間とともに成長する。変わったとしても不思議ではない、と私は考えている。
--と、くだくだと書いたのは。
「数のよろこび」という詩が出てくる。この詩は読んだ記憶がある。
道のべにあり、ゆきすぎてなお思いかえされる二、三本の木は、二本とも三本ともなく、二、三本として思いかえされる。
べつの日になおおなじ道をゆけば、二本か三本かいずれかがあり、いずれもこの二、三本の木であるのにほかならない。
私は、この詩を読んで「二、三本の木」ということばについて不平を書いたと記憶している。一本の道(おなじ道)を通り、そこで「二、三本の木」というような、あいまいな思い出し方(思い返し方)を私はできない。ここに書かれているのは、ことばであって、ことば以外のものではない、ことばでしかない、というような不満が私にはある。
その不満は不満のままなのだが、この詩の前に、「序」がついている。タイトルはないのだが、目次に「序」と書いてあった。
ある文によって暗示されることがらがすでにその文に明示されている--そのようなことがあるだろうか。ゆれている枝によってよびおこされるものが、ほかでもないそのゆれている枝であるように。
私が最初に「数のよろこび」を読んだとき、「序」があったかどうか、記憶にない。あったとしても読み落としていた。今回、そのふたつをつづけて読むと、「数のよろこび」のことばが「成長している」と感じたのだ。
論理を脱線させながら書くことになるが……。
「序」を読んで思うことはふたつある。ひとつは、貞久の書いている「暗示」と「明示」は「デジャヴ」(既視感)と「現実(存在)」にいくらか似ているということ。ある文を読む。そうすると、それをどこかで読んだような気がする。ある枝がゆれているのを見る。そうすると、それをどこかで見たような気がする。そのとき、私が見ているのは、目の前にある「実在の文・枝」ではなく、「記憶の中にある文・枝」である。「実在」が目の前にあるのに、「実在」ではなく「記憶」(意識)を見る。この瞬間のめまいのようなもの。めまいの力のようなもの。--そこにあるのは、実在でも記憶でもなく、実は、その「めまいの力」そのものである、というようなことは確かに存在する。
もう一つは、たとえば枝がゆれているを見るとき、それは枝がゆれているのか、あるいはゆれが枝なのかという問題。つまり枝という場にゆれがあらわれてきているのか、それともゆれという運動が枝を出現させているか、という問題。これはさらに、枝がゆれているのは風が吹いているからか、あるいは風が吹いているのは枝がゆれているからなのかという問題にも変化していく。これは、ある存在があり、そこに運動があるとき、それは存在が運動しているのか、それとも運動が存在を存在させているのか--という問題に集約できる。この存在と運動は、また、より正確に(?)言いなおせば、ある存在が存在として意識化されるのは、存在がある運動のなかで位置づけられるときである、運動のなかに位置づけられないかぎり存在は存在として意識化されない、という考えに収斂していく。
なんだか、書いている内にわけがわからなくなるようなことだが、私は、そんなことを思った。
ことばと存在は、ふつうは緊密に結びついている。木ということばは、具体的な木と結びついている。特に道端の木は特定され、その木について木ということばをつかうときは、そのことばは貞久が思い起こしている木そのものである。
はずである。
そして、木がことばではなく、ことばが木であるとき、そのことばは木でありながら、木であることだけでは満足できずに、ことばそのものとして運動することある。「二、三本の木」とことばにした瞬間から、それは実在の木ではなく、「二、三本の木」ということば自体として、かってに動く。「二、三本」とは何なのか。なぜ「二、三本なのか」をことばは解明しようとする。
貞久の詩は、そのことについて答え(?)は出していない。「二、三本の木」と書いてしまえば、それは「二、三本の木である」と思い起こし、その思い起こしそのものを、ことばのあり方とする。
ことばは存在と結びついた何かではなく、それは、思い起こすという運動なのだ。
べつの日になおおなじ道をゆけば、二本か三本かいずれかがあり、いずれもこの二、三本の木であるのにほかならない。
この行はふたつの文から構成されている。「べつの日になおおなじ道をゆけば、二本か三本かいずれかがあり」と、「いずれもこの二、三本の木であるのにほかならない。」そして、ここには2回「ある(あり)」という動詞が出てくるが、それは同じことばでありながら、同じ「意味(?)」ではない。
「べつの日になおおなじ道をゆけば、二本か三本かいずれかがあり」の「あり(ある)」は存在する、である。「あり」を「存在し」と言い換えることができる。ところが、次の「いずれもこの二、三本の木であるのにほかならない。」の「ある」は存在を意味しない。「存在し」とことばにしたことを、言い換えると「存在する」という「運動」のなかで浮かび上がらせたもの(木という対象)から、「運動」を排除し、「木」そのものに返している。そこには「同定する」という別の意識の運動がある。
ことばによって、存在を存在させ、その存在したものを反復(同定)することで、ことばとは、なにごとかを反復し、同定させる運動だということを貞久は言うのである。
貞久のキーワードは「である」ということばである。何々があるのは何々である--その後半の「である」。「同定」の「ある」。それは、ことばを「存在」から解放し(乖離させ?)、意識の運動、思考の運動へと暴走させる。
「明示」と「暗示」。それは「同定」されないかぎり意味はない。「同定」されるとき、そこに「ことば」が浮かび上がる。もの、ではなく、ことばが。その運動としてのことばの暴走を貞久は押し進めている。
前に何を書いたか、私は忘れてしまったが、否定的なことを書いてきたのだとしたら、それを訂正しなければならない。この詩集はいい。おもしろい。刺激的だ。詩集になることで、断片的に発表されたときとは違った次元に飛躍・成長している。そう感じた。
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