詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

貞久秀紀『明示と暗示』

2010-08-01 21:56:38 | 詩集
貞久秀紀『明示と暗示』(思潮社、2010年07月31日発行)

 貞久秀紀については何度か感想を書いたことがある(と、思う)。私には記憶力というものがない。かつて読んだ詩について、きょう詩集で読んで書く感想は、それとはまったく違うものになるかもしれない。あるいはまったく同じものになるかもしれない。どうなるかは、わからない。そして、それには記憶力以外に、別な要素もからんでくる。かつて、その詩を読んだときの私といまの私とのあいだには時間があり、そのあいだに私の考え方が変わってしまった、ということがあるかもしれない。また、雑誌(同人誌?)に発表したときから詩集になるまでにも時間がある。その時間のあいだに、書かれたことばそのものが、「文字(ことば)」としては同じであっても、含むものが変わったということもあるかもしれない。書かれた「文字(ことば)」が同じなら、それが含むもの(意味や感情)が変わるはずがない--というのが一般的な考え方かもしれないが、ことばだって時間とともに成長する。変わったとしても不思議ではない、と私は考えている。
 --と、くだくだと書いたのは。
 「数のよろこび」という詩が出てくる。この詩は読んだ記憶がある。

 道のべにあり、ゆきすぎてなお思いかえされる二、三本の木は、二本とも三本ともなく、二、三本として思いかえされる。
 べつの日になおおなじ道をゆけば、二本か三本かいずれかがあり、いずれもこの二、三本の木であるのにほかならない。

 私は、この詩を読んで「二、三本の木」ということばについて不平を書いたと記憶している。一本の道(おなじ道)を通り、そこで「二、三本の木」というような、あいまいな思い出し方(思い返し方)を私はできない。ここに書かれているのは、ことばであって、ことば以外のものではない、ことばでしかない、というような不満が私にはある。
 その不満は不満のままなのだが、この詩の前に、「序」がついている。タイトルはないのだが、目次に「序」と書いてあった。

 ある文によって暗示されることがらがすでにその文に明示されている--そのようなことがあるだろうか。ゆれている枝によってよびおこされるものが、ほかでもないそのゆれている枝であるように。

 私が最初に「数のよろこび」を読んだとき、「序」があったかどうか、記憶にない。あったとしても読み落としていた。今回、そのふたつをつづけて読むと、「数のよろこび」のことばが「成長している」と感じたのだ。

 論理を脱線させながら書くことになるが……。
 「序」を読んで思うことはふたつある。ひとつは、貞久の書いている「暗示」と「明示」は「デジャヴ」(既視感)と「現実(存在)」にいくらか似ているということ。ある文を読む。そうすると、それをどこかで読んだような気がする。ある枝がゆれているのを見る。そうすると、それをどこかで見たような気がする。そのとき、私が見ているのは、目の前にある「実在の文・枝」ではなく、「記憶の中にある文・枝」である。「実在」が目の前にあるのに、「実在」ではなく「記憶」(意識)を見る。この瞬間のめまいのようなもの。めまいの力のようなもの。--そこにあるのは、実在でも記憶でもなく、実は、その「めまいの力」そのものである、というようなことは確かに存在する。
 もう一つは、たとえば枝がゆれているを見るとき、それは枝がゆれているのか、あるいはゆれが枝なのかという問題。つまり枝という場にゆれがあらわれてきているのか、それともゆれという運動が枝を出現させているか、という問題。これはさらに、枝がゆれているのは風が吹いているからか、あるいは風が吹いているのは枝がゆれているからなのかという問題にも変化していく。これは、ある存在があり、そこに運動があるとき、それは存在が運動しているのか、それとも運動が存在を存在させているのか--という問題に集約できる。この存在と運動は、また、より正確に(?)言いなおせば、ある存在が存在として意識化されるのは、存在がある運動のなかで位置づけられるときである、運動のなかに位置づけられないかぎり存在は存在として意識化されない、という考えに収斂していく。
 なんだか、書いている内にわけがわからなくなるようなことだが、私は、そんなことを思った。
 ことばと存在は、ふつうは緊密に結びついている。木ということばは、具体的な木と結びついている。特に道端の木は特定され、その木について木ということばをつかうときは、そのことばは貞久が思い起こしている木そのものである。
 はずである。
 そして、木がことばではなく、ことばが木であるとき、そのことばは木でありながら、木であることだけでは満足できずに、ことばそのものとして運動することある。「二、三本の木」とことばにした瞬間から、それは実在の木ではなく、「二、三本の木」ということば自体として、かってに動く。「二、三本」とは何なのか。なぜ「二、三本なのか」をことばは解明しようとする。
 貞久の詩は、そのことについて答え(?)は出していない。「二、三本の木」と書いてしまえば、それは「二、三本の木である」と思い起こし、その思い起こしそのものを、ことばのあり方とする。
 ことばは存在と結びついた何かではなく、それは、思い起こすという運動なのだ。

 べつの日になおおなじ道をゆけば、二本か三本かいずれかがあり、いずれもこの二、三本の木であるのにほかならない。

 この行はふたつの文から構成されている。「べつの日になおおなじ道をゆけば、二本か三本かいずれかがあり」と、「いずれもこの二、三本の木であるのにほかならない。」そして、ここには2回「ある(あり)」という動詞が出てくるが、それは同じことばでありながら、同じ「意味(?)」ではない。
 「べつの日になおおなじ道をゆけば、二本か三本かいずれかがあり」の「あり(ある)」は存在する、である。「あり」を「存在し」と言い換えることができる。ところが、次の「いずれもこの二、三本の木であるのにほかならない。」の「ある」は存在を意味しない。「存在し」とことばにしたことを、言い換えると「存在する」という「運動」のなかで浮かび上がらせたもの(木という対象)から、「運動」を排除し、「木」そのものに返している。そこには「同定する」という別の意識の運動がある。
 ことばによって、存在を存在させ、その存在したものを反復(同定)することで、ことばとは、なにごとかを反復し、同定させる運動だということを貞久は言うのである。

 貞久のキーワードは「である」ということばである。何々があるのは何々である--その後半の「である」。「同定」の「ある」。それは、ことばを「存在」から解放し(乖離させ?)、意識の運動、思考の運動へと暴走させる。
 「明示」と「暗示」。それは「同定」されないかぎり意味はない。「同定」されるとき、そこに「ことば」が浮かび上がる。もの、ではなく、ことばが。その運動としてのことばの暴走を貞久は押し進めている。

 前に何を書いたか、私は忘れてしまったが、否定的なことを書いてきたのだとしたら、それを訂正しなければならない。この詩集はいい。おもしろい。刺激的だ。詩集になることで、断片的に発表されたときとは違った次元に飛躍・成長している。そう感じた。




明示と暗示
貞久 秀紀
思潮社

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シドニー・ポラック監督「追憶」(★★★★)

2010-08-01 12:14:07 | 午前十時の映画祭

監督 シドニー・ポラック 出演 バーブラ・ストライザンド、ロバート・レッドフォード
 
 バーブラ・ストライザンドが一生懸命に演技している。ふつう、こんなふうに一生懸命に演技されてしまうとなんだか嘘っぽくなるのだけれど、なぜか嘘っぽくならない。役柄の女性の一生懸命さとぴったり重なるからだねえ。「ケイティー」という女ではなく、あ、バーブラ・ストライザンドがいる、と思ってしまう。「ケイティー」ではなく、バーブラ・ストライザンドを見ている--それが「役」であるにもかかわらず、バーブラ・ストライザンド本人を見ているような気分になり、引きこまれる。
 卒業のダンスパーティー。ロバート・レッドフォードの動きをひたすら追いつづけるバーブラ・ストライザンドの目、その表情が、なんともすばらしい。あからさまに恋を語っている。まわりの誰かを気にすることなく、ただただロバート・レッドフォードを追っている。
 叶わぬ恋なのに、恋せずにはいられない。正確や主義も違う。合うはずがない。それでも恋してしまう。
 一方のロバート・レッドフォードの方も自分向きの女ではないとわかっているのに、どこか、そのいちずさにひかれるところがある。たぶん、彼のまわりの女とは何かが違うのだ。一生懸命さが違うのだ。そこに、もしかしたら「自分が変わる」というきっかけ、何か不思議な飛躍を見ているのかもしれない。
 いったん別れる決心をし、「眠れない」と訴えるバーブラ・ストライザンドをなぐさめに行く。そこで、ロバート・レッドフォードは「自分は変われない」(だったかな?)という。即座にバーブラ・ストライザンドが「私たちは変われる」と、「アイ」を「ウィー」に言い換える。「できない」を「できる」に言い換える。その瞬間、ロバート・レッドフォーは「まいったな」という。彼がかすかに感じていたこと、なぜバーブラ・ストライザンドにひかれるかといえば、その「私たち」と「できる」という強い確信をバーブラ・ストライザンドが持っているからなのだ。
 このシーンが、この映画のなかでいちばん美しい。そして、かなしい。
 結局、「変わる」ことは「できない」からである。人間は、変わらない。愛というのは、自分がどうなってもいいと覚悟して、自分以外の人間といっしょに生きることだが、それはやはりむずかしいことなのだ。
 でも、青春の、ある一瞬は、そのできないことをやってしまう。
 それが美しく、せつなく、忘れられない。

 もしこの映画の主人公がバーブラ・ストライザンドでなかったら、どんな映画になっていただろう。全身で「一生懸命」を真剣に伝えることができる女優でなかったら、どうなっていただろう。
 バーブラ・ストライザンドは美人である--と思ったことは、私は、一度もない。(ふっと、笑ったときの顔は、ユダヤ人特有の人懐っこさがあり、かわいいとは思うが。)でも、映画を見ていると美人であるかどうかということを忘れてしまう。真剣さ、うるさいくらいに真剣な姿勢に、知らずに私の姿勢が変わっているのに気がつく。「どうせ映画なんだから」という感じが消えて、そこにほんものの人間を見てしまうのだ。
 ロバート・レッドフォードがけんかのはてに「まいったなあ」というみたいに、ふと、まいったなあ、と思ってしまうのだ。何か大切なものを、はっと感じてしまうのだ。
 映画だけではなく、歌もまた同じである。聞いていて、何か歌を聞いているという感じを忘れるときがある。声を聞いている。何かを言おうとする必死な声。英語だから「意味」はわからないのだが、「意味」を超えて、「思い」を感じてしまう。いや「思い」というのは正確ではないかもしれない。詩のなかの、ことばのなかの「思い」ではなく、歌い、伝えようとするバーブラ・ストライザンドの生き方そのものを感じて、ふっと、背筋が伸びる一瞬があるのだ。

 *

 映画と関係があるかどうかわからないが……。
 バーブラ・ストライザンドにはニューヨークが似合う、と感じた。ロサンゼルス(ハリウッド)の場面ではバーブラ・ストライザンドは「空気」と向き合っていない。ニューヨークでは「空気」と向き合っている。「空気」のすみずみにまで、自分の「思い」を伝える、という感じで生きている。
 最後のロバート・レッドフォードの再会のシーンでも、自分の「本拠地」はニューヨークという感じが、「地」として出ている。おもしろいなあ、と思った。
                         (「午前十時の映画祭」26本目)


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高橋睦郎『百枕』

2010-08-01 00:00:00 | 高橋睦郎『百枕』
高橋睦郎『百枕』(書肆山田りぶるどるしおる、2010年07月10日発行)

 高橋睦郎『百枕』の「帯」に「沢山の言葉の枕に頭をあずけ、詩の夢天にあそぶ 三百三十三の句作と自在奔放なエッセイ」とある。ほかに、この本を紹介することばはいらない。
 でも、まあ、少しずつ書いていこう。
 私は俳句というものを知らない。「五七五」という形式や「季語」「切れ字」というようなことは学校で習ったので知っているが、そのことばを読んで考える、というようなことをしてこなかった。だから、句を読むのではなく、ただ、そこにあることばを読む。いつもと同じように。(引用は、簡略字、表記もそのまま再現できないので都合のいいように変更している。原文は本で確認してください。)

 「籠枕--七月」。これは竹であんだ枕、夏につかう。ちょうど、いまは夏。この本を読みはじめるには都合がいいし(?)、季節的にもすーっとはいっていける。私のような俳句の素人には、こういう偶然はあんばいがいい。

籠枕豊後竹田の生まれとか

 豊後竹田は竹工芸が盛んだ。そこで籠枕は生まれた。そういうことを単純に書いてあるのだが、この単純さに私はほっとする。
 その前に置かれた二句が手ごわい。

籠枕百モの枕の手はじめに

 これは、この句集(?)全体の発句。「百」(たくさん)書きますよ、と「あいさつ」のようなものだろう。七月、夏なので、枕のなかから「籠枕」を選び、季語としてとりこんでいる。そういうさらりとした感じがあって気持ちがいいのだけれど、表記につまずく。最初に断っておいたが、私は高橋の表記そのものを少しかえて引用している。
 この句では「百モ」。実際は「モ」は活字を小さくして「百」の右下にそえてある。「ひゃく」ではなく「もも」と読んでください、ということなのだろう。
 そういうことを承知の上でのことなのだが、私は、ここにつまずく。
 高橋は、自分の書いたことばに対して厳密に向き合っている。「ひゃく」と読まれては困る、と自己主張している。こういうこだわりは、詩人(作家)ならだれでも持っているものだと思うけれど、他方で私は書かれたことばは書かれた瞬間から作者の手を離れているとも思うので、作者の思いとは違うふうに読んでみたいなあという欲望にかられる。「誤読」したい、という欲望にかられる。その欲望を、いきなり、ぐいとおさえつけ「いけません」と叱られたような気持ちにもなる。
 そこでつまずく。
 でも、どんなに「誤読」しないでね、と念押しされても、私は「誤読」する。「誤読」するしかない。「誤読」が、私は好きなのだ。趣味なのだ。「正しい読み方」は誰かほかのひとにまかせたい。私は高橋のことばに触れながら、どこまで高橋から遠くへ行けるのか、そのことを楽しみたい。
 と、ごちゃごちゃしたが、私もまず「あいさつ」をしておいて……。
 二句目。

魂座(たまくら)に叶ふ軽ロさよ籠枕

 びっくりするなあ。「たまくら」は「手枕」を呼び込む。ちょっと横になる。自分の手を枕に目をつぶる。そんな気楽な感じ、本格的(?)に寝るのではない「軽い」感じ--それが「籠枕」と響きあうということかな?
 しっかり眠るには別の枕がある。「籠枕」は暑苦しい夜をしのぐかりそめ(?)の枕、軽い枕、かな?
 でも「たまくら」を「手枕」とは高橋は書かない。

魂座

 こういうことばがあるのかどうか知らない。私はいままでこういう「文字」を見たことがない。知らないことばである。知らない--けれど、「意味」がわかってしまう。
 魂(たましい)が座る、落ち着く、存在する、いる、集まる--それが籠枕。
 いや、これは正確ではなくて、魂が集まってきて、存在する「場」として「枕」というものがある。「枕」というものは、そういう「もの」である。ただし、「枕」なのかのひとつ、「籠枕」は、それほど「厳密」ではなく、「軽い」感じで魂が集まってくる、そしてそこに「いる」ための「場」である。
 そういうことなんだろうなあ、と思う。
 でも、いま私が書いたことは、「軽い」こと? なんだか哲学的でもあり(自分で言うのも変だけれど)、むしろ「重い」。「軽い」とは逆。でも、それを高橋は「軽ロ」さと結びつける。--ここにある、矛盾。私だけがつまずく矛盾。
 高橋は、そこではつまずかない。「重さ」を「軽ロさ」と書くことで、涼風のようにぬぐい去る。
 あ、でもねえ。
 なんだか、昼寝から覚めたとき、夢のなかで「魂」が動いていたなあというような印象がよみがえるような、何か引っ張られるものを感じてしまう。
 ほんとうは「涼しい」感じを味わわなければならないのかもしれないけれど、「涼しい」にたどりつけない悔しさのようなものが残る。--夢の残りのように。
 そのあとで、

籠枕豊後竹田の生まれとか

 これはいいなあ。気楽だなあ。気分が一新する。そして、四句目。

ふるさとは納戸の闇の籠枕

 つかわれていい籠枕が納戸の奥で眠っている。枕はひとが眠るためのものだが、籠枕の方が眠っている。おかしいね。
 もしかすると高橋は俳句を書きながら、ひとりで「連歌」をやっているのかもしれない。「連歌」は「五七五」の句と「七七」の句をくりかえすのだけれど、高橋は「七七」は書かず、「五七五」だけをつくる。いわば、変形の連歌だ。
 連歌というのは、それぞれの句自体の完成度(詩)も大切だが、句と句が結びついてつくりだす(生み出す)詩も大切である。
 ことばとことばが呼び合って、いままでそこに存在しなかった詩、独立した句だけでは存在しえない「運動の詩」を生み出す--それを連歌だと定義してみると、高橋の句は連歌である。一句一句もおもしろいが、句から句へと動いているこころの動きも楽しい。そこに詩がある。

 句をたくさんかきたいと思います、と「あいさつ」する。ここにはたくさんの「魂」が集まってきます。でも、深刻にならずに、「軽さ」をもって、あるいは「軽さ」のために集まってきます。「枕」ということばのなかで、たのしく「遊ぶ」ために集まってくるんです。
 高橋は、そんなふうにこの句集をはじめているのかもしれない。
 集まってきた「魂」--そのひとつ(?)は、私は「豊後竹田の生まれです」と名乗る。そこから「ふるさと」が呼び出され、ふるさとと言えば、「母」がどうしても思い出されるだろう。次は、「母」へとつづいてゆく。

たらちねの慈悲や古蚊帳古枕

 「籠枕」は「蚊帳」があるために、季重なりをさけて「古枕」。「蚊帳」の編み目が籠枕の編み目のようでもあるね。
 ことばはさらにさらに、蚊帳から蚊遣、そして実際に眠り、夢へと動いていく。
 全部書いてもしようがないので、その途中の、

鬆(す)の入りし頭ラ一つを籠枕

 この句。私は、とても気に入った。大好きだ。「すのいりし・かしらひとつを・かごまくら」。籠枕をして眠ると、頭の中も籠のように「すがはいる」。すかすか--というか、空隙ができる。句は、意味的には、すでにすの入った頭を籠枕にのせて眠るということなのかもしれないけれど、頭と籠枕が「鬆の入りし」という状態で「一体」になる。「ひとつ」になる。その「ひとつ」が「一つを」ということばのなかにもあって、とても自然にことばが結晶していく。
 「あたま」ではなく「かしら」というのも、とてもいいなあ。「あたま」はうるさいけれど、つまりあれこれむずかしいことをいいそうだけれど、「かしら」は厳しくてもむずかしいことはいわないね。

 この「籠枕」の最後、エッセイをはさんで、「反歌」のようにして一句置かれている。
一生の幾百モ幾盗汗(ねあせ)

 「いっしょうの・いくももまくら・いくねあせ」と読むのだろうか。「寝汗」は「盗汗」か。悪夢のときに流す汗--何かを盗まれるような感じの気持ちで流す汗が「ねあせ」ということかな? いや、そうではなくて、自分がもっていないものを何とか手に入れよう(盗もう)として懸命になって流す汗が「ねあせ」かな? 「日本語」を旅して、自分にないことば、高橋がもっていないことばを一つ一つ消化・昇華するこころみ--高橋は謙遜して、そう「あいさつ」しているのかもしれない。
 あ、こんなところで謙遜されると、読者は困ってしまうよね。まだ読み進んでいいかなあ。もうここで感想を書くのをやめた方が無難(?)かなあ、なんて悩んでしまうのだった。




百人一句―俳句とは何か (中公新書)
高橋 睦郎
中央公論社

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