詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高橋睦郎『百枕』(21)

2010-08-21 12:36:48 | 高橋睦郎『百枕』
高橋睦郎『百枕』(21)(書肆山田りぶるどるしおる、2010年07月10日発行)

 「枕経--三月」。「源氏物語」を夢中になって読んだ「更級日記」の少女を題材にして詠んだ句。その連作。

彼岸波(ひがんなみ)ひねもすのたり枕経(まくらぎやう)

彼岸此岸(しがん)霞わたれり波枕

生き死にの境朧や波枕

 「枕経」は死者の枕元で死者をおくるためのものだが、「人間畢竟ずるに死生一如(ししょういちにょ)、生者に枕経してはいけないということはあるまい」(高橋のエッセイ)で、「源氏物語」に夢中になっている少女に「枕経」をしている--そこから句は始まる。
 その「枕経」が、「波枕」へとすっと動いてゆく。「ひねもすのたり」「霞」「朧」をとりこみながら、「生死の境」が消えていく。「更級日記」の少女には、「彼岸」(あの世、源氏の世界)と「此岸」(現実の世界、法華経を勉強しなければならない)の区別はなくなる。いや、なくなるわけではないのだが、自分で「現実」を否定して、「彼岸」へと行ってしまうのだ。
 「源氏物語」を読んでいるとき、「読む」という行為において少女は生きている。けれど「物語」に夢中になるとき、少女は「現実」にはいない。「現実」は「死」んだ状態であり、「彼岸(虚構)」を生きている。生きることが(読むことが)死ぬこと(現実から乖離してしまうこと)であり、その死を生きることこそ、少女にとってはすべてなのである。
 少女にとっての「死生一如」は、そんなところだろう。

 この句の連作でおもしろいのは(エッセイで書いていることだが)、その「経」から「経」を読むひとへと視点が動いていくことである。いつのまにか「源氏」を読む少女はどうでもよくなり、経を読んでいるのはだれ? というより、どんなひと? へと関心が動いていく。
 この逸脱。そして、この逸脱の仕方に高橋の独自性が出る。高橋は、それは高橋の独自性ではない--と装うために、「枕草子」を引用し、田中裕明の句を引用し、ロシア正教の僧までもちだしている。僧は美僧でなければならない、声がよくなければならない。
 そして、反句。

枕経美僧に誦させ朝寝坊

 さて、朝寝坊の理由は? まさか「源氏」を読んでいたからではないよね。ここで朝寝坊しているのは「少女」ではなく、高橋なのだから。
 そして、昨夜、高橋はほんとうに「死んだ」んだよね。つまり、彼岸へ旅したんだよね、だからその経は、その「死んだ」高橋を彼岸へおくり、眠っている高橋を「生」の現実へ呼び戻す経でもある。目覚めながら、うーん、美僧がそばにいる、と思いながら、倦怠感を楽しんでいるのだろう。 





たまや―詩歌、俳句、写真、批評…etc. (04)
加藤 郁乎,岡井 隆,中江 俊夫,相澤 啓三,高橋 睦郎,佐々木 幹郎,建畠 晢,水原 紫苑,小澤 實,時里 二郎
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北爪満喜『飛手の空、透ける街』

2010-08-21 00:00:00 | 詩集
北爪満喜『飛手の空、透ける街』(思潮社、2010年07月20日発行)

 北爪満喜『飛手の空、透ける街』のなかでは、「飛手」がいちばん好きだ。同人誌(?)に書かれたものを読んだ記憶がある。感想を書いたかもしれない。はっきりしない。以前書いたにしろ、また書いてみたいと思う作品である。

掌を右と左
うちがわの親指の第一関節をつけて
コピー機の上にそっと並べる

覆いを降ろしてコピーすると
ゆるく指の曲がった二つの掌の形は二枚の羽になる
コピー機からはき出された紙には 蝶がいる
わたしから剥がれることができて
手の形は
自由に 飛んでゆく
羽ばたいてゆく

 ここに書いてあることは現実ではない。蝶が飛んでゆく--が現実ではない、のではなく、両手をコピーするというのが現実ではない。両手をスキャナーの上において、どうやってコピーのスタートボタンを押す? 私はとてもそんなことはできない。だから、このまるで現実をきちんと書いているかのような部分が信じられない。あ、でたらめを書いている。嘘を書いている、と私は思う。
 けれども、この作品が好きだ。

わたしから剥がれることができて

 この1行の、特に「剥がれる」という動詞のつかい方に引きつけられる。「わたしから剥がれる」ものだけが、自由に飛ぶのだ。自由とは、わたしから剥がれた場所、離れた場所にあるのだ。いや、離れるという運動そのもののなかから始まるのだ。そして、その離れるを北爪は「剥がれる」という。
 離れると剥がれる。
 この、非常に音のよく似たことば(特に鼻濁音で「剥がれる」を発音する人--私は鼻濁音派である--には、その近さがよくわかると思う)は、とてもおもしろい。
 離れるには、その前に接触がなければならない。剥がれるはどうだろう。接触よりもよっと強い感じ--密着。点(線)ではなく面として密着しているもの、それを剥がす。

 しかし、この「剥がす」は、実はとても不思議である。ここで北爪が「剥が」しているのは彼女自身の「肉体」ではない。たとえば「皮膚」ではない。コピーである。それは最初から「離れている」。「剥がす」必要はない。それでも、そのコピーが「わたし」から「離れる」ことを「剥がれる」と北爪は言うのだ。
 どういうことだろう。視点を変えて見つめなおす必要があるかもしれない。

 コピーとは何だろう。
 それは、たぶん北爪にとっては「肉体」よりも「肉体」なのである。「肉眼」ではなく、機械によって「客観的」にとらえられた存在。コピーは「わたし」の外側を正確に(客観的に)再現したものである。「機械」によって、間違いなく「正確」に再現したものである。その「客観」が「剥が」れる。
 「客観」とは「主観」の逆。自分が見つめたものではなく、いわば他人が見つめたもの。コピー機という「他人(他者)」が見つめた(把握した)ものが、「わたし」から「剥がれ」てゆく。そのとき、「わたし」は「剥き出し」になる。
 「剥がれる」と「剥き出し」は同じ「剥」という漢字で、ぴったりと重なる。

 ここから、北爪の思考はかなり独特になる。

手は秘密にしていても
ほんとうは飛ぶことができる潜在能力があって
夢のなかでは
いつも自由に飛んでいる

 「わたし」から「剥がれ」、飛んで行ったコピーは、「客観」でありながら、実は「潜在能力」「夢」--そういう、いわば「肉体」の奥にあるもの(主観)を映し出すのだ。コピーと肉体の奥--そのけっして密着しないはずのものが、呼応し合う。
 「主観」と「客観」が、「わたし」と「剥がれてゆくもの」のあいだを飛び交う。「わたし」と「剥がれてゆくもの」のあいだに、「透明な空間」ができ、その「透明な空間」が、北爪の、意識としての「肉体」なのである。「ことばの肉体」の場なのである。
 北爪は、そういう「場」をつくりだしたい。そういう「場」でことばを動かし、ほんとうの自由を手に入れたい。
 そのために「わたし」をコピーし、「わたし」を剥がすのだ。
 これは、「わざと」やる行為である。だから、詩の冒頭の、自分の手のコピーをとるという不可能も、「わざと」なのである。そういうことは実際の肉体にはできないけれど、実際の肉体を意識の肉体で操作して、意識がコピーをとる、ということは可能なのである。
 意識的に「肉体」を「客観化」し、それを「肉体」から剥がす。そして、「肉体」の内部を、「透明」なものとして剥き出しにする。そして、解放する。そのとき、自由がうまれる。

 北爪は、写真に添えて詩を書くことがあるが、その写真とはコピーでもある。世界を映せば、その写真は世界のコピーである。しかも「客観的」なものである。機械で再現した「正しい」何かである。
 その「正しい」ものにことばをつけくわえる(詩を書き添える)とは、どういうことだろうか。コピーにことばを「密着」させているのか、あるいはコピーがかかえこむ何かをことばで「剥がし」ているのか。映像としてのコピーを、ことばでコピーする。それは世界の映像を、世界から「剥がす」ということかもしれない。
 ふつう、詩人は、世界と「わたし」のあいだに「映像」を仲介させない。映像というコピーを仲介させない。直接ことばで世界を引き剥がす。北爪はそういう多くの詩人たちとは違って、いったん「映像」として世界を把握して、その「映像」そのものを世界から引き剥がすという方法をとるのだ。
 世界に密着した映像、その映像にことばを密着させ、映像ではなくしてしまう。ことばにしてしまう。そうすると、映像と世界のあいだに、ことばが割り込み、映像がひきはがされてしまう。
 北爪の「密着」と「剥がす」は、そういう関係にある。そして、世界と、その引き剥がされた映像のあいだ、透明な空間に、ことばが自由に飛び回るのだ。

一人になって 何か手を動かしたくなったとき
にぎったボールペンの先から 変わった葉っぱや
ぐるぐるした蔓や
繋がりのよくわからない単語などが
インクの線で現れるとき
飛んだ記憶が そこまで来ている

 ここに描かれているのは、剥がされたコピーと「肉体」とのあいだの「透明な空間」のできごとであり、また同時に、「客観的な皮膚」を引き剥がされて「透明になった肉体」の内部でもある。「記憶」ということばが出てくるが、それは「透明な肉体」、「肉体」が透明になることによって見えてくる、はるかな「内部」なのである。
 「はるかな内部」を見るために、北爪は、自分をコピーし、それを剥がすという意識操作をおこなうのである。

 この詩は嘘を書いている--と私は、この感想の最初に書いた。
 しかし、その嘘は、ほんとうにいいたい何かを言うための嘘である。「虚構」である。ことばだけが、意識だけが、そういうことができる。
 北爪は、ことばだけができることをやるために、「わざと」嘘を書いたのだ。



 「密着」に関する補足。
 「密着」を、北爪は、独特のことばで表現している。

オリオン座と私で
ぴたっ と一瞬
どこにも不安がないような
瞬間を 固く 鳴らさなくては                 (「かならず」)

ぴたっと本を閉じるように思い付いたことを閉じようとしても
ぴたりと閉じられない どこかずれてしまって          (「保護区」)

 「ぴたっ」「ぴたり」。それが「密着」。
 一方に、そういう「密着」を夢見る北爪がいて、他方にその「密着」を「剥が」そうとする北爪がいる。
 「ぴたり」は、ことばでは簡単だが、ほんとうは不可能である。「ずれ」がかならず、そこに存在する。コピーでも、写真でも同じである。それは「客観的」ではあるけれど、ほんものではない。「ずれ」がある。何か、間違いのようなものがある。とらえきれない何かがある。
 それを「補修」するのが、ことばである。
 「ずれ」を補修するのもことば、「ずれ」を利用して、その「ずれ」を「剥がす」のもことば。
「ずれ」がなくなり、「ぴたり」重なれば、それはある意味での「透明」である。「客観」と「主観」の完全な一致。また「コピーのずれ」を引き剥がせば、そこには剥き出しの「主観」が「客観」のようにさらけ出される。「主観」が透明になる。
 ことばによって、主観を透明にする--それが北爪の欲望かもしれない。透明な主観、他者によってゆがめられない主観--それを北爪は「自由」と呼んでいるのだと思う。

 北爪にとって「主語」はいつでも「ことば」である。「ことば」を生きている。


飛手の空、透ける街
北爪 満喜
思潮社

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