斉藤倫『本当は記号になってしまいたい』(私家版、2010年05月05日発行)
斉藤倫『本当は記号になってしまいたい』は「対話」で構成された詩集である。そしてその対話の特徴は「すれ違い」である。ことばはきちんと「意味」をかわし合っているのだが、その結果、そこから何かが生まれるということはない。
「Wash in the Sahara」という作品。
ことばは、「あー」というような、ことばにならないことばを挟んで、それでもことばになろうとしている。そのとき、斉藤は「たとえ話」というものを思いつく。
「たとえ話」というのは、「本物」の話ではない。本物がどこかにあり、それの「代用」である。それは「本物」じたいでは見えにくいものを、少し角度をかえることで見えやすくしたもの、といえるかもしれない。
そのとき「本物」と「たとえ話」のあいだに、すきま、距離がある。その距離が「すれ違い」である。すれ違うこと、衝突しないことによって、距離があるということがわかる、ということもある。
そこでは何も起きない。
何かが起きると、それにあわせて人間は変わってしまうものだけれど、何も起きないので斉藤も変わりようがない。何もそこからは生まれてこない。
生まれてこないのだけれど。
これからが、ちょっとややこしい。どう書いていいのかわからないのだが、かわらないことの「内部」において何かがたまりつづける。ことばをつなげればつなげるほど、ことばにならないものがたまりつづける。
斉藤は三つのことばを書いているが、「内部」でたまりつづけるものは、その三つのことばではない。三つ以外のことばである。それは、「正解」を探していけば行くほど遠ざかってしまう何かである。ことばは増えるけれど、そのことばではないことばだけが「正解」として遠くへ押しやられる。
その結果、「すきま」が拡大する。
拡大する「すきま」を斉藤はみつめていることになる。
もし、その「すきま」をきちんと埋め、「本物」と「たとえ話」がきっちり衝突することができるならば……そういうことばがあるならば、それは「記号」かもしれない。
「記号になってしまいたい」を、私は、そういうふうに読んだ。
「勇気」「愛」「裏切り」ということばだから「本物」と「たとえ話」がすれ違う。「何かのたとえ話」の「何か」を「勇気」「愛」「裏切り」という「わかることば」にするから、論理は虚無へ動いていくのだ。
「すきま」を埋める何かなのだから、最初から「何か」を記号、たとえば「X」とか「A」というような「記号」にしてしまって、対話ができるなら、斉藤のみつめているものは変わってくるのだ。
Xではわからない、というかもしれない。それは、「いま」「ここ」にある「X」がひとつだからである。斉藤が書いているあいまいなものすべてを「ことば」ではなく「X」に置き換え、そのあとその「X」を割り出すための「数式」を作り上げれば、そこに「X」は「生まれなかったことば」として出現してくるはずである。
でも、まあ、そんな面倒なことをしなくてもいい。
斉藤はことばにならないことがあることを、ことば(対話)のなかで浮かび上がらせ、それで満足している。「X」が何であるかを解明してしまうと、「わたし」が変わってしまう。それは、ちょっと問題が大きいかもしれない。そうならないように、けれど、「距離」があるということだけははっきりさせたいのだ。
「二人っきりでうたううた」という詩がある。この「ふたり」は「本物」と「たとえ話」のようなものである。とてもおもしろい部分がある。
そうすると、「シャーロック・ホームズ」というのは、「シャーロック・ホーム」たち、「シャーロック・ホーム」の複数形?
この「数式」が「イカれている」かどうかは、わからない。わからないけれど、こういう「対話」をなりたたせる「二人」ということの意味、ことばは複数の存在のあいだでやりとりされ、ことばにならないものをひっぱりだすというのはおもしろい。
「正解」なんて、どうでもいい。
「X」の値など、求めなくていい。
だいたい、ことばというものは「間違える」ためのものである。記号「X」になったら、間違えることができない。それでは、私はつまらないと思う。「記号になってしまいたい」書きながら、記号ではなくことばを書いている。斉藤は、どこかで間違えることの大切さを知っていて、逆説的に「記号になりたい」と書きながら、記号ではなく詩を、ことばを書いている--そう思う。
斉藤倫『本当は記号になってしまいたい』は「対話」で構成された詩集である。そしてその対話の特徴は「すれ違い」である。ことばはきちんと「意味」をかわし合っているのだが、その結果、そこから何かが生まれるということはない。
「Wash in the Sahara」という作品。
「サハラ砂漠の洗濯指数って
きっとすごく高いよね」
「そうね」
「だけど
水がないからけっきょく洗濯できない」
「あー」
「ずっとそういうかんじなんだ
オレの人生」
「洗濯はしたほうがいいよ」
「しています それはたとえ話」
「よかった でも
世の中のあらゆることは
かならずほかの何かのたとえ話になってるよね」
「洗濯をしてるのは本当だよ」
「よかった でも
それもきっと何かのたとえ話になっているのよ
ざんねんだけど」
「勇気とか?」
「愛とか」
「裏切りとか」
ことばは、「あー」というような、ことばにならないことばを挟んで、それでもことばになろうとしている。そのとき、斉藤は「たとえ話」というものを思いつく。
「たとえ話」というのは、「本物」の話ではない。本物がどこかにあり、それの「代用」である。それは「本物」じたいでは見えにくいものを、少し角度をかえることで見えやすくしたもの、といえるかもしれない。
そのとき「本物」と「たとえ話」のあいだに、すきま、距離がある。その距離が「すれ違い」である。すれ違うこと、衝突しないことによって、距離があるということがわかる、ということもある。
そこでは何も起きない。
何かが起きると、それにあわせて人間は変わってしまうものだけれど、何も起きないので斉藤も変わりようがない。何もそこからは生まれてこない。
生まれてこないのだけれど。
これからが、ちょっとややこしい。どう書いていいのかわからないのだが、かわらないことの「内部」において何かがたまりつづける。ことばをつなげればつなげるほど、ことばにならないものがたまりつづける。
「勇気とか?」
「愛とか」
「裏切りとか」
斉藤は三つのことばを書いているが、「内部」でたまりつづけるものは、その三つのことばではない。三つ以外のことばである。それは、「正解」を探していけば行くほど遠ざかってしまう何かである。ことばは増えるけれど、そのことばではないことばだけが「正解」として遠くへ押しやられる。
その結果、「すきま」が拡大する。
拡大する「すきま」を斉藤はみつめていることになる。
もし、その「すきま」をきちんと埋め、「本物」と「たとえ話」がきっちり衝突することができるならば……そういうことばがあるならば、それは「記号」かもしれない。
「記号になってしまいたい」を、私は、そういうふうに読んだ。
「勇気」「愛」「裏切り」ということばだから「本物」と「たとえ話」がすれ違う。「何かのたとえ話」の「何か」を「勇気」「愛」「裏切り」という「わかることば」にするから、論理は虚無へ動いていくのだ。
「すきま」を埋める何かなのだから、最初から「何か」を記号、たとえば「X」とか「A」というような「記号」にしてしまって、対話ができるなら、斉藤のみつめているものは変わってくるのだ。
世の中のあらゆることは/Xのたとえ話になっている
Xではわからない、というかもしれない。それは、「いま」「ここ」にある「X」がひとつだからである。斉藤が書いているあいまいなものすべてを「ことば」ではなく「X」に置き換え、そのあとその「X」を割り出すための「数式」を作り上げれば、そこに「X」は「生まれなかったことば」として出現してくるはずである。
でも、まあ、そんな面倒なことをしなくてもいい。
斉藤はことばにならないことがあることを、ことば(対話)のなかで浮かび上がらせ、それで満足している。「X」が何であるかを解明してしまうと、「わたし」が変わってしまう。それは、ちょっと問題が大きいかもしれない。そうならないように、けれど、「距離」があるということだけははっきりさせたいのだ。
「二人っきりでうたううた」という詩がある。この「ふたり」は「本物」と「たとえ話」のようなものである。とてもおもしろい部分がある。
「とんびってイカれてるね」
「そう?」
「うん。くるりと輪をかいて
テムズ川の上を」
「テムズ川のテムズっていいなあ」
「テムのっていういみ?」
「テムたちっていういみでしょう」
「あ! シャーロック・ホームズが溺れてる!」
そうすると、「シャーロック・ホームズ」というのは、「シャーロック・ホーム」たち、「シャーロック・ホーム」の複数形?
この「数式」が「イカれている」かどうかは、わからない。わからないけれど、こういう「対話」をなりたたせる「二人」ということの意味、ことばは複数の存在のあいだでやりとりされ、ことばにならないものをひっぱりだすというのはおもしろい。
「正解」なんて、どうでもいい。
「X」の値など、求めなくていい。
だいたい、ことばというものは「間違える」ためのものである。記号「X」になったら、間違えることができない。それでは、私はつまらないと思う。「記号になってしまいたい」書きながら、記号ではなくことばを書いている。斉藤は、どこかで間違えることの大切さを知っていて、逆説的に「記号になりたい」と書きながら、記号ではなく詩を、ことばを書いている--そう思う。
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