詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高橋睦郎『百枕』(17)

2010-08-17 00:00:00 | 高橋睦郎『百枕』
高橋睦郎『百枕』(17)(書肆山田りぶるどるしおる、2010年07月10日発行)

 「枕絵--十一月」。「枕絵」ということばを、私はつかったことがない。読んだ記憶も、もちろん、ない。ないのだけれど、その文字を読んだ瞬間、とくに「絵」が「正字」で書かれていて複雑だったりすると(高橋は「正字」をつかっている)、「絵」のときよりももっと濃厚に、あるイメージが浮かんでくる。この「絵」は「春画」だ。この「直感」には「枕=セックス」という意識も反映しているのだけれど、不思議なことに、こういう「直感」というのは間違いを犯さない。絶対に的中する。これは、なぜだろう。
 --というようなことは、文学とは関係ないことだろうか。関係なさそうでいて、とても関係があるように、私には思える。
 発句。

枕絵に行き当りけり冬支度

 これが「秋支度」だったら、どうだろう。「枕絵」が春画だとしても、その春画がすっきりと「本能」のなかから立ち上がってはこない。冬--寒くなって、ひとの温もりが恋しいという感じのなかで「枕絵」があらわれると、「寒い、寒い」といいながらも、互いの衣服をはだけさせてセックスをしはじめる感じと重なり、「春画」が自然に感じられる。
 「枕絵」が「春画」であることは、季節には関係がないのだが、それでもどの季節、どのようなことばとともにつかわれるかによって、「本能」に働きかけてくる力の度合いが違う。
 「枕絵(春画)」と「冬支度」か。ぴったりだなあ。そう「本能」が感じるとき、その句はすばらしく輝いて見える。「行き当りけり」もいいなあ。それは探していたのではない。偶然、でてきたのだ。この偶然の感じが、なんともなつかしい。そして、そのなつかしさが「枕絵」を活気づかせる。「行き当りけり」だからこそ、「枕絵」が「春画」だとより明確にわかる。もしそれが「春画」ではなくても、「春画」だと「誤読」してしまう。私の「本能」は。
 この句には、そういう「本能」に働きかけてくることばが、とても自然に動いている。だから、とても好きだ。

 ことばには、「意味」がわからなくても、「直感」でわかることばがある。「本能」が反応してしまうことばがある。そして、その反応はたいてい「正しい」。それが「誤読」であっても、何かしら「正しい」ものを含んでいる。「本能」の運動の方向性(ベクトル)として……。
 そうして、そういう「直感」が「正しい」とわかったとき、文学はとても楽しい。あ、これこそ私が感じていたこと--と他人が書いたことばなのに、そう思ってしまう。作者は私を勘違いしてしまう。まるで自分が書いたことばだと思ってしまう。「誤読」してしまう。
 「直感」で読む「文学」のよろこびは、「本能」が「正しい」とわかるよろこびと同じである。してはいけないのだけれど、それをしてしまう。たとえば「春画」によろこびを感じるというのは「わいせつ」であって、そうしない方が倫理的(?)には正しいと言われるようなことがらなのだけれど、「本能」はよろこぶねえ。そして「春画」があるということは、そういう「本能」を肯定した仲間(?)がいるという証拠だねえ。こういう「本能」をかかえた人間はひとりではない--自分がひとりではないという安心のよろこび。そう「誤読」するよろこび。
 同じ罪を犯すよろこび。
 文学というのは、「いま」「ここ」から逸脱していくこと。罪を犯すこと。逸脱を肯定すること。そういうものを求める「本能」が「直感」として何かをつかみ取り、それがつかみとったものそのものだったときの、うれしさ。

 あ、これは高橋の「枕絵」連作とは、それこそ関係ないことなのだけれど、きょう私が感じたのは、そういうことだ。

枕絵の防虫香も今朝の冬

 この句も大好きだ。「枕絵」は視覚。「防虫香」は嗅覚。「今朝の冬」は触覚(寒い、と感じる肌の感覚)。「枕絵」が視覚にとどまらず、嗅覚や触覚と接触・融合して「肉体」そのものにひろがっていく。

枕絵を畳の上や神の留守

 「神の留守」は「神無月」だからそう書いたというかもしれないけれど、ねえ、ちょっと違うことも考えるよね。「いやらしい、そんなものを広げて」と怒る「家の神」の留守。こっそりとではなく、畳の上に堂々と広げている。どれがいいかなあ、と吟味している。おかしいね。俳諧だねえ。



枕絵を並べひさぐや返り花

 うーん。「ひさぐ」か。こんなふうしてつかうのか。
 これ以上書くと、怪しいことになりそうなので、きょうの感想はここまで。






高橋 睦郎,高岡 一弥,森田 拾史郎
ピエブックス

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高木敏次『傍らの男』(2)

2010-08-17 00:00:00 | 詩集
高木敏次『傍らの男』(2)(思潮社、2010年07月25日発行)

 高木敏次『傍らの男』は「私は」が省略された詩集である。省略してしまうのは、高木にとって「私は」は自明のことであり、「肉体」であるからだ。書く必要がないのだ。こういう「肉体」となってしまっていることばを私は「キーワード」と呼ぶ。あるいは「思想」とも呼ぶ。そして、このキーワードは、書く必要はないのだけれど、あるとき、どうしても「歪み」といっしょに噴出してきてしまう。その「私は」は、きのう読んだ「居場所」の「私は何かかなしそうだったが」の「私は」である。それは省略されている「私は」と同じものではなく、ほんとうは「私が」と書かれるべき「私は」であった。「私が」と書かれるべきなのに「私は」という形で、まちがって書かれてしまう--そのときに、省略してきた「私は」のあり方が、そこに垣間見えるのである。
 (私の書いていることはなんだか、ややこしい。面倒くさい。だからこそ「思想」なのだと、思ってもらいたい。)


 高木敏次『傍らの男』は「私は」が省略された詩集である--という視点から、詩集を読み直してみる。巻頭の「帰り道」。その冒頭。

私のことはもう考えないで
路上で野菜を売っている女を見る

 この1行目の冒頭に「私は」が省略されている。「(私は)私のことはもう考えないで/路上で野菜を売っている女を見る」。これは「私が」をさらに補って書いてみると、「(私は)私(がどういうような人間であるかというような)ことはもう考えないで/路上で野菜を売っている女を見る」になる。(がどういうような人間であるかというような)はつづまって「の」になっている。
 私は、いま「私(がどういうような人間であるかというような)こと」と適当に補ってみたが(書き直してみたが)、そのかっこのなかのことばは、まあ、正確ではなく、適当なものである。厳密なものではない。「厳密」に書くことは、不可能なことである。高木の「肉体」そのものとなっていることがらだから、「ことば」には不向きである。
 ことばとは「分節」作用だが、「肉体」は「分節」されないものだからである。そして、この「分節されない」という表現は、また、正確ではない。厳密に、あるいは科学的に、客観的に「分節されない」というだけのことであり(あるいは、厳密に「分節できない」ということであり)、実際には「分節」の可能性(?)のようなものを、「私は」感じているのだ。
 「分節されない」は「未生」と言い換えることもできるかもしれない。存在するが生まれていないのだ。そこから必ず生まれてくるものなのだ。

 この「帰り道」は、この詩集のなかでは「初期」のものだろうか。(最初に読むから「初期」と感じるだけなのか……)。ちょっと不思議である。「他人」が登場しているからである。2行目の「女」がそうであるし、その後も「他人」が出てくる。

大通りへは
と知っているような人に
たずねられた
市場は遠い
隣の部屋から物音がきこえるように
だれかが遠くにいそうだ
水をすくい上げるように手を動かす人
急いで家へ帰る人々

 ここに書かれている「人」は「私(が)」とは違った存在である。そういう「人」を定義するのに、とてもおもしろいことばがつかわれている。「だれかが遠くにいそうだ」の「遠く」である。
 「私(が)」は「私(は)」とぴったりくっついている。「分節」することができない状態にある--つまり、最接近(最密着)の状態にあるのに対し、だれかは「遠い」。けれども、この「遠い」はほんとうに「遠い」わけではない。離れているけれど、「近い」。矛盾したことばである。「隣の部屋から」の「隣」がそのことを語っている。「遠い」といっても「隣」なのだ。
 そして「隣」なのに「遠い」ということは、ひるがえってみると(あ、この日本語は正しいだろうか……)、「私(が)」と「私(は)」の密着(非分離・非分節)のなかにも「距離」、つまり「遠い」が入り込む余地があることを暗示しないだろうか。
 「遠い(遠く)」は、「私(が)」と「私(は)」を高木に再び呼び寄せる。「私のことはもう考えない(で)」と1行目に書いたにもかかわらず、「私(は)」考えてしまう。詩の最後の部分。

もしも
遠くから
私がやってきたら
すこしは
真似ることができるだろうか

 そう考えているのは、省略された「私(は)」である。「私(が)どのような人間であるかわからないが、その私(が)」「遠くから」「やってきたたら」……。「私(は)」「私(が)」を真似ることができるだろうか。
 これは、もし、未分化の、非分節の、未生の「私(が)」、「遠く」から(つまり、密着しているのにそこから分離する形で出現するという運動をとったときに)、「私(は)」、「私(が、そうであるもの)」になれるだろうか、という意味になるだろう。「私(は)」「私(が、そうであるもの)」になりたい、という本能的欲望の表現でもあるだろう。

 この詩集は、すごい。ほんとうに、すごい。高木のことばを追いかけるには、まず、私(谷内)自身を叩き壊さないといけないが、高木のことばを読むと、私自身を叩き壊す前に私が叩き壊されてしまって、そんな状態では高木のことばを追いかけることはできない。ページをめくるごとに書きたいことがあふれてくるのに、ことばが追い付かない。

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