高橋睦郎『百枕』(17)(書肆山田りぶるどるしおる、2010年07月10日発行)
「枕絵--十一月」。「枕絵」ということばを、私はつかったことがない。読んだ記憶も、もちろん、ない。ないのだけれど、その文字を読んだ瞬間、とくに「絵」が「正字」で書かれていて複雑だったりすると(高橋は「正字」をつかっている)、「絵」のときよりももっと濃厚に、あるイメージが浮かんでくる。この「絵」は「春画」だ。この「直感」には「枕=セックス」という意識も反映しているのだけれど、不思議なことに、こういう「直感」というのは間違いを犯さない。絶対に的中する。これは、なぜだろう。
--というようなことは、文学とは関係ないことだろうか。関係なさそうでいて、とても関係があるように、私には思える。
発句。
これが「秋支度」だったら、どうだろう。「枕絵」が春画だとしても、その春画がすっきりと「本能」のなかから立ち上がってはこない。冬--寒くなって、ひとの温もりが恋しいという感じのなかで「枕絵」があらわれると、「寒い、寒い」といいながらも、互いの衣服をはだけさせてセックスをしはじめる感じと重なり、「春画」が自然に感じられる。
「枕絵」が「春画」であることは、季節には関係がないのだが、それでもどの季節、どのようなことばとともにつかわれるかによって、「本能」に働きかけてくる力の度合いが違う。
「枕絵(春画)」と「冬支度」か。ぴったりだなあ。そう「本能」が感じるとき、その句はすばらしく輝いて見える。「行き当りけり」もいいなあ。それは探していたのではない。偶然、でてきたのだ。この偶然の感じが、なんともなつかしい。そして、そのなつかしさが「枕絵」を活気づかせる。「行き当りけり」だからこそ、「枕絵」が「春画」だとより明確にわかる。もしそれが「春画」ではなくても、「春画」だと「誤読」してしまう。私の「本能」は。
この句には、そういう「本能」に働きかけてくることばが、とても自然に動いている。だから、とても好きだ。
ことばには、「意味」がわからなくても、「直感」でわかることばがある。「本能」が反応してしまうことばがある。そして、その反応はたいてい「正しい」。それが「誤読」であっても、何かしら「正しい」ものを含んでいる。「本能」の運動の方向性(ベクトル)として……。
そうして、そういう「直感」が「正しい」とわかったとき、文学はとても楽しい。あ、これこそ私が感じていたこと--と他人が書いたことばなのに、そう思ってしまう。作者は私を勘違いしてしまう。まるで自分が書いたことばだと思ってしまう。「誤読」してしまう。
「直感」で読む「文学」のよろこびは、「本能」が「正しい」とわかるよろこびと同じである。してはいけないのだけれど、それをしてしまう。たとえば「春画」によろこびを感じるというのは「わいせつ」であって、そうしない方が倫理的(?)には正しいと言われるようなことがらなのだけれど、「本能」はよろこぶねえ。そして「春画」があるということは、そういう「本能」を肯定した仲間(?)がいるという証拠だねえ。こういう「本能」をかかえた人間はひとりではない--自分がひとりではないという安心のよろこび。そう「誤読」するよろこび。
同じ罪を犯すよろこび。
文学というのは、「いま」「ここ」から逸脱していくこと。罪を犯すこと。逸脱を肯定すること。そういうものを求める「本能」が「直感」として何かをつかみ取り、それがつかみとったものそのものだったときの、うれしさ。
あ、これは高橋の「枕絵」連作とは、それこそ関係ないことなのだけれど、きょう私が感じたのは、そういうことだ。
この句も大好きだ。「枕絵」は視覚。「防虫香」は嗅覚。「今朝の冬」は触覚(寒い、と感じる肌の感覚)。「枕絵」が視覚にとどまらず、嗅覚や触覚と接触・融合して「肉体」そのものにひろがっていく。
「神の留守」は「神無月」だからそう書いたというかもしれないけれど、ねえ、ちょっと違うことも考えるよね。「いやらしい、そんなものを広げて」と怒る「家の神」の留守。こっそりとではなく、畳の上に堂々と広げている。どれがいいかなあ、と吟味している。おかしいね。俳諧だねえ。
*
うーん。「ひさぐ」か。こんなふうしてつかうのか。
これ以上書くと、怪しいことになりそうなので、きょうの感想はここまで。
「枕絵--十一月」。「枕絵」ということばを、私はつかったことがない。読んだ記憶も、もちろん、ない。ないのだけれど、その文字を読んだ瞬間、とくに「絵」が「正字」で書かれていて複雑だったりすると(高橋は「正字」をつかっている)、「絵」のときよりももっと濃厚に、あるイメージが浮かんでくる。この「絵」は「春画」だ。この「直感」には「枕=セックス」という意識も反映しているのだけれど、不思議なことに、こういう「直感」というのは間違いを犯さない。絶対に的中する。これは、なぜだろう。
--というようなことは、文学とは関係ないことだろうか。関係なさそうでいて、とても関係があるように、私には思える。
発句。
枕絵に行き当りけり冬支度
これが「秋支度」だったら、どうだろう。「枕絵」が春画だとしても、その春画がすっきりと「本能」のなかから立ち上がってはこない。冬--寒くなって、ひとの温もりが恋しいという感じのなかで「枕絵」があらわれると、「寒い、寒い」といいながらも、互いの衣服をはだけさせてセックスをしはじめる感じと重なり、「春画」が自然に感じられる。
「枕絵」が「春画」であることは、季節には関係がないのだが、それでもどの季節、どのようなことばとともにつかわれるかによって、「本能」に働きかけてくる力の度合いが違う。
「枕絵(春画)」と「冬支度」か。ぴったりだなあ。そう「本能」が感じるとき、その句はすばらしく輝いて見える。「行き当りけり」もいいなあ。それは探していたのではない。偶然、でてきたのだ。この偶然の感じが、なんともなつかしい。そして、そのなつかしさが「枕絵」を活気づかせる。「行き当りけり」だからこそ、「枕絵」が「春画」だとより明確にわかる。もしそれが「春画」ではなくても、「春画」だと「誤読」してしまう。私の「本能」は。
この句には、そういう「本能」に働きかけてくることばが、とても自然に動いている。だから、とても好きだ。
ことばには、「意味」がわからなくても、「直感」でわかることばがある。「本能」が反応してしまうことばがある。そして、その反応はたいてい「正しい」。それが「誤読」であっても、何かしら「正しい」ものを含んでいる。「本能」の運動の方向性(ベクトル)として……。
そうして、そういう「直感」が「正しい」とわかったとき、文学はとても楽しい。あ、これこそ私が感じていたこと--と他人が書いたことばなのに、そう思ってしまう。作者は私を勘違いしてしまう。まるで自分が書いたことばだと思ってしまう。「誤読」してしまう。
「直感」で読む「文学」のよろこびは、「本能」が「正しい」とわかるよろこびと同じである。してはいけないのだけれど、それをしてしまう。たとえば「春画」によろこびを感じるというのは「わいせつ」であって、そうしない方が倫理的(?)には正しいと言われるようなことがらなのだけれど、「本能」はよろこぶねえ。そして「春画」があるということは、そういう「本能」を肯定した仲間(?)がいるという証拠だねえ。こういう「本能」をかかえた人間はひとりではない--自分がひとりではないという安心のよろこび。そう「誤読」するよろこび。
同じ罪を犯すよろこび。
文学というのは、「いま」「ここ」から逸脱していくこと。罪を犯すこと。逸脱を肯定すること。そういうものを求める「本能」が「直感」として何かをつかみ取り、それがつかみとったものそのものだったときの、うれしさ。
あ、これは高橋の「枕絵」連作とは、それこそ関係ないことなのだけれど、きょう私が感じたのは、そういうことだ。
枕絵の防虫香も今朝の冬
この句も大好きだ。「枕絵」は視覚。「防虫香」は嗅覚。「今朝の冬」は触覚(寒い、と感じる肌の感覚)。「枕絵」が視覚にとどまらず、嗅覚や触覚と接触・融合して「肉体」そのものにひろがっていく。
枕絵を畳の上や神の留守
「神の留守」は「神無月」だからそう書いたというかもしれないけれど、ねえ、ちょっと違うことも考えるよね。「いやらしい、そんなものを広げて」と怒る「家の神」の留守。こっそりとではなく、畳の上に堂々と広げている。どれがいいかなあ、と吟味している。おかしいね。俳諧だねえ。
*
枕絵を並べひさぐや返り花
うーん。「ひさぐ」か。こんなふうしてつかうのか。
これ以上書くと、怪しいことになりそうなので、きょうの感想はここまで。
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