版画・宇田川新聞、詩・廿楽順治『うだがわ草紙Ⅱ』(2010年06月08日発行)
『うだがわ草紙Ⅱ』は宇田川新聞の版画と廿楽順治の詩がセットになった冊子である。右側に版画があって、左側に詩がある。タイトル(?)は、左上。
廿楽の詩と宇田川の版画には何か似たところがある。表現されているものが、まったくわからないわけではない。と、いう言い方はたぶん正しくない。版画と詩では、表現媒体が違うから、「似たところがある」というひとことで片づけるわけにはいかない面倒くさい部分がある。その面倒くさい部分を、ちょっと書いて見る。
版画は、他の「絵画」とは違って表現が間接的である。直接、紙に絵を描くわけではない。木版画なら木を彫る。そしてそれを印刷する。彫ったものは反転される。彫ったものとは違ったものが印刷される。そして、たいてい版画家はその「反転」された絵を完成されたものと想定して木を彫る。
廿楽の詩も、いくらか「間接的」である。廿楽は、まあ、直接紙にことばを書く(あるいは、キーボードをつかってことばを打ち込み、それをモニターで確認する)のだと思う。そのとき、廿楽は、ことばを直接みてはいない。このことばは他人(読者)にはどんなふうに見えるかな、と思いながら書いている。自分の思考(感性)を正確に書くというよりも、そのことばによって他人(読者)の思考、感性がこう反応のするんじゃないかな、ということを想定しながら書いているように感じられる。他人(読者)が読んでいるのは、いわば「版画」としてのことば。そのことばの向こう側には、そのことばを意識的に動かしている廿楽がいる--そういう感じ。
(「版画」については、あれこれことばで説明するのは面倒くさい。特に、版画をコピーにしろ何にしろ紹介しないで、つまりネットにアップしないで、それについて語るのは難しいし、誤解を招くだけだろうから省略する。以下は、廿楽の詩に中心しての感想である。)
「球体依然」という詩がある。「旧態依然」じゃないの? という疑問がすぐに浮かんでくるが、「球体依然」。宇田川の版画は、この冊子のなかの版画のなかでも特に抽象的で、黒い丸が中心にある。二段重ねのアイスクリームを簡略化したように、下の方には逆三角形のなにやら(スコーン?)があり、上にはもう一つの丸い塊。
それにあわせて、廿楽の詩は、こう展開する。
その球に見おぼえはありませんが
たましいとうりふたつの恨みつらみ
はみたことがあります
正月のもちをとられたとか
どうしてみそしるの具をこがすんだとか
かろうじて網膜につながっている
くらしのなかのまるい恨みつらみ
えっ? いま、何て言った? そう聞き返したくなることばである。全体がわからない。全体がわからないが、たとえば「正月のもち」ということばは、あ、二つ重なった黒い丸は鏡餅? 廿楽は、そう思ったわけ? と瞬間的に思う。
「正月のもちをとられた」といっても、家に飾ってあるのをとられたというのではなく、買おうとしたら、それをだれかが先に買ってしまって、そのことを恨んで「あ、それ私が飼うはずのおもち」と言ったとか……。ね、年末のデパート地下街で、そういうのを見た記憶(見おぼえ)って、ない?
というようなことを、廿楽は書いている--のかな?
そういう風景が、「網膜」に浮かんでくる。「くらし」のなかの、あれやこれやが。恨みやつらみが……。
でも、それは「はっきり」とではない。「かろうじて」である。直接的に書かないので、「かろうじて」そういうものが浮かんでくる。これは一種の「誤読」である。廿楽はそういうことを書いていないかもしれない。書いていないかもしれないけれど、そういうことを感じてしまう。そう「かろうじて」感じてしまうのようなことばを、廿楽は書くのである。
そこから先は、読者が勝手に完結させる世界。廿楽は、あくまで「版画」の版木を彫る作業をしているだけ。--と、いいながらも、不思議なことに、その「版木を彫る」という作業、それに似たものを廿楽のことばの奥に感じ、それを、読者(あ、私のことだけれど)は、私自身の「くらし」と重ね合わせる形で見てしまう。
廿楽がこんなことを書くのは、きっと年末のデパートの地下街で買い物の争奪戦を見たんだな、なんと思うのである。そのとき、その想像のなかで、廿楽と私が重なり、その瞬間、ことばが「誤読」であっても、具体的に動く。
そういう具体的に動く瞬間のための、ことばを書いている。動いてしまった軌跡としてのことばではなく、動く前の「予兆」のようなことばを廿楽は書いている。それは、たとえていえば、版画になる前の、版木のことばである。
--というように見える(感じられる)のは、しかし、廿楽の作品が宇田川の版画といっしょにあるからだ。宇田川の版画がなければ、私はきっと違うことを感じる。
だからこそ、そこに廿楽の「すごさ」があると思う。廿楽は自分のことばがどんなふうに「見られる」かを意識的に操作できるのである。
象徴的な、とてもおもしろい作品がある。「うつす」。
からだのなかみがちっともうつらない
とぼとぼ山道をたどっていると
コレハ、キット
どこかのおおきな絵のなかなのさ
胸をこわされたひとたちが
ひとりひとり樹木や空にきちんとうつされていく
この詩は、ベッドの上で寝ているこどもの版画と向き合っている。その版画について、私は「ベッドの上で寝ている」と書いた。「ZZZ」という鼾が書きこまれているからそう書いたのだが、絵をよく見ると、そのベッドのふとん(?)のめくれ方が妙である。版画を刷って、紙を剥がすときのように端っこがめくれている。
で、思うのだ。
「うつす」って何? 漢字で書くなら「写す」「映す」「移す」「遷す」のどれ?
わからないねえ。わからないけれど、「からだのなか」つまり「胸」のなかのこと、「思い(感情)」を鏡に映して見るようにはっきりとらえることができない。もしはっきりとらえることができれば、それをひとつの「比喩」にして、「樹木」や「空」に「移す」(あるいは反映させる--映す)ことができるかもしれない。それは、「比喩」ではあるのだけれど、「おれ」を「樹木」や「空」に「遷す」ということかもしれない。
この気持ち--自分自身を何か自分以外のものにしてしまう、「比喩」として見つめなおすという気持ち、ことばのなかで自分以外の何者かにしてしまう気持ち--これって、「刷り込む」ということでもあるよなあ。
あ、この「刷り込む」が「写す」(映す、移す、遷す)なんて、版画といっしょじゃなかったら、きっとそこまで考えなかったよなあ……。
気持ちを「刷り込む」、それが「比喩」。気持ちを「刷り込む」、それが「ことば」。うーむ。私は、ちょっと、ここで廿楽の「哲学」について考え込むのである。なるほどなあ、と納得するのである。
気持ちを「刷り込ん」で、「比喩」を「版画」のように完成させていく。その「比喩」を、そして見つめなおす。そうすると、そこから、ことばはまたまた展開していく。誰も動かしたことのない領域へ動いていく。
でもおれはこんなにふとってない
かかれてしまうと
きもちはいつだって少しおおげさになる
好きでもないひとを
どうぶつになって追いかけてしまう
そうなるともう死骸
からだにはつよい線が
どこにもない
空にうつされていくこころぼそさも