詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高橋睦郎『百枕』(22)

2010-08-22 12:39:58 | 高橋睦郎『百枕』
高橋睦郎『百枕』(22)(書肆山田りぶるどるしおる、2010年07月10日発行)

 「枕大刀--四月」。

刎頸の花の友こそ枕大刀

 いきなり過激な句で始まる。疑問は、首を刎ねるのになぜわざわざ「枕大刀」? 「大刀」とはいうものの、枕元に置くのだから小振りなのでは、などと歴史にうとい私は勝手に想像してしまうのだが……。
 エッセイで、このあたりの疑問を高橋はていねいに解説している。一連の句は、実は本能寺の変を題材にしている。信長は秀光の急襲にあい、自害する。

もちろん、割腹に用いたのも枕大刀だったろう。この時、蘭丸に介錯させたとすれば、比喩的に蘭丸こそが信長の枕大刀だったともいえる。

 そして、その解説は、次のようにも言う。

信長・蘭丸の衆道関係においても、蘭丸が大刀で信長が鞘であった可能性もなしとはしない。

 へえ、そうなのか。ちょっとびっくりした。そして、あ、もしかして、このことが書きたくて句を書き、エッセイを書いたのかもしれない、とふと思った。
 「刎頸の友」から書きはじめなければならないのは、そのためだね。



 反句、

枕大刀要らぬ世めでた遅桜

 これは「乱世」ではない「この世」をめでる句--と単純に受け止めていいのだと思う。ここにもっと別の意味があると、せっかくエッセイで書いた信長・蘭丸の関係がかき消されてしまう。



柵のむこう
高橋 睦郎
不識書院

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キャロル・リード監督「フォロー・ミー」(★★★+★)

2010-08-22 00:56:52 | 午前十時の映画祭


監督 キャロル・リード 出演 ミア・ファロー、トポル

 この映画のなかほど、ミア・ファローとトポルがロンドンの街を歩き回るシーンがおもしろい。台詞はないのだが、台詞が聞こえてくる。こころの声が聞こえてくる。その声を聞きながら、突然思ったのだが、この映画、キャロル・リードではなく、ノーラ・エフロンが撮ったら、どうなるだろう。もっとすばらしくなるのではないだろうか。
 この映画が公開された当時、まだ女性の監督はいなかったかもしれない。いたかもしれないが、私は思い付かない。公開当時も、二人が歩き回るシーンだけがとても新鮮で、とても好きだったが、そのときはなぜそれが好きなのかわからなかった。いまなら、わかる。そこで描かれている「恋愛」は女の感覚なのである。
 男の感覚は、ミア・ファローの夫の視線で描かれている。
 その男の感覚が窮屈で、ミア・ファローは、そこから逃れるようにして街をさまよう。そしてトポルに出会う。トポルはミア・ファローの「感覚」にあわせる。追跡--ついていくというのは、自分がどうなっても気にしないで、ただ相手にまかせてついていくということなのだが、このとき女の方は追跡されながら「自由」になる。自分の歩きたいところへ歩いていけば、男はついてくる。何も言わない。そのときの「自由」。すべてをまかせられていると感じる「自由」。それを存分に味わったあとで、「ついておいで」という男の誘いにもついて行ってみる。ことばで何かを言うわけではないから、そのときも女は「自由」である。自分の感じたことを感じたままに、修正しないですむ。その修正しない形の感情・感覚・よろこびを男が見ている--その視線を感じるとき、いま感じたことがいっそう強くなる。
 これは、当時の若い(?)私にはわからなかった。いま、それがほんとうにわかるかといえば、まあ、怪しいけれど、昔よりはわかる。
 とはいいながら、その「わかった」感覚で言うと、キャロル・リードの映像は、まだまだ硬い。堅苦しい。ロンドンの街の「ハム通り」だの「塩通り」だのを歩くシーン。トポルが鳥の真似をしながらミア・フォローをリードしていくシーンや、トポルがミア・ファローを見失った(追跡しそこねた)と思い、そのトポルを雑踏に探すシーンなどおもしろいのだけれど、映像が、どうしても男の視線である。--というか、え、なんで、こういう映像になるの? と驚くことがない。
 わかってしまうのである。
 トポルはいつも何かを食べている。(これは、とても女っぽい。)そして、ミア・フォローが最初にトポルに気づくとき(気づいたと、夫に話した内容によれば……)、トポルはマカロンを食べている。そのマカロンの描き方が、男っぽい。女の描き方ではない。
 ノーラ・エフロンなら、単に「トポルがマカロンを食べていた」とは言わない。(そんなふうには、描かない。)そこに「匂い」をつけくわえる。映像を乱す何かをつけくわえる。「マイケル」では「甘いバターの匂い」というものをつけくわえていた。女が、甘いバターの匂いがするという。それに対して同行した男は「匂いなんかどうでもいい」というように、女の感覚(嗅覚)を無視するシーンに、女の監督ならではの「味」があった。その描き方に、私はびっくりしてしまった。
 キャロル・リードの描き方には、何か、あっと驚くものがない。
 最初にトポルが登場する会計事務所。そこでマカロンを食べている。オレンジを食べる。書類を散らかす--そういう「日常」の侵入に、女の侵入(女の視線)があるのだけれど、それはまだ「理屈」(理論)のまま。何かが欠けている。男には思い付かない、やわらかい何かが欠けている。
 それが、映画が進めば進むほど、あ、違う。何かが足りない、と感じるのだ。
 ノーラ・エフロンの、女としかいいようのない感覚--その感覚で、この映画をリメイクすれば、ロンドンの街はもっと違ってくる。映画のなかに登場する博物館(美術館?)の絵も、ホラー映画も、「ロミオとジュリエット」も、トポルが露店で買うホットドッグのようなものも、きっと違ってくる。「ハム通り」も「塩通り」も、看板の文字をはみだして、違うものになると思う。
 男の(キャロル・リードの)視線では、看板の「ハム通り」「塩通り」というような文字が象徴的だけれど、何かしら「ことば」(頭脳)で処理してしまう。
 でも、女の恋愛は、ことばではないのだ。ただ、同じところにいて、同じものを見る。同じものを感じる。感じ方が違っていても、ことばにしなければ、感じは「同じものを体験した」という時間のなかで溶け合ってしまう。そのときの、ことばを超えた何か--それがキャロル・リードではとらえきれない。
 ノーラ・エフロンでなければ、だめ、と私は思うのである。
 でも、これはいまだから感じる感想だねえ。1970年代のはじめに、こういう映画が生まれた、キャロル・リードが、ふしぎにかわいらしい映画を撮ったということは、たいへんなことかもしれない。で、★を1個プラスしました。
                     (「午前十時の映画祭」29本目)


【日本語解説付】フォロー・ミー (Follow Me!)
サントラ
Harkit/Rambling Records

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版画・宇田川新聞、詩・廿楽順治『うだがわ草紙Ⅱ』

2010-08-22 00:00:00 | 詩集
版画・宇田川新聞、詩・廿楽順治『うだがわ草紙Ⅱ』(2010年06月08日発行)

 『うだがわ草紙Ⅱ』は宇田川新聞の版画と廿楽順治の詩がセットになった冊子である。右側に版画があって、左側に詩がある。タイトル(?)は、左上。
 廿楽の詩と宇田川の版画には何か似たところがある。表現されているものが、まったくわからないわけではない。と、いう言い方はたぶん正しくない。版画と詩では、表現媒体が違うから、「似たところがある」というひとことで片づけるわけにはいかない面倒くさい部分がある。その面倒くさい部分を、ちょっと書いて見る。
 版画は、他の「絵画」とは違って表現が間接的である。直接、紙に絵を描くわけではない。木版画なら木を彫る。そしてそれを印刷する。彫ったものは反転される。彫ったものとは違ったものが印刷される。そして、たいてい版画家はその「反転」された絵を完成されたものと想定して木を彫る。
 廿楽の詩も、いくらか「間接的」である。廿楽は、まあ、直接紙にことばを書く(あるいは、キーボードをつかってことばを打ち込み、それをモニターで確認する)のだと思う。そのとき、廿楽は、ことばを直接みてはいない。このことばは他人(読者)にはどんなふうに見えるかな、と思いながら書いている。自分の思考(感性)を正確に書くというよりも、そのことばによって他人(読者)の思考、感性がこう反応のするんじゃないかな、ということを想定しながら書いているように感じられる。他人(読者)が読んでいるのは、いわば「版画」としてのことば。そのことばの向こう側には、そのことばを意識的に動かしている廿楽がいる--そういう感じ。
 (「版画」については、あれこれことばで説明するのは面倒くさい。特に、版画をコピーにしろ何にしろ紹介しないで、つまりネットにアップしないで、それについて語るのは難しいし、誤解を招くだけだろうから省略する。以下は、廿楽の詩に中心しての感想である。)

 「球体依然」という詩がある。「旧態依然」じゃないの? という疑問がすぐに浮かんでくるが、「球体依然」。宇田川の版画は、この冊子のなかの版画のなかでも特に抽象的で、黒い丸が中心にある。二段重ねのアイスクリームを簡略化したように、下の方には逆三角形のなにやら(スコーン?)があり、上にはもう一つの丸い塊。
 それにあわせて、廿楽の詩は、こう展開する。

その球に見おぼえはありませんが
たましいとうりふたつの恨みつらみ
はみたことがあります
正月のもちをとられたとか
どうしてみそしるの具をこがすんだとか
かろうじて網膜につながっている
くらしのなかのまるい恨みつらみ

 えっ? いま、何て言った? そう聞き返したくなることばである。全体がわからない。全体がわからないが、たとえば「正月のもち」ということばは、あ、二つ重なった黒い丸は鏡餅? 廿楽は、そう思ったわけ? と瞬間的に思う。
 「正月のもちをとられた」といっても、家に飾ってあるのをとられたというのではなく、買おうとしたら、それをだれかが先に買ってしまって、そのことを恨んで「あ、それ私が飼うはずのおもち」と言ったとか……。ね、年末のデパート地下街で、そういうのを見た記憶(見おぼえ)って、ない?
 というようなことを、廿楽は書いている--のかな?
 そういう風景が、「網膜」に浮かんでくる。「くらし」のなかの、あれやこれやが。恨みやつらみが……。
 でも、それは「はっきり」とではない。「かろうじて」である。直接的に書かないので、「かろうじて」そういうものが浮かんでくる。これは一種の「誤読」である。廿楽はそういうことを書いていないかもしれない。書いていないかもしれないけれど、そういうことを感じてしまう。そう「かろうじて」感じてしまうのようなことばを、廿楽は書くのである。
 そこから先は、読者が勝手に完結させる世界。廿楽は、あくまで「版画」の版木を彫る作業をしているだけ。--と、いいながらも、不思議なことに、その「版木を彫る」という作業、それに似たものを廿楽のことばの奥に感じ、それを、読者(あ、私のことだけれど)は、私自身の「くらし」と重ね合わせる形で見てしまう。
 廿楽がこんなことを書くのは、きっと年末のデパートの地下街で買い物の争奪戦を見たんだな、なんと思うのである。そのとき、その想像のなかで、廿楽と私が重なり、その瞬間、ことばが「誤読」であっても、具体的に動く。
 そういう具体的に動く瞬間のための、ことばを書いている。動いてしまった軌跡としてのことばではなく、動く前の「予兆」のようなことばを廿楽は書いている。それは、たとえていえば、版画になる前の、版木のことばである。
 --というように見える(感じられる)のは、しかし、廿楽の作品が宇田川の版画といっしょにあるからだ。宇田川の版画がなければ、私はきっと違うことを感じる。
 だからこそ、そこに廿楽の「すごさ」があると思う。廿楽は自分のことばがどんなふうに「見られる」かを意識的に操作できるのである。

 象徴的な、とてもおもしろい作品がある。「うつす」。

からだのなかみがちっともうつらない
とぼとぼ山道をたどっていると
コレハ、キット
どこかのおおきな絵のなかなのさ
胸をこわされたひとたちが
ひとりひとり樹木や空にきちんとうつされていく

 この詩は、ベッドの上で寝ているこどもの版画と向き合っている。その版画について、私は「ベッドの上で寝ている」と書いた。「ZZZ」という鼾が書きこまれているからそう書いたのだが、絵をよく見ると、そのベッドのふとん(?)のめくれ方が妙である。版画を刷って、紙を剥がすときのように端っこがめくれている。
 で、思うのだ。
 「うつす」って何? 漢字で書くなら「写す」「映す」「移す」「遷す」のどれ?
 わからないねえ。わからないけれど、「からだのなか」つまり「胸」のなかのこと、「思い(感情)」を鏡に映して見るようにはっきりとらえることができない。もしはっきりとらえることができれば、それをひとつの「比喩」にして、「樹木」や「空」に「移す」(あるいは反映させる--映す)ことができるかもしれない。それは、「比喩」ではあるのだけれど、「おれ」を「樹木」や「空」に「遷す」ということかもしれない。
 この気持ち--自分自身を何か自分以外のものにしてしまう、「比喩」として見つめなおすという気持ち、ことばのなかで自分以外の何者かにしてしまう気持ち--これって、「刷り込む」ということでもあるよなあ。
 あ、この「刷り込む」が「写す」(映す、移す、遷す)なんて、版画といっしょじゃなかったら、きっとそこまで考えなかったよなあ……。
 気持ちを「刷り込む」、それが「比喩」。気持ちを「刷り込む」、それが「ことば」。うーむ。私は、ちょっと、ここで廿楽の「哲学」について考え込むのである。なるほどなあ、と納得するのである。
 気持ちを「刷り込ん」で、「比喩」を「版画」のように完成させていく。その「比喩」を、そして見つめなおす。そうすると、そこから、ことばはまたまた展開していく。誰も動かしたことのない領域へ動いていく。

でもおれはこんなにふとってない
かかれてしまうと
きもちはいつだって少しおおげさになる
好きでもないひとを
どうぶつになって追いかけてしまう
そうなるともう死骸
からだにはつよい線が
どこにもない
空にうつされていくこころぼそさも



すみだがわ
廿楽 順治
思潮社

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