高橋睦郎『百枕』(30)(書肆山田りぶるどるしおる、2010年07月10日発行)
「枕の果て--十二月」。
夜よるの枕の果てや虚ナ枕
高橋の詩(俳句)にかぎらないことだが、知らないことばがたくさん出てきて、私は困ってしまう。
「虚ナ枕」(むなまくら)。枕というものは、それに乗せる頭があってのもの。夜に夜を重ね、いま、その枕は乗せるべき頭を持たない--つまり、枕の主(?)は死んだということ?
うーん。発句にはなんだが、似つかわしくないように思えるのだが……。
あるいは、夜に夜を重ね、ペちゃんこになってしまった、中身がなくなってしまったということか。このとき、枕の中身は「蕎麦殼」なんかじゃなくて、「夢」になるかもしれない。夜に夜を重ね、夜ごと、「夢」を送りつづけてきた枕。もう送り届ける「夢」もなくなった、かな?
枕に謝す三百六十五夜の寝(しん)
眠りは、単なる眠りではなく、そこには「夢」も入っている。一年三百六十五日、「夢」を届けてくれたことに対する感謝かもしれない。
夜々の寝(い)の一年分や枕垢
一とせの夢の果てとや枕垢
枕からは「夢」をもらった。人間がお返しできるのは、「垢」。という意味であるかどうかはわからないけれど、この句は、いいなあ。つかいつづけられた枕が人間の垢で光っている。「俗」の強さがある。暮らしの根強さがある。
華麗な、文学の教養がないとわからない句も、それはそれでかっこいいけれど、文学の知識がなくてもわかる、こういう句が好きだなあ。
高橋は、最後のエッセイで「よ」という音について書いている。世・齢・代・米、ねして夜。
夜は詩の時間であるから、試作することを詠(よ)むというが、それは夜の中にある魂を呼ばい、呼び寄(よ)せることだろう。夢もその元は夜目(よめ)または夜見(よみ)ではなかろうか。そしてもちろん、原始古代人が永遠の住まいと考えた黄泉(よみ)の国がある。
夜から、連想として夢へ。その夢から「夜目」「夜見」をへて、「黄泉」へと動いていくことば。こういう運動を私は「誤読」と呼んでいるのだが、そこにはある不思議なエネルギーがある。逸脱していくエネルギーがある。逸脱するエネルギーがないと、「誤読」できない。
その最後の「夢」。高橋の今回の句集(+エッセイ)は連載形式で書かれたものである。今回が最終回。そこで、高橋は、究極の「夢」を書いている。「夢」を見たまま、永遠に目覚めぬという「夢」を。
われをまつ晦枕年の淵
そのことについて書かれた文章の一部に、
永劫つづく苦の輪廻の大車輪から弾き出され、全き無となりおおせることこそ、生という迷妄に搦め取られた人間なる者の大理想だろうから。
「苦の輪廻」「生という迷妄」。それはやはり「誤読」というものだろう。
そして、それから解放され「全き無」になる。--でも、それは「誤読」ではない、とだれが言えるだろう。また「無」が、形が定まっていないだけの状態、エネルギーがありあふれて形になることができない状態である、と言うこともできるのではないだろうか。
死は「誤読」からの解放ではなく、「誤読」のリセットである。それは詩が「誤読」を炸裂させることで「誤読」をリセットするのと、ほぼ同じ意味である。
たとえば、今回の連載で高橋の句は「おわる」。続きがない。高橋のことばは、おわった瞬間「全き無」の状態にある。けれど、一連のことばを読んできた私にとっては、新しく書かれることのないページの中に、これまで読んできた句のエネルギーが形のないまま(無のまま)うごめいている。
いま、それに、私は形を与えることができない。いままで私が書いてきたことも「形」にはなっていないのだが、それはしかし、永遠に形がないままであるとは言えない。いつか、きっと、何か--高橋のことばとの連絡もわからないまま、別のことばになってあらわれるはずである。
そういう体験が読むということだ。
読み終わって「誤読」をリセットする。高橋の、この句集とは関係ないところで、突然高橋の句とエッセイが、まだ書かれていなかったことばとして噴出してくる。そういうことがきっとある。書かれなかった高橋の句が、どこか別の場で、新しく生まれる。それはいつになるかわからないけれど、そういうことがあるから(そういうことを引き起こすために)、本は読まれるべきなのだと思う。
--というのは、私の「誤読」に対する永遠の「夢」である。