詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ビリー・ワイルダー監督「アパートの鍵貸します」(★★★★)

2010-08-30 22:46:58 | 午前十時の映画祭

監督 ビリー・ワイルダー 出演 ジャック・レモン、シャーリー・マクレーン、フレッド・マクマレイ、レイ・ウォルストン、デイヴィッド・ルイス

 とても好きなシーンがある。ラスト近くなのだが、ジャック・レモンがテニスのラケットに1本残っているスパゲティを見つける。シャーリー・マクレーンに食べさせようとして料理したときのものだ。その1本を指に搦め、指をくるっとまわす。そうするとスパゲティが指にくるくるっと巻きつく。
 なんでもないシーンなのだけれど。
 この指の動きから、何か思い出しません? エレベーターガール(古いことばだなあ)のシャリー・マクレーンが「○階です」というような案内をするとき、指を(掌を?)くるっとまわすしぐさをする。
 同じ動きではないのだけれど、あ、ジャック・レモンとシャリー・マクレーンの指の演技合戦だ、映画ならではの遊びだ、と思ってとても楽しくなる。
 二人の目の演技合戦も楽しいけれど、この指の演技合戦は、映画の本筋そのものとは関係ない。特に、シャリー・マクレーンの指の動きは何ともからんでこない独立した「逸脱」なのだが、そういう「逸脱」があるから、映画に奥行きがでる。登場人物の「肉体」がくっきりと伝わってくる。
 シャーリー・マクレーンが自殺未遂したあと、ジャック・レモンの隣の部屋のドクターの妻がスープを持ってくる。シャリー・マクレーンに食べさせる。その親切な感じも、いまの世界からは消えてしまった人情というものを感じさせる。1960年というのは、そんなに遠い昔ではないのだけれど、昔は、「いいひと」がたくさんいたのだなあ。
                     (「午前十時の映画祭」29本目)


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小長谷清実「誰かが、空を」

2010-08-30 09:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
小長谷清実「誰かが、空を」(「交野が原」69、2010年09月20日発行)

 小長谷清実「誰かが、空を」は短い詩である。その短い詩の、なかほどにある1行にまいってしまった。繰り返し読んでしまった。

誰かが爪を空で引っ掻き
その化膿した傷口から どろどろした何かが
悪口雑言のように降ってくる
誰かが指で空を突っつきくすぐって
そのしわしわのたるみから ヒッヒッヒッ
快と不快の入り混じった笑声が漏れでてくる
誰かがことばで空を引き裂き
ぽっかり空いた裂けめから
得体の知れないざわめきが這いでてくる

無数の虫がいっせいに
ある方向に
走りだすざわめきが 詩が

 私が気に入ったのは「そのしわしわのたるみから ヒッヒッヒッ」がなんとも生々しい。
 この空は「しわしわ」だから、幼いこどものように、その表面(肌?)がすべすべでもつるつるでもない。「しわしわ」。それなのに(?)、くすぐられると、くすぐったい。それなのに--と書いたのは、くすぐったいという感じは、こどもの方が強いでしょ? 年をとるとだんだん鈍感になってくる。そのたるんだ「しわしわ」が、「突っつきくすぐられ」、反応して、我慢しきれずに声を洩らしてしまう。こどものような、きゃっきゃっというようなひびきではなく、「ヒッヒッヒッ」。「ヒ」という音の中にある弱さと輝きがいいなあ。それが「ッ」によって途切れる。途切れるけれど、つながっていく。
 --と、ここまで書いて。
 私は、急に、別のことが書きたくなった。
 それをまず、書いておく。

 途切れながら、つながる。--これは小長谷の詩の特徴ではなかったか。この詩でも、1連目は「誰かが空を」という書き出しが3回あらわれる。3回とも同じ動詞がつづくのではなく、それぞれ違う動詞が空に働きかける。「誰かが空を」というひとつのものが、別の動詞によって、別の反応をする。その「別」をさして、私は「途切れる」と感じる。「途切れる」のだけれど、「誰かが空を」ということばがあらわれると、そこにひとつの「つながり」があらわれる。
 意識が「誰かが空を」に帰っていく。
 帰還と逸脱が繰り返され、世界が少しずつ変わっていくのだ。
 そして、そのたびに、そこから何かが漏れる。こぼれ落ちる。この何かを小長谷は「無数の虫」と2連目で呼んでいる。「漏れる、こぼれ落ちる」を「走りだす」と言っている。
 そして、その「走りだす」ものを「ざわめき」「詩」と名づけ直している。

 あ、そうなのか。
 「詩」って、そういうものなのか。

 私は、それを「詩」とは別のことばで言ってみたい。別なことばで呼んでみたい。「息」と呼んでみたい。
 「ヒッヒッヒッ」。「ヒ」れが「ッ」によって途切れる。途切れるけれど、つながっていく。その途切れ、つながるもの。それは「呼吸」、「息」である。

 私が、小長谷の詩を読みながら「共有」しているもの(共有していると勝手に感じているもの)は「肉体」ではなく、「息」である。
 私は小長谷の詩、そのことばのリズム、音にいつもひかれるが、それは息のリズム、息の音にひかれるということである。

 小長谷の詩は「息」なのだ。

 こんな言い方は乱暴過ぎるかもしれない。
 けれど、あれこれ思い出してみて、私は小長谷の詩から「意味」を思い出せない。「しわしわの」というような繰り返される音の不思議さである。
 私は音読はしない。小長谷の朗読を聞いたこともない。小長谷が朗読をするかどうかもしらない。(声そのものを聞いたことがない。)だから、小長谷の詩から私が聞き取っているのは「音」ではなく、「息」なのだ。「声」が生まれる前の、もっと奥深いところにあるリズムなのだ。

 ヒッヒッヒッ。くすぐられて笑うときの、快感と不快。そのあいだから、声にならずにこぼれる息。

 私の書いていることは、わけがわからないかもしれない。私にも、実は、よくわからない。書いている私がわからないのだから、このことばを読むひとにはわからないにきまっているのだが、わからないまま、ともかく書いておきたいのだ。
 私はあるひとのことばに喉を感じたり、耳を感じたりする。それと同じように、小長谷のことばに感じているのは「息」である、ときょう、気がついた。



わが友、泥ん人
小長谷 清実
書肆山田

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高橋睦郎『百枕』(30)

2010-08-30 00:00:00 | 高橋睦郎『百枕』
高橋睦郎『百枕』(30)(書肆山田りぶるどるしおる、2010年07月10日発行)

 「枕の果て--十二月」。

夜よるの枕の果てや虚ナ枕

 高橋の詩(俳句)にかぎらないことだが、知らないことばがたくさん出てきて、私は困ってしまう。
 「虚ナ枕」(むなまくら)。枕というものは、それに乗せる頭があってのもの。夜に夜を重ね、いま、その枕は乗せるべき頭を持たない--つまり、枕の主(?)は死んだということ?
 うーん。発句にはなんだが、似つかわしくないように思えるのだが……。
 あるいは、夜に夜を重ね、ペちゃんこになってしまった、中身がなくなってしまったということか。このとき、枕の中身は「蕎麦殼」なんかじゃなくて、「夢」になるかもしれない。夜に夜を重ね、夜ごと、「夢」を送りつづけてきた枕。もう送り届ける「夢」もなくなった、かな?

枕に謝す三百六十五夜の寝(しん)

 眠りは、単なる眠りではなく、そこには「夢」も入っている。一年三百六十五日、「夢」を届けてくれたことに対する感謝かもしれない。

夜々の寝(い)の一年分や枕垢

一とせの夢の果てとや枕垢

 枕からは「夢」をもらった。人間がお返しできるのは、「垢」。という意味であるかどうかはわからないけれど、この句は、いいなあ。つかいつづけられた枕が人間の垢で光っている。「俗」の強さがある。暮らしの根強さがある。
 華麗な、文学の教養がないとわからない句も、それはそれでかっこいいけれど、文学の知識がなくてもわかる、こういう句が好きだなあ。

 高橋は、最後のエッセイで「よ」という音について書いている。世・齢・代・米、ねして夜。

夜は詩の時間であるから、試作することを詠(よ)むというが、それは夜の中にある魂を呼ばい、呼び寄(よ)せることだろう。夢もその元は夜目(よめ)または夜見(よみ)ではなかろうか。そしてもちろん、原始古代人が永遠の住まいと考えた黄泉(よみ)の国がある。

 夜から、連想として夢へ。その夢から「夜目」「夜見」をへて、「黄泉」へと動いていくことば。こういう運動を私は「誤読」と呼んでいるのだが、そこにはある不思議なエネルギーがある。逸脱していくエネルギーがある。逸脱するエネルギーがないと、「誤読」できない。

 その最後の「夢」。高橋の今回の句集(+エッセイ)は連載形式で書かれたものである。今回が最終回。そこで、高橋は、究極の「夢」を書いている。「夢」を見たまま、永遠に目覚めぬという「夢」を。

われをまつ晦枕年の淵

 そのことについて書かれた文章の一部に、

永劫つづく苦の輪廻の大車輪から弾き出され、全き無となりおおせることこそ、生という迷妄に搦め取られた人間なる者の大理想だろうから。

 「苦の輪廻」「生という迷妄」。それはやはり「誤読」というものだろう。
 そして、それから解放され「全き無」になる。--でも、それは「誤読」ではない、とだれが言えるだろう。また「無」が、形が定まっていないだけの状態、エネルギーがありあふれて形になることができない状態である、と言うこともできるのではないだろうか。 
 死は「誤読」からの解放ではなく、「誤読」のリセットである。それは詩が「誤読」を炸裂させることで「誤読」をリセットするのと、ほぼ同じ意味である。
 たとえば、今回の連載で高橋の句は「おわる」。続きがない。高橋のことばは、おわった瞬間「全き無」の状態にある。けれど、一連のことばを読んできた私にとっては、新しく書かれることのないページの中に、これまで読んできた句のエネルギーが形のないまま(無のまま)うごめいている。
 いま、それに、私は形を与えることができない。いままで私が書いてきたことも「形」にはなっていないのだが、それはしかし、永遠に形がないままであるとは言えない。いつか、きっと、何か--高橋のことばとの連絡もわからないまま、別のことばになってあらわれるはずである。
 そういう体験が読むということだ。
 読み終わって「誤読」をリセットする。高橋の、この句集とは関係ないところで、突然高橋の句とエッセイが、まだ書かれていなかったことばとして噴出してくる。そういうことがきっとある。書かれなかった高橋の句が、どこか別の場で、新しく生まれる。それはいつになるかわからないけれど、そういうことがあるから(そういうことを引き起こすために)、本は読まれるべきなのだと思う。
 --というのは、私の「誤読」に対する永遠の「夢」である。





姉の島―宗像神話による家族史の試み
高橋 睦郎
集英社

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