高橋睦郎『百枕』(29)(書肆山田りぶるどるしおる、2010年07月10日発行)
「枕狩--十一月」。
「枕狩」とはなんだろう。私はそのことばをはじめてみた。わからないなりにあれこれ想像してみると、品のない人間なので、どうしても品のないことを考える。どうしても「下ねた」になってしまう。
この三句目、「極みは真暗狩」が、とくに「下ねた」っぽい。「枕」は、ここには出てこないのだが、なぜか真っ暗闇での「夜這い」(あ、前の句にあるのは「夜這い」じゃなくて「夜引く」だね)の醍醐味(?)は相手が違っているかもしれないということ。でも、それが思いもかかずというか、予想を裏切っていい相手ということもあるだろう。
というようなことを勝手に妄想していたら……。
冬は獣の肉がうまい上に毛が抜けにくいので、狩りは冬に集中する、と書いたあとで高橋はつづけている。
あ、「枕狩」も、「狩枕」の積極的「誤読」から派生した、いわゆる造語だね。そして、そういうときの想像力の暴走、逸脱というのは、どうも人間に共通のものを含むようである。
この不思議な「共有(共通)感覚」があるから、ことばは暴走することを許されるのかもしれない。
想像力というのは、ものをねじ曲げて、「共有(共通)感覚」を浮かび上がらせるものかもしれない。「誤読」には必ず「共有(共通)感覚」がある--と書いてしまうと、これは私の「我田引水」になるかもしれないけれど。(私はいつでも「誤読」だけが正しい--と自己弁護しているのだから。)
恋は「数」ではないはずなのだけれど、やっぱり「数」にあこがれる。「数」がうらやましい。なぜだろう。
「数」にあこがれるくせに、「一つ」はそれはそれで、いいなあ、とも思う。人間は(私は?)わがままにできているらしい。
「なれの果て」と言い切る強さがいいなあ。「なれの果て」までいける人間は、いったい何人いるだろう。
*
反句。
これはギリシャ神話の、アクタイオーン。(高橋が、エッセイできちんと説明している。)そうか、恋も知らずに無残な最後をとげるのも、それはそれで、あっぱれ、という気がする。
でも、これは「処女(をとめ)」だからだねえ。残酷は、被害者が美しいとき、なぜか耽美にかわる。これは世界に共通する感覚だと思う。血は白い肌にこそ似合うのだ。
「枕狩--十一月」。
「枕狩」とはなんだろう。私はそのことばをはじめてみた。わからないなりにあれこれ想像してみると、品のない人間なので、どうしても品のないことを考える。どうしても「下ねた」になってしまう。
狩鞍の冬となりけり木根枕
夜興引(よこびき)のよべの枕か五郎太石(ごろたいし)
狩さまざま中に極みは真暗狩
この三句目、「極みは真暗狩」が、とくに「下ねた」っぽい。「枕」は、ここには出てこないのだが、なぜか真っ暗闇での「夜這い」(あ、前の句にあるのは「夜這い」じゃなくて「夜引く」だね)の醍醐味(?)は相手が違っているかもしれないということ。でも、それが思いもかかずというか、予想を裏切っていい相手ということもあるだろう。
というようなことを勝手に妄想していたら……。
冬は獣の肉がうまい上に毛が抜けにくいので、狩りは冬に集中する、と書いたあとで高橋はつづけている。
夜間、猟犬を連れて睡眠中の獣を襲う夜引(よびき)、夜興引(よこびき)が多かった。狩枕といえばその折の仮眠の枕、これは文字通り仮枕に通じる。これを転倒させて枕狩といえば、にわかに艶がかってくる。色ごとにいわゆる百人切・千人切の様相を帯びるからだ。
あ、「枕狩」も、「狩枕」の積極的「誤読」から派生した、いわゆる造語だね。そして、そういうときの想像力の暴走、逸脱というのは、どうも人間に共通のものを含むようである。
この不思議な「共有(共通)感覚」があるから、ことばは暴走することを許されるのかもしれない。
想像力というのは、ものをねじ曲げて、「共有(共通)感覚」を浮かび上がらせるものかもしれない。「誤読」には必ず「共有(共通)感覚」がある--と書いてしまうと、これは私の「我田引水」になるかもしれないけれど。(私はいつでも「誤読」だけが正しい--と自己弁護しているのだから。)
狩り誇る枕の数や恋の数
恋は「数」ではないはずなのだけれど、やっぱり「数」にあこがれる。「数」がうらやましい。なぜだろう。
枕狩百千(ももち)を狩ると一つ狩る
一生(ひとよ)かけ狩らん枕ぞただ一つ
「数」にあこがれるくせに、「一つ」はそれはそれで、いいなあ、とも思う。人間は(私は?)わがままにできているらしい。
恋狩のなれの果てとよ常(とこ)枕
「なれの果て」と言い切る強さがいいなあ。「なれの果て」までいける人間は、いったい何人いるだろう。
*
反句。
枕知らぬ狩処女(かりをとめ)汝(なれ)恋知らず
これはギリシャ神話の、アクタイオーン。(高橋が、エッセイできちんと説明している。)そうか、恋も知らずに無残な最後をとげるのも、それはそれで、あっぱれ、という気がする。
でも、これは「処女(をとめ)」だからだねえ。残酷は、被害者が美しいとき、なぜか耽美にかわる。これは世界に共通する感覚だと思う。血は白い肌にこそ似合うのだ。
宗心茶話―茶を生きる堀内 宗心,高橋 睦郎世界文化社このアイテムの詳細を見る |