詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高橋睦郎『百枕』(29)

2010-08-29 12:14:24 | 高橋睦郎『百枕』
高橋睦郎『百枕』(29)(書肆山田りぶるどるしおる、2010年07月10日発行)

 「枕狩--十一月」。
 「枕狩」とはなんだろう。私はそのことばをはじめてみた。わからないなりにあれこれ想像してみると、品のない人間なので、どうしても品のないことを考える。どうしても「下ねた」になってしまう。

狩鞍の冬となりけり木根枕

夜興引(よこびき)のよべの枕か五郎太石(ごろたいし)

狩さまざま中に極みは真暗狩

 この三句目、「極みは真暗狩」が、とくに「下ねた」っぽい。「枕」は、ここには出てこないのだが、なぜか真っ暗闇での「夜這い」(あ、前の句にあるのは「夜這い」じゃなくて「夜引く」だね)の醍醐味(?)は相手が違っているかもしれないということ。でも、それが思いもかかずというか、予想を裏切っていい相手ということもあるだろう。
 というようなことを勝手に妄想していたら……。
 冬は獣の肉がうまい上に毛が抜けにくいので、狩りは冬に集中する、と書いたあとで高橋はつづけている。

夜間、猟犬を連れて睡眠中の獣を襲う夜引(よびき)、夜興引(よこびき)が多かった。狩枕といえばその折の仮眠の枕、これは文字通り仮枕に通じる。これを転倒させて枕狩といえば、にわかに艶がかってくる。色ごとにいわゆる百人切・千人切の様相を帯びるからだ。

 あ、「枕狩」も、「狩枕」の積極的「誤読」から派生した、いわゆる造語だね。そして、そういうときの想像力の暴走、逸脱というのは、どうも人間に共通のものを含むようである。
 この不思議な「共有(共通)感覚」があるから、ことばは暴走することを許されるのかもしれない。
 想像力というのは、ものをねじ曲げて、「共有(共通)感覚」を浮かび上がらせるものかもしれない。「誤読」には必ず「共有(共通)感覚」がある--と書いてしまうと、これは私の「我田引水」になるかもしれないけれど。(私はいつでも「誤読」だけが正しい--と自己弁護しているのだから。)

狩り誇る枕の数や恋の数

 恋は「数」ではないはずなのだけれど、やっぱり「数」にあこがれる。「数」がうらやましい。なぜだろう。

枕狩百千(ももち)を狩ると一つ狩る

一生(ひとよ)かけ狩らん枕ぞただ一つ

 「数」にあこがれるくせに、「一つ」はそれはそれで、いいなあ、とも思う。人間は(私は?)わがままにできているらしい。

恋狩のなれの果てとよ常(とこ)枕

 「なれの果て」と言い切る強さがいいなあ。「なれの果て」までいける人間は、いったい何人いるだろう。



 反句。

枕知らぬ狩処女(かりをとめ)汝(なれ)恋知らず

 これはギリシャ神話の、アクタイオーン。(高橋が、エッセイできちんと説明している。)そうか、恋も知らずに無残な最後をとげるのも、それはそれで、あっぱれ、という気がする。
 でも、これは「処女(をとめ)」だからだねえ。残酷は、被害者が美しいとき、なぜか耽美にかわる。これは世界に共通する感覚だと思う。血は白い肌にこそ似合うのだ。


宗心茶話―茶を生きる
堀内 宗心,高橋 睦郎
世界文化社

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利岡正人『仮眠の住処』

2010-08-29 00:00:00 | 詩集
利岡正人『仮眠の住処』(七月堂、2010年07月15日発行)

 利岡正人『仮眠の住処』を読みながら、私はとまどってしまった。ことばのリズムに、どうにもなじめない。
 「風のあてど」という作品。

空を参照してどこまでも歩きたい

 この書き出しはとても魅力的である。ことばのリズム、音楽も、私にはここちよい。けれど、2行目からもうつまずいてしまう。

空を参照してどこまでも歩きたい
頭蓋の増長にかすれ声を反響させる不可能さ

 ことばが多すぎる。3行つづけて読むと、さらにその印象が強くなる。

空を参照してどこまでも歩きたい
頭蓋の増長にかすれ声を反響させる不可能さ
遥か果てを見遣るつもりで都会の喧騒と向き合う

 1行目の「空」の広さ、美しさが、ことばの多さに埋もれてしまって、どのことばを読んでいいのかわからない。1行目は「空」「参照」「歩く」。2行目は? 「頭蓋の増長に」ということばの濁音が、私には汚く感じる。
 私は清音よりも濁音の方が豊かな響きがあって好きなのだが、「頭蓋の増長に」は音で聞いたとき、何をいっているかわからないと思う。
 声の豊かさに酔う暇がない。
 こういうとき、私は音を汚いと感じる。意味が充分にわかって、その音をもう一度記憶の中で繰り返したいという欲望を、喉や口蓋が先取りして、肉体が(発声全体にかかわる筋肉が)ゆったり動く--こういうときに、私は音を美しいと感じる。音楽を感じる。
 1行目には、そういう美しさがある。
 「どこまでも」の「ど」の音の輝き、ゆったりと広がっていく響き(「空」、とも、「参照」とも違う声帯のゆったりした感じ)が、とてもいいのに……。

 思うに、利岡は、ことばを「音」にしない詩人なのだろう。私は音読はしないし、朗読にも関心はないが、書かれた文字を読むとき、無意識に発声器官が動く。(書くときも動いていると思う。)利岡は、どうだろう。発声器官が動いていないと思う。
 奇妙な言い方になるが、ことばを聞くとき、私は発声器官で聞くのだ。耳で聞くよりも、喉で聞く。言い換えると、喉が動くときの肉体の反応で聞く。
 喉で聞いてしまう私にとっては、利岡のことばは、とてもつらい。

 利岡の詩群のなかから、私の喉が繰り返し聞きたいと感じている作品について書いた方がいいのかもしれない。たとえば「真夜中の掃除夫」の書き出し。

深い眠りにつく
おまえの断崖
ぼくは沈み込んで行けない

 こうしたことばの数が少ない行は、喉で追いつづけることができる。喉の筋肉でことばをとらえることができる。

もう耳を貸すな
ほのめかされる囁きを
もう聞くな、黙って噂されるのを
受け入れぬよう
寝姿を簡単に縁取りされるな

 「寝姿を簡単に縁取りされるな」というのは魅力的な行だと思う。思うけれど、どうも前の行のリズム、音楽とは違うと感じてしまう。
 私は音痴だから、私の「音楽」の方がずれているのかもしれないけれど、どうにも読んでいて苦しい。喉は音を発声しようとするが、発声する前に耳が拒んでいるという感じもする。--というのは、逆で、利岡のことばを読んでいると、耳が発声しようとするのを喉が聞くまいと拒んでいるというような、ありえないことばでしか言えないような感覚に陥る。
 あ、これも、変な言い方かもしれない。
 私は喉で聞きながら声を出す、あるいは耳で声を出しながら音を聞く--言い換えると、喉と耳は区別のない状態、一体になった状態でことばの音を出し、聞くのだけれど、利岡のことばにふれると、その一体感が消えてしまう。
 ことばをひとつの音にするには、肉体ではなく「頭」をつかわないといけない。
 喉も耳もつかわず、「頭」でことばを読んでいく--そうすると、そこに「意味」と「内容」が浮かび上がってくる。利岡には書かなければならないことばがたくさんある。省略するのではなく、そのすべてを書き留めたいのだ。
 またまた抽象的な譬えになるが--たぶん、だれにもわからない譬え、私だけが「わかる」譬えなのかもしれないが……。
 利岡は、たとえていえば999角形の図面のような詩を書きたいのだ。999角形というような形は「頭」では理解できる。それが「1000角形」とも「998角形」とも完全に違うということを「頭」は完璧に証明できる。
 私は、そういう「頭」で書かれたものを受け付ける「肉体」を持っていない。「998角形」「999角形」「1000角形」を目で区別することができない。だから、それを喉で発音することもできない。耳で聞き分けることもできない。
 ようするに、私は馬鹿であって、利岡のことばの運動にはついていけないのだ。

 それなら、利岡の詩についての感想を書かなければいい--のかもしれない。でも、書いてしまう。それは、ときどき、あ、これは美しいなあ、と思う行があるからだ。
 だから、困るのだ。

空模様を測る舌は引っ込めておけ。劇場に足を運ばず、帰るべき控え室もない雲のために。

 「眠りの授業」の中の1行である。声に出して読みたい--と耳は叫んでいる。けれど、声に出したくても出せっこないと喉は訴えている。何か余分なことばがあるのだと思う。あるいは順序が不自然な(私にとって、という意味である)ことばがあるのだと思う。これはとても感覚的なことなので、どれ、とは指摘できない違和感なのだが……。

 詩集ではなく、1篇1篇、独立した形で読めば、利岡のことばの多さにたじろがずに読めたのかもしれない。1日1篇と決めて読めばよかったのかな、と反省している。



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