詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

チャールズ・チャプリン監督「チャップリンの独裁者」(★★★)

2010-08-16 23:28:16 | 午前十時の映画祭

監督 チャールズ・チャプリン 出演 チャールズ・チャプリン

 私は、どうやらチャプリンの映画が苦手なようである。ことばが嫌いなのだ。
 私がおもしろいと感じるのは、この映画では、ヒトラーの演説を真似したドイツ語(?)の音。私はドイツ語を知らないが、なんとなくドイツ語風の響きに聞こえる。ドイツ語の癖を音楽のように再現している。それは、ことばではなく、音楽になっている。だから、おもしろい。ときどき、合いの手(?)のようにして翻訳が入る。それも、とてもおもしろい。もちろん、拍手をとめる手の動き、そのときの音と音の空白、それも音楽だ。
 もう一つ、ヒトラーがゴム風船の地球儀をつかってダンスするシーンも、非常におもしろい。風船のふわふわしたリズムと、それにあわせた肉体の動きがとても楽しい。映像から音楽があふれてくる。
 ところが、ヒトラーを演じていない部分のチャプリン--理髪師のチャプリンが、あまりおもしろくない。定型化している。ハンガリアン舞曲にあわせて髭を剃るシーンは、この映画で3番目に好きなシーンだが、ほかはおもしろくない。
 最後のチャプリンの演説は世界に向けたメッセージだけれど、そしてそのメッセージは非の打ち所のないもの、まったく正しいものだけれど、その完全に正しいということろが、つまらない。もちろんこんなことを言えるのはいまの時代だからであって、ヒトラーが台頭してきた時代に、チャプリンが真っ正面からメッセージを発したことはとても重要だとわかっているのだが、それでもおもしろくない、と私は言いたい。
 ゴム風船の地球儀をもてあそぶ映像で、ヒトラーを厳しく批判したチャプリンが、最後でことばに頼っているということがおもしろくないのである。ことばに頼らずに、映像と音楽でなんとかできなかったのか。そういう疑問が残るのである。最後のことば(メッセージ)のために、それ以前の映像と音の楽しみを踏み台にしてしまう、踏み台として利用してしまうというのは、ちょっとなあ……なんと言っていいのかわからないが、こまるなあと思ってしまうのである。
                         (「午前十時の映画祭」28本目)

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高橋睦郎『百枕』(16)

2010-08-16 12:00:00 | 高橋睦郎『百枕』
高橋睦郎『百枕』(16)(書肆山田りぶるどるしおる、2010年07月10日発行)

 「枕虫--十月」。「枕虫」。こんなことばがあるとは知らなかった。エッセイに、

「枕虫」という珍しい歌語は『大斎院前御集(だいさんゐんさきのぎょしゅう)』に突如現われる。

 と、ある。

大斎院の雅(みやび)を伝える挿話の一つが、ある秋の夜、就寝前に洩らした「まくらむしのなく」の一語で、さっそく女房の進が聞き止めて、歌を詠むことを勧め、自分たちも詠みたてまつった。

 という。そして、その歌というのは、

うきよをばたびのやどりとおもへばやくさまくらむしたえずなくならむ

 というのだが……。この歌、「枕虫」とつながるの? 「浮世をば旅の宿りと思へばや草枕虫のたえず鳴くならむ」。「草枕/虫のたえず鳴くならむ」じゃないの? 旅に出て、「草枕」で横になる。すると、その枕の下から(草むらから)虫の声がする。まるで枕のなかで虫が鳴いているよう……。私のいいかげんな理解力では、そんな具合になる。
 あくまで「草枕/虫」。
 ここから「(草)枕虫」にかわる瞬間、その契機が、私にはわからない。わからないのだけれど、こういう変化というのは、おもしろいと思う。 
 変化ではなく、きちんとした脈絡があるのだけれど、私にはわからないだけなのだと思うけれど、こういうわからないものに出合ったとき、私は強引に「誤読」するのである。えい、やっ、と掛け声をかけるでもなく、ぱっと「誤読」の方へ渡ってしまう。秋の夜、虫が鳴いている。枕元にまで聞こえる。それを「ああ、枕虫が鳴いている」と言ってしまう。そして、そこから逆に、まるで旅で草枕で寝ているよう。そういえば、この世は旅の宿のようなもの、いまのいのちは旅の途中……大斎院の歌は、そう読み直せばいいのだな、と勝手に考える。
 女房たちにかこまれて生活しているのだが、旅を想像する。それも、人生という旅だ。そのとき「草枕/虫」は(草)「枕虫」に変わるのだ。そして、その変化したもの、「言語として結晶したもの」だけを高橋は引き継ぐ。
 高橋はいつも「言語の結晶」を引き継いでいる。そして、その「言語結晶」をのぞくと、それはプリズムのように、光を分解し、きらめかせる。その輝きが、高橋は好きなのだと思う。



髭振りて枕に近き虫一つ

 この発句は、「枕虫」の冒頭におかれるには、ちょっと奇妙な感じがする。「枕虫」はあくまで「鳴く」が基本。聴覚でとらえた「まぼろし」。「髭振りて」というとき、そこには聴覚は働いていない。視覚が中心になっている。「枕に近き」の「近き」も聴覚でとらえた距離ではなく、視覚でとらえた距離だろう。

 私は次の2句が好き。

つれづれに虫籠つらね肘枕

 虫かごをならべ、あきることなく見ている。「肘枕」というだらしない(?)というか、力をぬいた体の感じが、虫に酔っている、虫が大好きという感じをくっきりと浮かび上がらせる。
 このとき、「私」は、虫を見ている? 聞いている? 見ているんだろうなあ、と思う。鳴くのを待って、あかず眺めているのかもしれない。

籠の虫慕ひて虫や枕上ミ

 籠の虫が鳴いている。それを慕って恋人の(?)虫がやってくる。それがいま、枕の上)にいる。虫籠と枕のあいだ、枕の上の方(枕もと)にいる。枕の方(枕もと)から虫籠の方へ近づいていく。それを見ている。(これも視覚の句。)いいなあ。それを見ているとき、「私」は、虫の動きとは逆の動きを夢見ているかもしれない。つまり、だれかが「私」の枕の方へ近づいてくることを、ぼんやり夢想しているかもしれない。



 反句

虫めづる大斎院の枕杖

 「枕杖」ってなんだろう。大斎院の「枕虫」ということばを根拠(支え=杖)にして、「枕虫」という一連の句をつくりました、くらいの「あいさつ」かな?



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高橋 睦郎
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高木敏次『傍らの男』

2010-08-16 00:00:00 | 詩集
高木敏次『傍らの男』(思潮社、2010年07月25日発行)

 高岡修『幻語空間』が「教科書」逸脱しない詩だとすれば、高木敏次『傍らの男』は「教科書」を逸脱する詩である。詩集である。タイトルこそ『傍らの男』と「教科書」風になっているが、一篇一篇の詩を読んでいくと、「教科書」を完全に逸脱している。
 そして、その逸脱の仕方において、この詩集は今年いちばんの詩集である。今年読まなければならない、とびぬけた一冊である。

 どこが「教科書」を逸脱しているか。「居場所」という作品で読んでみる。その全行。

寝たふりをして
あきれば
起きたふりをすればいい
私が
目をこすりながらベッドを見おろしている
おはよう
呼びかけると
水を飲んで
にせものの話になって
私が新しいシャツに着替えるまで
動けない
互いの眼が見開いて
ほかに居場所はなかったという
もっていくのは
リンゴにミルク
と言ったので
冷蔵庫から出してやる
私は何かかなしそうだったが
命がけで立っているようでもあった
次の日
私は               
ことわりも言わず
出かけてしまった

 どこが「教科書」を逸脱しているか。4、5行目が「逸脱」している。「私が/目をこすりながらベッドを見おろしている」。とくに4行目が「逸脱」している。「教科書」なら、この「私が」は「男が」である。詩集のタイトルにあるように、それは「傍らの男」である。「私」ではなく、「他者」である。「私」のなかにひそむ「他者」。あるいは「本当の私」ともいう存在である。
 ひとはだれでも「私」自身のなかに、「私ではない存在」を感じている。それをはっきり見つめるために「男(あるいは、彼)」という「第三人称」をつかってあらわす。客観化しようとする。これが、これまでの「教科書」のスタイルである。
 高木は、これを「私が」と書く。「私」と区別しないのだ。「他者」としてあつかわないのだ。「私」のなかには「私ではない存在」などいない。「私」のなかにいるのは「私」でしかない。だから、「私が」と書く。
 これだけなら、しかし、高木の書いている「私」を「傍らの男」と置き換えて、「教科書」に還元できるかもしれない。(高岡修のしているのは、その「傍らの男」を「男」ではなく、別の存在、「比喩」に置き換え、「教科書」化するという詩法である。)ところが、高木は、無意識に(たぶん)、「教科書」に還元できない「私」を書いてしまう。
 そこが、とてもおもしろい。
 最後の方である。

私は何かかなしそうだったが

 「私が」とは書けないのだ。「私は」と書いてしまうのだ。格助詞が「が」から「は」にかわってしまう。ここに高木の新しさ、複雑さ、おもしろさがある。

 最初にもどる形で言いなおそう。「私が/目をこすりながらベッドを見おろしている」というのは「私」が見ている風景である。「私」は「私が/目をこすりながらベッドを見おろしている」のを見ているのである。4、5行目の前後には、「私は」と「見ている」が省略されているのである。
 10、11行目の「私が新しいシャツに着替えるまで/動けない」は「私が新しいシャツに着替えるまで/(私は)動けない」のである。あらゆる行に「私は」が実は隠れている。その「私は」は完全に高木と一体であり、高木の「思想(肉体)」そのものであるから、高木にとって書く必要のないものである。だから省略し、書かなければならない「傍らの男」としての「私」を「私が」という形で書いている。
 それが、「私は何かかなしそうだったが」で崩れてしまう。高木の「文法」が崩れてしまう。崩れてしまっても、書くしかない。この「誤謬」のなかに、高木の新しさ、私たちが読まなければならないすべてがある。
 「私は何かかなしそうだったが」はほんとうは「私が何かかなしそうだったが」と書かなければならない。(高木の文法を強引に押し通すなら。)ところが、書けない。「私」を「傍らの男」に置き換えても、「傍らの男が何かかなしそうだったが」とは書きにくい。自然に(無意識に)「傍らの男は何かかなしそうだったが」になってしまうだろう。
 格助詞が「が」から「は」になってしまう。
 なぜだろう。
 「かなしい」ということばが、格助詞を支配してしまうのだ。「私はかなしい」とは言えても「私がかなしい」とは言えない。「かなしい」、感情は「他人」にはなれないのだ。(これは、逆の言い方をすれば、たとえばだれかの悲しみを感じてしまえば、そのだれかはすでに「他人」ではなく、「私」とぴったりと一体化した存在である、ということになる。こういうことは、私たちはしばしば体験する。)
 「私のなかの他人」(私のなかの、ほんとうの私)というものは、感情を基本に見つめなおせば存在しない。何かを感じるとき「私は」という言い方しかできない。
 この「私は」にひきずられて、最後、

私は
ことわりも言わず
出かけてしまった

 という表現になる。この「私は」は「私が」でいいはずである。「私が」でなければならない。けれど、「私は何かかなしそうだったが」と書いたために、そのときの「私は」が、ことばを支配してしまうのである。
 この「誤謬」。
 
 けれど、それはほんとうに「誤謬」と言い切れるのか。「教科書文法」に固執すれば「誤謬」になる。(このときの「教科書」はすでに、高木によって書き換えられた「教科書」ではあるのだけれど……。)
 しかし、「誤謬」を通り越して、次のようにも考えることができる。
 出かけていったのは、「私が」というときの「私」ではなく、つまり「傍らの男」ではなく、その「私(傍らの男)」を見ていた「私」である。そして、それを「私が」(傍らの男が)見ている--そう考えることができる。
 省略されつづけた「私は」と、書き表されつづけた「私が」の、「私」そのものが入れ代わってしまったのだ、と考えることができる。
 なぜ簡単に入れ代わることができるか。それは「私のなかの私」は「他人」ではないからである。あくまで「私」だからである。
 
 「私」のなかに「他人」などいない。「私」のなかには「私」しかいない。それでも、その「私のなかの私」を「私」は、まるで「他人」のようにして「私が」と書き表すことができる。
 「他人」(傍らの男)と書かずに「私」と書きながら、私は、私の感じている違和感のようなものを書くことができる。

 この詩集をきちんと読むためには、私(谷内)自身の文法を一度叩き壊さなければならない。そういう手ごわい詩集である。興味深い詩集である。
 高木の詩集に関する感想は簡単には書けない--ではなく、永遠に書けないかもしれない。でも、書いてみたい。書かずにはいられない。書かなければいけない。そういう気持ちにさせられる。書かないことには、日本語が動いていかない。

 突然あらわれた詩人(私にとって突然ということで、すでに著名な詩人かもしれない)に、深く深く深く感謝したい。私は眼が非常に悪いのだが、文字が読めるあいだに、この詩集に出合えたことは、絶対に忘れない。

(アマゾン・コムでは検索できません。講読の際は、直接、思潮社に申し込んだ方が早いと思います。)

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