高貝弘也『露光』(1)(書肆山田りぶるどるしおる72、2010年07月30日発行)
高貝弘也の詩は、ほんとうのところ、何が書いてあるかわからない。「意味」がわからない。
あなたが何かをかばっていることはわかる。けれど、その何かがわからない。露光のさきって、何? この世の濡れ縁の下にうずくまるものって、何? 真っ先にないがしろにされたものって、何? 「意味」の手がかりが私にはわからない。
こんなとき、他のひとはどんなふうに読むのかなあ。「出典」を探してきて、「意味」を特定するのかなあ。--私は、そういうことはいっさいしない。
私は「意味」を読んでいないからだ。
「意味」がわからなくて、それで詩を楽しむことができるのか、と厳しく詰問されたら答えに困るのだけれど、私は「意味」抜きでも、詩は楽しいと感じる。
実際、高貝の詩は楽しい。
では、何を楽しんでいるか。
まず、ことばの「連携」。
たとえば「庇う」。この字は「庇(ひさし)」という文字でもある。そこから「家」の姿がおぼろげに浮かぶ。そこに「濡れ縁」が結びつくと、「家」の形がさらに見えてくる。「濡れ縁」は「縁側」、縁側には「下」がある。「縁の下」。「縁の下」には、ちょっとしたがらくた(ないがしろにされたもの?)が放り込まれたりする。
高貝が実際に何を書いているのか、その「意味」、その「対象」を特定はできないが、なんとなく、そういうものを感じる。そして、その感じがまとまるまでのことばの動きが、深いところでつながっている。何らかの「連携」を感じる。そして、その連携の動きがとてもスムーズである。
このスムーズ感(こういうことばってあるのかな?)が私は気に入っている。「意味」はわからないけれど、ことばの動きをスムーズに感じる。
これは、たとえていえば、すばらしいダンスを見たときのようなものだ。ダンスのそれぞれの所作には「意味」があるかもしれない。その「意味」がわかった方が、ダンスの「意味」が明確になるのかもしれないけれど、「意味」がわからなくても、スムーズな動きだけで、あ、美しいと感じる。それに似ている。
そしてまた、そのスムーズな動きを支えている肉体にも感動する。簡単に動いているように見えるけれど、その動きを実現するまでにはいろんな訓練(練習)があり、それをひとつひとつ消化してきた肉体がある。その肉体に似たものがことばにもある。ことばも「肉体」を持っている。その鍛えられた「肉体」、「ことばの肉体」を高貝から感じる。高貝がいろいろな日本語を読んできて、その日本語が「肉体」となっているのを感じる。
その「肉体」は、具体的には指摘できないのだけれど、ことばの音、リズムと関係しているように思う。「音楽」と関係しているように思う。簡単に言うと、私には、高貝のことばは「読みやすい」のである。声に出すわけではないが、楽に読める。そこには何か基本的な音楽で言うときのコード進行のようなものが隠れている。メロディーだけではなく、リズムにおいても。
「この世の」の「この」、「その下で」の「その」。ふたつの繰り返しのあとの、「真っ先に」。この「真っ先に」は次の行の先頭に来るべきものなのだが、行の末尾に来ている。そして、それは「この」や「その」のように、何か、先行するものとしっかり結びつきながら新しい展開を誘っている。そういうことばの「リズム」がある。そういうリズムを確立しておいて、次の行で突然「蔑ろにされた」という飛躍がある。ここに、私は、美しいリズムを感じる。「真っ先の」ではなく「真っ先に」の「の」と「に」の違い(この、そのを踏まえるなら「真っ先の」であってもいいのかもしれないけれど)、「に」にすることによって変化があらかじめ知らされるその気配りのリズム。
高貝は「意味」を書いているのかもしれない。私はその「意味」はわからない。けれども、わからないものを通り越して、そこに「音楽」を感じる。そして、その「音楽」を気持ちがいい、と感じる。
私はこれで満足なのだ。
以前、西脇順三郎の詩句の「出典」を丁寧に調べ上げ、「意味」を特定する労作論文を読んだことがある。そこに書かれているのは間違いではないだろう。いや、絶対的な「正解」なのだろう。けれど、私は不思議に思うのだ。ある「意味」を言うために、通常つかわれないことばをわざとつかう。(わざと、のなかに、詩があるのは確かだが。)それはそれでいいのだが、なぜ、そのわざとそのことばを選んだとき、そのことばであったのか、そこがその論文からはつたわってこない。西脇は博覧強記のひとである。「意味」をつたえるのが目的なら、そのことば以外の別のことばを引用してもいいかもしれない。もしかすると「覆された宝石」よりも的確なことばを西脇は知っていたかもしれない。そういう複数のことばのなかから、なぜ西脇はそのことばを選んだか--それは出典をどんなに特定してもたどりつけない謎である。
私は「出典」よりも、いくつもの「出典」を貫いている「謎」の方に興味がある。私にとって、西脇は音のひと、音楽の詩人である。ことばをつらぬいているのは「音楽」である。「意味」でも「イメージ」でもなく、西脇は「音」が大好きで、音の好みによってことばを呼び集めている。音が「和音」(不協和音も含めて)になるように、ことばをつないでいる。私にはそう感じられる。
高貝の「音楽」は西脇の「音楽」とは異質である。異質であるけれど、やはり高貝もまた「音楽」によって音を集めている、行を展開している、と私は感じる。
*
高貝のことばに、私は「意味」を感じない。というより「意味の放棄」をこそ書いているように思える。
この詩篇には「主語」があるのかないのか、よくわからない。「木霊」の「残響」が「主語」であり、それが「あなたに」(補語)「声をかけている」(述語)--というふうに読むことはできるが、もしそうであるなら、それが明確になるように書くというのが「文」の基本である。あいだに、(やみがたい 人間の性)というような、それってかけた「声」の内容?と疑問を誘うなことばをわざとはさんで、わざわざわかりにくくする必要はないだろう。こんなことは「学校教科書」のことばでは許されない。
でも、高貝は書く。
「意味」が「意味」になっては困るのだ。「意味」を書きたくないのだ。「意味」をばらばらにしてしまって、ことばを浮遊させたいのだ。ことばが、ことばと互いに呼び合って、集まったり、離れたりして動いていく。ダンスする。そういうことばのあり方をこそ書きたいのだ。
ことばがことばを呼び合い、音を響かせない、リズムをととのえ、ことばの肉体のダンスを繰り広げる。--ダンスと書いたけれど、高貝のことばはダンスというよりも、日本的な「舞(まい)」という感じかなあ。
舞のことはよく知らないが(何もかも知らないのが私だけれど)、舞のなかには日常とつながっているようでつながっていない動きがある。日常をなぞりながらも、日常を超えるものがある。不自然なのに、その不自然さが美しく見えるものがある。むりが、肉体を鍛えている感じがする。歌舞伎の動きもそうだ。日常を揺り動かしながら、日常を超える不思議な輝きがある。
それと似たものが高貝のことばにある。
「疚しい」子を「孕む」。そのときの、「疚しい」と「孕む」を結びつける(やみがたい 性)という感じ。いま、そこに書かれていないけれど、別な場所で書かれたことばがよみがえってきて、ことばをむりな動きをとらせる。そのときの、ことば自体の肉体の動き--そこに、不思議な美しさがある。
高貝弘也の詩は、ほんとうのところ、何が書いてあるかわからない。「意味」がわからない。
露光のさきを、あなたが必死に庇(かば)いつづけている。
この世の濡れ縁---- その下で蹲(うずくま)るものを。真っ先に
蔑(ないがし)ろにされていたものを
あなたが何かをかばっていることはわかる。けれど、その何かがわからない。露光のさきって、何? この世の濡れ縁の下にうずくまるものって、何? 真っ先にないがしろにされたものって、何? 「意味」の手がかりが私にはわからない。
こんなとき、他のひとはどんなふうに読むのかなあ。「出典」を探してきて、「意味」を特定するのかなあ。--私は、そういうことはいっさいしない。
私は「意味」を読んでいないからだ。
「意味」がわからなくて、それで詩を楽しむことができるのか、と厳しく詰問されたら答えに困るのだけれど、私は「意味」抜きでも、詩は楽しいと感じる。
実際、高貝の詩は楽しい。
では、何を楽しんでいるか。
まず、ことばの「連携」。
たとえば「庇う」。この字は「庇(ひさし)」という文字でもある。そこから「家」の姿がおぼろげに浮かぶ。そこに「濡れ縁」が結びつくと、「家」の形がさらに見えてくる。「濡れ縁」は「縁側」、縁側には「下」がある。「縁の下」。「縁の下」には、ちょっとしたがらくた(ないがしろにされたもの?)が放り込まれたりする。
高貝が実際に何を書いているのか、その「意味」、その「対象」を特定はできないが、なんとなく、そういうものを感じる。そして、その感じがまとまるまでのことばの動きが、深いところでつながっている。何らかの「連携」を感じる。そして、その連携の動きがとてもスムーズである。
このスムーズ感(こういうことばってあるのかな?)が私は気に入っている。「意味」はわからないけれど、ことばの動きをスムーズに感じる。
これは、たとえていえば、すばらしいダンスを見たときのようなものだ。ダンスのそれぞれの所作には「意味」があるかもしれない。その「意味」がわかった方が、ダンスの「意味」が明確になるのかもしれないけれど、「意味」がわからなくても、スムーズな動きだけで、あ、美しいと感じる。それに似ている。
そしてまた、そのスムーズな動きを支えている肉体にも感動する。簡単に動いているように見えるけれど、その動きを実現するまでにはいろんな訓練(練習)があり、それをひとつひとつ消化してきた肉体がある。その肉体に似たものがことばにもある。ことばも「肉体」を持っている。その鍛えられた「肉体」、「ことばの肉体」を高貝から感じる。高貝がいろいろな日本語を読んできて、その日本語が「肉体」となっているのを感じる。
その「肉体」は、具体的には指摘できないのだけれど、ことばの音、リズムと関係しているように思う。「音楽」と関係しているように思う。簡単に言うと、私には、高貝のことばは「読みやすい」のである。声に出すわけではないが、楽に読める。そこには何か基本的な音楽で言うときのコード進行のようなものが隠れている。メロディーだけではなく、リズムにおいても。
この世の濡れ縁---- その下で蹲(うずくま)るものを。真っ先に
「この世の」の「この」、「その下で」の「その」。ふたつの繰り返しのあとの、「真っ先に」。この「真っ先に」は次の行の先頭に来るべきものなのだが、行の末尾に来ている。そして、それは「この」や「その」のように、何か、先行するものとしっかり結びつきながら新しい展開を誘っている。そういうことばの「リズム」がある。そういうリズムを確立しておいて、次の行で突然「蔑ろにされた」という飛躍がある。ここに、私は、美しいリズムを感じる。「真っ先の」ではなく「真っ先に」の「の」と「に」の違い(この、そのを踏まえるなら「真っ先の」であってもいいのかもしれないけれど)、「に」にすることによって変化があらかじめ知らされるその気配りのリズム。
高貝は「意味」を書いているのかもしれない。私はその「意味」はわからない。けれども、わからないものを通り越して、そこに「音楽」を感じる。そして、その「音楽」を気持ちがいい、と感じる。
私はこれで満足なのだ。
以前、西脇順三郎の詩句の「出典」を丁寧に調べ上げ、「意味」を特定する労作論文を読んだことがある。そこに書かれているのは間違いではないだろう。いや、絶対的な「正解」なのだろう。けれど、私は不思議に思うのだ。ある「意味」を言うために、通常つかわれないことばをわざとつかう。(わざと、のなかに、詩があるのは確かだが。)それはそれでいいのだが、なぜ、そのわざとそのことばを選んだとき、そのことばであったのか、そこがその論文からはつたわってこない。西脇は博覧強記のひとである。「意味」をつたえるのが目的なら、そのことば以外の別のことばを引用してもいいかもしれない。もしかすると「覆された宝石」よりも的確なことばを西脇は知っていたかもしれない。そういう複数のことばのなかから、なぜ西脇はそのことばを選んだか--それは出典をどんなに特定してもたどりつけない謎である。
私は「出典」よりも、いくつもの「出典」を貫いている「謎」の方に興味がある。私にとって、西脇は音のひと、音楽の詩人である。ことばをつらぬいているのは「音楽」である。「意味」でも「イメージ」でもなく、西脇は「音」が大好きで、音の好みによってことばを呼び集めている。音が「和音」(不協和音も含めて)になるように、ことばをつないでいる。私にはそう感じられる。
高貝の「音楽」は西脇の「音楽」とは異質である。異質であるけれど、やはり高貝もまた「音楽」によって音を集めている、行を展開している、と私は感じる。
*
高貝のことばに、私は「意味」を感じない。というより「意味の放棄」をこそ書いているように思える。
露端に木霊する、遠い残響が
(やみがたい 人間の性)
逝(ゆ)き迷う あなたに、
声をかけている
この詩篇には「主語」があるのかないのか、よくわからない。「木霊」の「残響」が「主語」であり、それが「あなたに」(補語)「声をかけている」(述語)--というふうに読むことはできるが、もしそうであるなら、それが明確になるように書くというのが「文」の基本である。あいだに、(やみがたい 人間の性)というような、それってかけた「声」の内容?と疑問を誘うなことばをわざとはさんで、わざわざわかりにくくする必要はないだろう。こんなことは「学校教科書」のことばでは許されない。
でも、高貝は書く。
「意味」が「意味」になっては困るのだ。「意味」を書きたくないのだ。「意味」をばらばらにしてしまって、ことばを浮遊させたいのだ。ことばが、ことばと互いに呼び合って、集まったり、離れたりして動いていく。ダンスする。そういうことばのあり方をこそ書きたいのだ。
ことばがことばを呼び合い、音を響かせない、リズムをととのえ、ことばの肉体のダンスを繰り広げる。--ダンスと書いたけれど、高貝のことばはダンスというよりも、日本的な「舞(まい)」という感じかなあ。
舞のことはよく知らないが(何もかも知らないのが私だけれど)、舞のなかには日常とつながっているようでつながっていない動きがある。日常をなぞりながらも、日常を超えるものがある。不自然なのに、その不自然さが美しく見えるものがある。むりが、肉体を鍛えている感じがする。歌舞伎の動きもそうだ。日常を揺り動かしながら、日常を超える不思議な輝きがある。
それと似たものが高貝のことばにある。
棄(す)てられていた、道端の ごま鯖(さば)。
また疚(やま)しい子を孕(はら)んでいる 訝(いぶか)しそうに、
「疚しい」子を「孕む」。そのときの、「疚しい」と「孕む」を結びつける(やみがたい 性)という感じ。いま、そこに書かれていないけれど、別な場所で書かれたことばがよみがえってきて、ことばをむりな動きをとらせる。そのときの、ことば自体の肉体の動き--そこに、不思議な美しさがある。
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