詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高貝弘也『露光』(1)

2010-08-06 12:00:00 | 詩集
高貝弘也『露光』(1)(書肆山田りぶるどるしおる72、2010年07月30日発行)

 高貝弘也の詩は、ほんとうのところ、何が書いてあるかわからない。「意味」がわからない。

露光のさきを、あなたが必死に庇(かば)いつづけている。
この世の濡れ縁---- その下で蹲(うずくま)るものを。真っ先に
蔑(ないがし)ろにされていたものを


 あなたが何かをかばっていることはわかる。けれど、その何かがわからない。露光のさきって、何? この世の濡れ縁の下にうずくまるものって、何? 真っ先にないがしろにされたものって、何? 「意味」の手がかりが私にはわからない。
 こんなとき、他のひとはどんなふうに読むのかなあ。「出典」を探してきて、「意味」を特定するのかなあ。--私は、そういうことはいっさいしない。
 私は「意味」を読んでいないからだ。
 「意味」がわからなくて、それで詩を楽しむことができるのか、と厳しく詰問されたら答えに困るのだけれど、私は「意味」抜きでも、詩は楽しいと感じる。
 実際、高貝の詩は楽しい。
 では、何を楽しんでいるか。
 まず、ことばの「連携」。
 たとえば「庇う」。この字は「庇(ひさし)」という文字でもある。そこから「家」の姿がおぼろげに浮かぶ。そこに「濡れ縁」が結びつくと、「家」の形がさらに見えてくる。「濡れ縁」は「縁側」、縁側には「下」がある。「縁の下」。「縁の下」には、ちょっとしたがらくた(ないがしろにされたもの?)が放り込まれたりする。
 高貝が実際に何を書いているのか、その「意味」、その「対象」を特定はできないが、なんとなく、そういうものを感じる。そして、その感じがまとまるまでのことばの動きが、深いところでつながっている。何らかの「連携」を感じる。そして、その連携の動きがとてもスムーズである。
 このスムーズ感(こういうことばってあるのかな?)が私は気に入っている。「意味」はわからないけれど、ことばの動きをスムーズに感じる。
 これは、たとえていえば、すばらしいダンスを見たときのようなものだ。ダンスのそれぞれの所作には「意味」があるかもしれない。その「意味」がわかった方が、ダンスの「意味」が明確になるのかもしれないけれど、「意味」がわからなくても、スムーズな動きだけで、あ、美しいと感じる。それに似ている。
 そしてまた、そのスムーズな動きを支えている肉体にも感動する。簡単に動いているように見えるけれど、その動きを実現するまでにはいろんな訓練(練習)があり、それをひとつひとつ消化してきた肉体がある。その肉体に似たものがことばにもある。ことばも「肉体」を持っている。その鍛えられた「肉体」、「ことばの肉体」を高貝から感じる。高貝がいろいろな日本語を読んできて、その日本語が「肉体」となっているのを感じる。
 その「肉体」は、具体的には指摘できないのだけれど、ことばの音、リズムと関係しているように思う。「音楽」と関係しているように思う。簡単に言うと、私には、高貝のことばは「読みやすい」のである。声に出すわけではないが、楽に読める。そこには何か基本的な音楽で言うときのコード進行のようなものが隠れている。メロディーだけではなく、リズムにおいても。

この世の濡れ縁---- その下で蹲(うずくま)るものを。真っ先に

 「この世の」の「この」、「その下で」の「その」。ふたつの繰り返しのあとの、「真っ先に」。この「真っ先に」は次の行の先頭に来るべきものなのだが、行の末尾に来ている。そして、それは「この」や「その」のように、何か、先行するものとしっかり結びつきながら新しい展開を誘っている。そういうことばの「リズム」がある。そういうリズムを確立しておいて、次の行で突然「蔑ろにされた」という飛躍がある。ここに、私は、美しいリズムを感じる。「真っ先の」ではなく「真っ先に」の「の」と「に」の違い(この、そのを踏まえるなら「真っ先の」であってもいいのかもしれないけれど)、「に」にすることによって変化があらかじめ知らされるその気配りのリズム。
 高貝は「意味」を書いているのかもしれない。私はその「意味」はわからない。けれども、わからないものを通り越して、そこに「音楽」を感じる。そして、その「音楽」を気持ちがいい、と感じる。
 私はこれで満足なのだ。

 以前、西脇順三郎の詩句の「出典」を丁寧に調べ上げ、「意味」を特定する労作論文を読んだことがある。そこに書かれているのは間違いではないだろう。いや、絶対的な「正解」なのだろう。けれど、私は不思議に思うのだ。ある「意味」を言うために、通常つかわれないことばをわざとつかう。(わざと、のなかに、詩があるのは確かだが。)それはそれでいいのだが、なぜ、そのわざとそのことばを選んだとき、そのことばであったのか、そこがその論文からはつたわってこない。西脇は博覧強記のひとである。「意味」をつたえるのが目的なら、そのことば以外の別のことばを引用してもいいかもしれない。もしかすると「覆された宝石」よりも的確なことばを西脇は知っていたかもしれない。そういう複数のことばのなかから、なぜ西脇はそのことばを選んだか--それは出典をどんなに特定してもたどりつけない謎である。
 私は「出典」よりも、いくつもの「出典」を貫いている「謎」の方に興味がある。私にとって、西脇は音のひと、音楽の詩人である。ことばをつらぬいているのは「音楽」である。「意味」でも「イメージ」でもなく、西脇は「音」が大好きで、音の好みによってことばを呼び集めている。音が「和音」(不協和音も含めて)になるように、ことばをつないでいる。私にはそう感じられる。

 高貝の「音楽」は西脇の「音楽」とは異質である。異質であるけれど、やはり高貝もまた「音楽」によって音を集めている、行を展開している、と私は感じる。



 高貝のことばに、私は「意味」を感じない。というより「意味の放棄」をこそ書いているように思える。

露端に木霊する、遠い残響が


(やみがたい 人間の性)

逝(ゆ)き迷う あなたに、
声をかけている

 この詩篇には「主語」があるのかないのか、よくわからない。「木霊」の「残響」が「主語」であり、それが「あなたに」(補語)「声をかけている」(述語)--というふうに読むことはできるが、もしそうであるなら、それが明確になるように書くというのが「文」の基本である。あいだに、(やみがたい 人間の性)というような、それってかけた「声」の内容?と疑問を誘うなことばをわざとはさんで、わざわざわかりにくくする必要はないだろう。こんなことは「学校教科書」のことばでは許されない。
 でも、高貝は書く。
 「意味」が「意味」になっては困るのだ。「意味」を書きたくないのだ。「意味」をばらばらにしてしまって、ことばを浮遊させたいのだ。ことばが、ことばと互いに呼び合って、集まったり、離れたりして動いていく。ダンスする。そういうことばのあり方をこそ書きたいのだ。
 ことばがことばを呼び合い、音を響かせない、リズムをととのえ、ことばの肉体のダンスを繰り広げる。--ダンスと書いたけれど、高貝のことばはダンスというよりも、日本的な「舞(まい)」という感じかなあ。
 舞のことはよく知らないが(何もかも知らないのが私だけれど)、舞のなかには日常とつながっているようでつながっていない動きがある。日常をなぞりながらも、日常を超えるものがある。不自然なのに、その不自然さが美しく見えるものがある。むりが、肉体を鍛えている感じがする。歌舞伎の動きもそうだ。日常を揺り動かしながら、日常を超える不思議な輝きがある。
 それと似たものが高貝のことばにある。 

棄(す)てられていた、道端の ごま鯖(さば)。
また疚(やま)しい子を孕(はら)んでいる 訝(いぶか)しそうに、

 「疚しい」子を「孕む」。そのときの、「疚しい」と「孕む」を結びつける(やみがたい 性)という感じ。いま、そこに書かれていないけれど、別な場所で書かれたことばがよみがえってきて、ことばをむりな動きをとらせる。そのときの、ことば自体の肉体の動き--そこに、不思議な美しさがある。




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クロード・オータン・ララ監督「赤と黒」(★★★★)

2010-08-06 10:22:19 | 映画

監督 クロード・オータン・ララ 出演 ジェラール・フィリップ、ダニエル・ダリュー
 主人公の「こころの声」を台詞として表現している部分は、私は好きにはなれない。こころの声は台詞ではなく、顔、肉体で表現すべきである。台詞がないのに「こころの声」が聞こえてこそ映画である--というのが、私の基本的な考え方である。台詞がないのに、声が聞こえてくる、という映画が私は好きである。
 だいたい、口を開いていないのに声が聞こえるって、変でしょ?

 ところが。

 この映画では、それがそれほど異様には感じないし、「こころの声」が邪魔にならない。どうしてなのか。ひとつには、映画のシーン、シーンの前に引用される「ことば」(文字)の影響があるかもしれない。主にスタンダールのことばが引用され、それから「小説」の重要な部分だけが映像化されるという具合に進む映画進行が影響しているかもしれない。これは映画であると同時に小説である、というスタイルが、いい意味で作用している。主人公が口を開かなくても、「こころの声」がそのまま台詞になっていても、これは「小説」である、と思えば納得がいく。
 もうひとつ。ジェラール・フィリップの色男ぶりが、口を開かずに「こころの声」を発するという異様さを吸収するのである。この映画に登場する女性は、ジェラール・フィリップを見ると、そのとたんに恋をする。夢中になる。ジェラール・フィリップが何を言っているかなど、ほとんど「意味」がない。ただ、みとれ、ただ夢中になる。「台詞」はあっても、ほんとうは存在しないのだ。同じように、映画で、ジェラール・フィリップがどれだけ「こころの声」をことばにして語ろうが、観客は、実はその台詞を聞いていない。なぜ、この男はこんなに色男なのだろう。あの、切れ長の目。笑窪。国籍不明の、「色男」としかいいようのない顔をして動き回っている。あっというまに女のこころをとらえてしまう、その目付き。その顔。その顔さえあれば、ほかは何もいらないのだ。観客は、ジェラール・フィリップがどんな演技をするか、どんなふうに人間を演じるかなど、見に来てはいない。ただ、その顔を、その色男ぶりを見に来ているだけなのだ。
 うーん。
 ここには、ある意味で、映画の「原点」がある。

 映画自体としては、ダニエル・ダリューの演技に負っている部分が多い。ジェラール・フィリップはただ出ていればいい。映画の質、深みは、ダニエル・ダリューが支える。
 いちばんおもしろいのは、ダニエル・ダリューがジェラール・フィリップと一夜をすごしたあと、夫がやってくる。夫に女は嘘をつく。そのあとの部分である。間男を庇い、夫に嘘をつく。それは大変なこと(特に当時は)である。女は自分にはそんなことができるわけがないと思っていた。ところが、やってみると実に簡単だった。その「実に簡単」ということが不思議で、その一連の行為を繰り返してみる。ジェラール・フィリップはそれを、この女、いったい何をやっているんだというような目付きで見ている。ここには「こころの声」はないのだが、その「こころの声」をダニエル・ダリューの演技が自然に引き出している。
 いやあ、おもしろいなあ。このシーンだけ、何度でも見てみたいなあ。傑作だなあ。まるで別な映画になっている。
 このシーンがあまりにもすばらしいので、後半、ダニエル・ダリューが登場しなくなると、映画のおもしろさが半減してしまう。そして、最後に、再びダニエル・ダリューが登場して、彼女がジェラール・フィリップの結婚を邪魔したとき、そこに嫉妬心が動いていなかったかと問われ、あ、そうだ、嫉妬していたんだと気づくシーンがある。ここで、この映画は再び一気に佳境に入る。ダニエル・ダリューに引きこまれる。嫉妬が、夫に対する嘘と同じように、実に「簡単」なのである。簡単であるということを、ダニエル・ダリューが、一瞬の顔でみせてしまう。
 「赤と黒」は若い男の野望を描いているようで、ほんとうは熟女のこころの自然な動き、「簡単」になんでもやってしまう女の不思議さを描いているのかもしれない。そんなことを考えてしまった。
 「小説」のなかでは、ダニエル・ダリューの演じた女はどう描写されているのか。読んでみたい、と思った。私はまだ「赤と黒」を読んでいないのだ。



 映画とは直接関係がないのかもしれないが、ジェラール・フィリップが「シャツを何枚もっているのか」と問われるシーンがおもしろかった。服ではなく、シャツ。シャツは、昔は下着だったんだねえ。ジャケットは上着。当時は下着(シャツ)を上着で隠しているという感覚だったのだろう。隠しているけれど、その一部は見える。それは上着以上に清潔でなければならない、ということかもしれない。同席している人が汗で汚れたシャツを着ていると外見でわかるのは醜い--という美意識が、当時はあったんだろうなあ、と思った。


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高橋睦郎『百枕』(6)

2010-08-06 00:00:00 | 高橋睦郎『百枕』
高橋睦郎『百枕』(6)(書肆山田りぶるどるしおる、2010年07月10日発行)

 「年枕--十二月」。

これよりは枕を友ぞ冬に入る

夜長しと枕の蕎麦を足しにけり

 高橋の句はことばが多いものが目立つけれど、こういった静かな句もある。私は特に「夜長し」の句が気に入っている。枕はつかっているうちにだんだん低くなる。だから、蕎麦を足している。それだけのことだが、この「足す」ということばに不思議なあたたかさを感じる。「くらし」の維持、というとおおげさだけれど、何かを丁寧に持続するこころ--そこにあたたかさを感じる。
 冒頭の句は、冬に入れば、ほんとうは「ふとん」が友達になるだろうけれど、それを「ふとん」と言わずに「枕」といったところがおもしろい。あ、そうか、ふとんだけじゃ眠れないね、と気がつく。ささやかな気づきなのだが、そのささやかなところへとことばを動かしていく感性が気持ちがいい。

極月の枕に人の匂ひかな

年の衾年の枕や深沈と

 ここにあるのは、恋だろうか。恋はセックスをしてこそ、恋。セックスの肌のあたたかさ。冬こそ、そのあたたかさを感じるときだ。「肌」を「人」と、「あたたかさ」を「匂い」と呼ぶとき、そこに感覚の融合がある。触覚と嗅覚がまじりあい、「人間」が生まれてくる。

 そんな句を書いたあと、高橋はエッセイで『紫式部日記』の「大晦日」を引用し、

長局年の果なる凍テ枕

 あ、だれも触れないので、そこにはひとの匂いがしない。単に冷たいのではなく、ひとが触れないことで匂いをもたない感じ--それが「凍テ」る、ということ。
 
日本語はおもしろい。

遊ぶ日本
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