詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高橋睦郎『百枕』(20)

2010-08-20 08:54:37 | 高橋睦郎『百枕』
高橋睦郎『百枕』(20)(書肆山田りぶるどるしおる、2010年07月10日発行)

 「枕神--二月」。
 「枕神」とは、高橋のエッセイによれば、

枕神とは夢枕に立つ神のこと。とすれば、それにふさわしい動詞は「立つ」。

 そしてそこから、二月、立春、佐保姫という連想がつづき、そこから

佐保姫の春立ちながらしとをして
  霞のころも裾はぬれけり

という句の付合が紹介され、さらにさらに連想はかけめぐる。その連想は高橋の書いている句の「補足」のようなものだが、その展開を読んでいると、やはりこの句集は「ひとり連歌」だなあ、という気がしてくる。
 ふつう俳句はある現実世界と向き合い、そこで動いたことばだが、連歌の場合、必ずしも現実世界とは向き合わない。向き合うのは、前句のことば--ことばがつくりだす世界である。前のことばがつくりだす世界を、つぎのことばでどう展開していくか。どこまで想を自由に、闊達に動かしていくことができるか。
 しかも、そこでは「場」が重視される。ことばをどこへでも動かしていけばいいというのではない。調和を保ちながら、なおかつ動いていく。停滞しない。

 --というようなことは、わきにおいておいて……。いや、そのちょっと「場」をずらした「わき」こそが「ほんとうの場」であるかもしれないが……。

春立つや衾マをかづく枕上ミ

 「枕神」「枕上」「枕紙」。そこに「衾」が出てきて、「春」が出てきて、わざわざエッセイでは「立つ」と括弧付きの動詞が書かれていたが……。
 あ、私はとても俗な人間だから、ついつい「佐保姫」がどんな神様かは別にして、違う方へ違う方へ思いが動いてしまう。高橋は意地悪(?)だから、やっぱりそういう方向へことばを動かしている。エッセイでも「枕紙」について、説明して、徐々に徐々に、話を身近なことがら、「神様」ではなく「人間」の方へもっていく。まあ、昔は「神様」はとてもくだけていたから、「神様」であっても「人間」なのかもしれないが。

折り数え枕おぼろや春おぼろ

春かさね枕かさねし古頭ラ

 「おぼろ」は春だけではない。「かさね」るのは春だけではないなあ。



 反句、

枕紙白きがままに春闌けぬ

 さて、この「白きがままに」はなぜでしょう。そして、その「紙」の「目的」はなんだったのだろう。
 高橋は

詩と交われない詩人にとって、枕紙は永遠に無染(むぜん)の白紙(タブラ・ラサ)のままだろう。

 と、またしても意地悪(?)を書いている。高橋は「詩と交われない詩人」ではないし、詩と交わっているからこそいくつもの句が書かれている。ここでは「事実」が書かれているのではなく、「交わる」ということばこそが書かれているのだ。
 「交わる」という文字、ちゃんと見た?

 句の「内容・意味」にも大切なもの、高橋の「思想」は当然含まれているが、「内容・意味」から逸脱していくことば、ことばそのものを隠されている。どうぞ、「誤読」して、どうぞ「逸脱」して、かってにいやらしいことを考えてね。でも、それは私(高橋)の「連想(思想)」ではなく、句を読んだ読者(たとえば谷内)のかってな「連想」だよ、といいたくて、

「交わる」という文字、ちゃんと見た? マクラガミって「枕紙」だよ、わかる?

 と、「わざと」ささやく。
 私は、こっちの方の「わざと」に、詩の本質があるかもしれない、とときどき考えてしまう。
 作品の「内容」ではなく、それをあらわすためにつかうことばの、「わざと」誤解を誘うようなつかい方、ことばの選び方にこそ、詩の本質があると思うことがある。




たまや―詩歌、俳句、写真、批評…etc. (04)
加藤 郁乎,岡井 隆,中江 俊夫,相澤 啓三,高橋 睦郎,佐々木 幹郎,建畠 晢,水原 紫苑,小澤 實,時里 二郎
インスクリプト

このアイテムの詳細を見る

人気ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

石倉宙矢『父を着て』

2010-08-20 00:00:00 | 詩集
石倉宙矢『父を着て』(土曜美術社出版販売「エリア・ポエジア叢書」、2010年07月30日発行)

 石倉宙矢『父を着て』の巻頭の詩、「父を着て」は「父」ではなく、「母」がまず出てくる。顔を洗っている。

私は洗面所にこもって顔を洗う
日に焼けた油じみた額(ひたい)
指がまさぐって濯いでゆく老いた肉
両掌(てのひら)が突きしたり、確かめる髑髏
それは母のもの
母が老いた自分の顔を丁寧に洗っている
子が覗くのにも気づかず
その母のたわんだ皮膚を私が洗っている
「老いたね」と言いながら
母が私のよごれた皺を洗う
母が私を着て、私が母を着て
互いの顔を洗いあっている

 「母」と「私」が交錯する。「母が私を着て、私が母を着て」と並列に書かれている。それは、どちらと限定できないのだ。交じり合っているのだ。
 私は私の顔を洗う。そのとき、私の手は、その手の先に「母」を感じる。「私」のなかにい「母」である。遺伝子も(骨格--「髑髏」と石倉は書く)も思い出も区別なく交じり合って、「顔」のなかにある。皮膚にも、骨格にも、そして、「老い」という現象のなかにも「母」と「私」が交じり合う。「母」の年になり、その溶け合ったものは、いっそう区別がつかなくなる。
 区別がつかない--けれども、石倉は、それを区別する。「母を着る」「私を着る」という表現で。「着る」という動詞で。ことばで。
 ことばにすれば、そこに「区別」が出てくる。そして、その区別によって、逆に融合が強調される。共通性が強調される。共通するものを、区別できないものを、より強く自覚するために、「着る」という不自然なことばがつかわれている。わざと、そういうことばがつかわれている。
 この「わざと」のなかに詩がある。石倉がことばを動かすことで、はっきりと見つめたいものがある。
 「水辺の散歩」に次の行が出てくる。

さ ここで川が海に入る

どこまでが川の水?
どこからが海の水?

 区別はできない。区別はできないが、区別できないと知ったときに、ことばのなかで区別がはっきりと動く。融合を意識しながら。
 この区別と融合はいったい何なのだろう?
 「海辺の散歩」のつづき。

藻につかまってアメフラシも覗いている
花びらや葉っぱが沖へ出てゆく
無数の川や涙をとかして世界に繋ぐ海

 「繋ぐ」ということば。融合とは「区別」できるものを「繋ぐ」とき、繋いだときの状態なのだ。「繋がり」が、石倉にとっての「キイワード」だ。
 顔を洗う。そのとき、顔を洗うという動作を通して「私」と「母」がつながる。どんなふうにして顔を洗う? 手の動きは? どこを丁寧に洗う? そうした動きを通して、「私」は「母」の記憶とつながる。記憶のなかの「母」とつながり、また、手に触れてくる骨格から「母」を感じる。「母」の皮膚、「母」の老いを感じる。
 「髑髏」(骨格)に触れるというのは、「私」が「母」の骨格をていねいに洗った記憶があるからだろう。たぶん、「母」は亡くなっている。「母」の最後の洗顔--それを「私」は「私」の手でしたのだ。そんなふうに、最後に「母」の顔を洗うという行為、そのことによって「私」と「母」はより強くつながる。
 「私」と「母」を繋いでいるのは、遺伝子だけではなく、「母」から学んだ「行為」が二人を繋いでいるのだ。

母が私を着て、私が母を着て

 の「着る」は、「行為を繋ぐ」(継承する)ということである。「繋ぐ」--このとき、繋ぐ対象は違っても、繋ぐという行為そのものは変わらない。「母」と繋ぐ、その繋ぐという行為は「父」と繋ぐときも変わらない。
 「父を着る」という詩の最初に「父」は出てこない。「母」がまず出てきて「私」と繋がる。けれども、その「繋がり」は「母」をとおして「父」までつづいている。どこまでもどこまでもつながり、とぎれることはない。
 そういうつながりによって、「私」はできている。
 「かぞくてんせい」を読むと、石倉の「つながり」に対する意識がよりわかりやすくなる。

よしこや
おかあさんもうわらいますからね
おまえも
いつまでもおこってないで
はやくわらいなさいよ
おとうさんならもうさきにわらっています
だからわたしもわらいます
おまえも
いつまでもがをはらず
はやくにっこりとわらいなさいね

よしこや
おかあさんもうわすれますからね
おまえも
いつまでもおぼえていないで
はやくわすれなさいよ
おとうさんならもうさきにわすれています
だからわたしもわすれます
おまえも
いつまでもこだわってないで
はやくさっぱりわすれないさいね

よしこや それじゃあ
おかあさんもうしにますからね
おまえも
いつまでもいきていないで
はやくしになさいよ
おとうさんならもうさきにしんでいます
だからわたしもしにます
おまえも
いつまでもがんばりすぎずに
はやくさっぱりとしになさいね

よしこや
おかあさんまたうまれますからね
おまえも
いつまでもしんでいないで
はやくうまれなさいよ
おとうさんならもうさきにうまれています
だからわたしもうまれます
おまえも
いつまでゆらゆらちらばっていないで
はやくげんきにうまれなさいね

 「つながる」とはあくまで「他人(他者」とつながることである。自分自身につながっていてはいけない。そういうことを「我を張る」という。そして、我を張ったままの状態を、「ちらばる」ととらえる。詩の最後から2行目の「ちらばって」が「つながる」と向き合っている反対のことばである。
 自分自身につながることをやめて、他人とつながる--それは、また、再生(生まれ変わる)ということでもある。死んで、生まれ変わる。その繰り返しが「いのち」である。死んで生まれ変わるには「つながる」ことが重要である。「ゆらゆらちらばって」いてはだめなのだ。
 


父を着て―石倉宙矢詩集 (エリア・ポエジア叢書)
石倉 宙矢
土曜美術社出版販売

このアイテムの詳細を見る

人気ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする