高橋睦郎『百枕』(12)(書肆山田りぶるどるしおる、2010年07月10日発行)
「梅雨枕--六月」。
天上を見ているのは、何をするともなく横になっている「わたし」かもしれない。たぶん、そう読むのが俳句なのだと思うけれど、「枕」そのものが天上を見ていると思ってもいいかもしれない。
だれもつかわない枕--取り残されて、そのまま天上を見ている。それは、そのまま万年床の感じにつながる。
雨に降られて宿に泊まってみれば、枕が黴臭い。だれもつかっていないのだ。つかわれずにほうっておかれた枕。いったいここはどんな宿? 枕に問いかけている。
前の句の「わたし」は天上を見ていたかもしれないが、この句によって、その「わたし」は消え去り、ほんとうに「枕」だけが天上を見ているにかわっていく。
この句が前の句を変えたのか、それとも前の句に変わる要素があって、それがこの句を生み出したのか。どちらかわからないけれど、ことばのなかにある何かがことばの運動を変えていく、ということがあると思う。
連歌は、その運動を複数の人間で楽しむものだと思う。高橋は、それをひとりでやっている--これは前にも書いたことだが、この展開を見ると、また、そう思う。
この句は「宿」だが、「黴まくら」はそのままに、次の句では「場」が変わる。
なめくじの出そうな(あるいはなめくじがはいまわっている)長屋。うっとうしい梅雨の感じがなめくじによって強調される。
この「なめくじ長屋」から、エッセイは志ん生の『なめくじ長屋』という自伝へと進んでいく。高橋は一時期落語に夢中になっていた時代があって、志ん生が好きだと書いている。高橋のことばは、万葉の「肉体」も落語の「肉体」(口語の「肉体」)も内部に抱え込んでいることになる。
そして、口語の「肉体」と関係するかどうか、よくわからないけれど……。
反句、
「閉てきつて」。「しめきって」ではなく「たてきって」。読んだ瞬間、あ、なつかしいことばだ、と感じた。戸の開け閉めをぞんざいにすると、私は両親に「ちゃんと戸をたてて」と叱られた。昔は「戸をたてる(閉てる)」といった。
この「たてる」は何だろう。
いいかげんな連想で、まちがっているかもしれないが、考えてみた。
「たてる」は「立てる」。もともと戸は敷居と桟のあいだに立っているように見えるけれど、昔はそんな具合ではなかったかもしれない。開けるときは、ちょっと横にずらして置いておく。倒れて邪魔にならないように立てるにしても長い方を下にして(つまり、戸を横にして)壁際に置いておいたかもしれない。こどものとき、納屋や何かで、そんなふうに「戸」(戸のかわりの板)を扱ったことがある。戸はたしかに「立てる」ものなのだ。
そしてその「立てる」は「立つ」であり、「断つ」に通じるかもしれない。戸を内部と外部のあいだに立てる、というのは、外部を「断つ」ということである。「ちゃんと戸をたてて」は、ちゃんと戸を立てて、外が内部にはいってこないように「断ち切って」ということなのかもしれない。
もし、そうであるなら。
そして、「閉てきつて」の句の人が志ん生であり、そこに描かれている「場」が「なめくじ長屋」であるなら。
志ん生は「外部」を断ち切って「落語」のことばの世界にとじこもり、彼自身の「芸」を磨いたということになるかもしれない。ことばがいきいき動いていれば、それでいい。なめくじがはいまわっていようがいまいが、どうでもいい。だけではなく、そこでもしなめくじがはいまわっているなら、そのことさえも、ことばとして動かしていかなければならない。なめくじがはいまわる暮らしを、どんなふうに「笑い」につながることばにできるか--もしかしたら、その人は、そんなことも考えたかもしれない。
ふと、ことばに熱中して、それ以外のものは何も気にしない人間が見えてきた。「閉めきつて」だったら、たぶん、こんなことは考えなかっただろうと思う。
「梅雨枕--六月」。
さみだれの徒然(つれづれ)枕天上見て
天上を見ているのは、何をするともなく横になっている「わたし」かもしれない。たぶん、そう読むのが俳句なのだと思うけれど、「枕」そのものが天上を見ていると思ってもいいかもしれない。
だれもつかわない枕--取り残されて、そのまま天上を見ている。それは、そのまま万年床の感じにつながる。
この宿の昔聞かせてよ黴まくら
雨に降られて宿に泊まってみれば、枕が黴臭い。だれもつかっていないのだ。つかわれずにほうっておかれた枕。いったいここはどんな宿? 枕に問いかけている。
前の句の「わたし」は天上を見ていたかもしれないが、この句によって、その「わたし」は消え去り、ほんとうに「枕」だけが天上を見ているにかわっていく。
この句が前の句を変えたのか、それとも前の句に変わる要素があって、それがこの句を生み出したのか。どちらかわからないけれど、ことばのなかにある何かがことばの運動を変えていく、ということがあると思う。
連歌は、その運動を複数の人間で楽しむものだと思う。高橋は、それをひとりでやっている--これは前にも書いたことだが、この展開を見ると、また、そう思う。
この句は「宿」だが、「黴まくら」はそのままに、次の句では「場」が変わる。
此処はしも蛞蝓長屋梅雨枕
なめくじの出そうな(あるいはなめくじがはいまわっている)長屋。うっとうしい梅雨の感じがなめくじによって強調される。
この「なめくじ長屋」から、エッセイは志ん生の『なめくじ長屋』という自伝へと進んでいく。高橋は一時期落語に夢中になっていた時代があって、志ん生が好きだと書いている。高橋のことばは、万葉の「肉体」も落語の「肉体」(口語の「肉体」)も内部に抱え込んでいることになる。
そして、口語の「肉体」と関係するかどうか、よくわからないけれど……。
反句、
閉てきつて黴を飼ふとや枕人
「閉てきつて」。「しめきって」ではなく「たてきって」。読んだ瞬間、あ、なつかしいことばだ、と感じた。戸の開け閉めをぞんざいにすると、私は両親に「ちゃんと戸をたてて」と叱られた。昔は「戸をたてる(閉てる)」といった。
この「たてる」は何だろう。
いいかげんな連想で、まちがっているかもしれないが、考えてみた。
「たてる」は「立てる」。もともと戸は敷居と桟のあいだに立っているように見えるけれど、昔はそんな具合ではなかったかもしれない。開けるときは、ちょっと横にずらして置いておく。倒れて邪魔にならないように立てるにしても長い方を下にして(つまり、戸を横にして)壁際に置いておいたかもしれない。こどものとき、納屋や何かで、そんなふうに「戸」(戸のかわりの板)を扱ったことがある。戸はたしかに「立てる」ものなのだ。
そしてその「立てる」は「立つ」であり、「断つ」に通じるかもしれない。戸を内部と外部のあいだに立てる、というのは、外部を「断つ」ということである。「ちゃんと戸をたてて」は、ちゃんと戸を立てて、外が内部にはいってこないように「断ち切って」ということなのかもしれない。
もし、そうであるなら。
そして、「閉てきつて」の句の人が志ん生であり、そこに描かれている「場」が「なめくじ長屋」であるなら。
志ん生は「外部」を断ち切って「落語」のことばの世界にとじこもり、彼自身の「芸」を磨いたということになるかもしれない。ことばがいきいき動いていれば、それでいい。なめくじがはいまわっていようがいまいが、どうでもいい。だけではなく、そこでもしなめくじがはいまわっているなら、そのことさえも、ことばとして動かしていかなければならない。なめくじがはいまわる暮らしを、どんなふうに「笑い」につながることばにできるか--もしかしたら、その人は、そんなことも考えたかもしれない。
ふと、ことばに熱中して、それ以外のものは何も気にしない人間が見えてきた。「閉めきつて」だったら、たぶん、こんなことは考えなかっただろうと思う。
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