詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高橋睦郎『百枕』(12)

2010-08-12 12:12:12 | 高橋睦郎『百枕』
高橋睦郎『百枕』(12)(書肆山田りぶるどるしおる、2010年07月10日発行)

 「梅雨枕--六月」。

さみだれの徒然(つれづれ)枕天上見て

 天上を見ているのは、何をするともなく横になっている「わたし」かもしれない。たぶん、そう読むのが俳句なのだと思うけれど、「枕」そのものが天上を見ていると思ってもいいかもしれない。
 だれもつかわない枕--取り残されて、そのまま天上を見ている。それは、そのまま万年床の感じにつながる。

この宿の昔聞かせてよ黴まくら

 雨に降られて宿に泊まってみれば、枕が黴臭い。だれもつかっていないのだ。つかわれずにほうっておかれた枕。いったいここはどんな宿? 枕に問いかけている。
 前の句の「わたし」は天上を見ていたかもしれないが、この句によって、その「わたし」は消え去り、ほんとうに「枕」だけが天上を見ているにかわっていく。
 この句が前の句を変えたのか、それとも前の句に変わる要素があって、それがこの句を生み出したのか。どちらかわからないけれど、ことばのなかにある何かがことばの運動を変えていく、ということがあると思う。
 連歌は、その運動を複数の人間で楽しむものだと思う。高橋は、それをひとりでやっている--これは前にも書いたことだが、この展開を見ると、また、そう思う。
 この句は「宿」だが、「黴まくら」はそのままに、次の句では「場」が変わる。

此処はしも蛞蝓長屋梅雨枕

 なめくじの出そうな(あるいはなめくじがはいまわっている)長屋。うっとうしい梅雨の感じがなめくじによって強調される。

 この「なめくじ長屋」から、エッセイは志ん生の『なめくじ長屋』という自伝へと進んでいく。高橋は一時期落語に夢中になっていた時代があって、志ん生が好きだと書いている。高橋のことばは、万葉の「肉体」も落語の「肉体」(口語の「肉体」)も内部に抱え込んでいることになる。
 そして、口語の「肉体」と関係するかどうか、よくわからないけれど……。

 反句、

閉てきつて黴を飼ふとや枕人

 「閉てきつて」。「しめきって」ではなく「たてきって」。読んだ瞬間、あ、なつかしいことばだ、と感じた。戸の開け閉めをぞんざいにすると、私は両親に「ちゃんと戸をたてて」と叱られた。昔は「戸をたてる(閉てる)」といった。
 この「たてる」は何だろう。
 いいかげんな連想で、まちがっているかもしれないが、考えてみた。
 「たてる」は「立てる」。もともと戸は敷居と桟のあいだに立っているように見えるけれど、昔はそんな具合ではなかったかもしれない。開けるときは、ちょっと横にずらして置いておく。倒れて邪魔にならないように立てるにしても長い方を下にして(つまり、戸を横にして)壁際に置いておいたかもしれない。こどものとき、納屋や何かで、そんなふうに「戸」(戸のかわりの板)を扱ったことがある。戸はたしかに「立てる」ものなのだ。
 そしてその「立てる」は「立つ」であり、「断つ」に通じるかもしれない。戸を内部と外部のあいだに立てる、というのは、外部を「断つ」ということである。「ちゃんと戸をたてて」は、ちゃんと戸を立てて、外が内部にはいってこないように「断ち切って」ということなのかもしれない。
 もし、そうであるなら。
 そして、「閉てきつて」の句の人が志ん生であり、そこに描かれている「場」が「なめくじ長屋」であるなら。
 志ん生は「外部」を断ち切って「落語」のことばの世界にとじこもり、彼自身の「芸」を磨いたということになるかもしれない。ことばがいきいき動いていれば、それでいい。なめくじがはいまわっていようがいまいが、どうでもいい。だけではなく、そこでもしなめくじがはいまわっているなら、そのことさえも、ことばとして動かしていかなければならない。なめくじがはいまわる暮らしを、どんなふうに「笑い」につながることばにできるか--もしかしたら、その人は、そんなことも考えたかもしれない。
 ふと、ことばに熱中して、それ以外のものは何も気にしない人間が見えてきた。「閉めきつて」だったら、たぶん、こんなことは考えなかっただろうと思う。

 




百人一首―恋する宮廷 (中公新書)
高橋 睦郎
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岩佐なを「土塀」

2010-08-12 00:00:00 | 詩集
岩佐なを「土塀」(「現代詩手帖」2010年08月号)

 詩は意味・内容ではない。ことばである。ことばが何を呼吸するかである。岩佐の詩のことばは「いま」を呼吸しないところが、「いま」である。「いま」を呼吸しないのに、なぜ「いま」か。それは、「いま」のなかには「いま」ではないものがひそんでいるからである。あ、そうか、そういうことばがあったな、それは「いま」でも思い出すことができる、という形で浮かび上がってくる。「いま」はつかわない、けれども「いま」も思い出すことができるということば。そのなかに生きているリズムと音。それが岩佐の詩である。
 「土塀」は土塀にそって猫が歩いている詩である。内容・意味を簡単に紹介できるのは、内容・意味が詩とは無関係であるからだ。詩に関係する部分は、簡単には「流通言語」に載せることができない。

傾きながらも時代をつけて
東西に限りなくのびる
この土塀を右側に感じつつ
彼れ此れ何百年歩いていることか
徐々徐徐々々

 「じょじょじょじょじょじょ」は猫のおしっこの音である。漢字と送り文字が乱れた形で出てくるが、それはそのままおしっこの勢いの乱れである。1行を声に出して読んでみるとよくわかる。ここでは岩佐はことばのなかの音の変化を引き出している。そして、そういう音の変化、無意識に音を変化させながら何かをまねる、何かのなかにあるものを引き出す行為が詩であると告げているのである。

 どんなことばでもいい。何かをいう。そのとき、その何か、内容・意味以外のものを感じる瞬間がある。内容・意味から逸脱し、違うものを感じてしまう瞬間がある。その逸脱する感覚のなかに詩があるのだが、岩佐の逸脱は、最初に書いたように「いま」の中にある「いま」ではないもの、「いま」をささえる「過去」をよみがえらせることが多い。

土塀の中にはある単位ごとに
七生翁が棲んでいて
塀に沿って旅するものに
水をくれる

 「七生翁」は「猫は七回生まれ変わる、七つの命を持つ」ということばを思い出させる。そんなことばは「いま」ではテレビのクイズ番組のなかにしか出てこないかもしれないが、確かにまだ生きている。そして、それが「いま」生きているというとき、そのことばにつらなり、そのことばが生きていた時代のにおいがよみがえる。

菊花が描かれたどす黒い椀に
空色の芥子の花弁が浮いた冷水で
舌ふりみだして
ジャップジャップッと
呑むのである
まだまだ生きられる気がするぢゃろ。と
翁が言う

 墓場の椀にたまった水。それさえも命をつなぐ水になる。やっとたどりついた水を飲むと、「いま」よりはるか遠くから「まだまだ生きられる気がするぢゃろ」と声が聞こえる。その声は、自分の「肉体」のなかから聞こえるのである。「肉体のいま」は「肉体の過去」としっかりむすびついていて、いつでもそんなふうに浮かび上がってくる。

そのとおりなのだが肯かない
死ににくいトシヨリを
残念がらせてもつみではない
(所詮気がするだけアンタモアタシモ)
椀をかえして
まだ土塀を右にしながら
先に進む
……戻れば左が塀になる

 トシヨリとのやりとり、そのめんどうくささ、うっとうしさが、そのままリズムのなかにある。「肉体の嫌悪感、生理の嫌悪感」のようなものが、「いま」ここにあるものが「肉体」なのだ、「生理」なのだと教えてくれる。

 最後の1行がとてもいい。
 右にあるのものは逆から見れば左。それを決定するのは「肉体」である。「肉体」はかわらずに存在する。変な話だが、死んでも肉体は引き継がれる。その、死んだ肉体から引き継いだもの、死んでも死んでも死なないもの、ことばの音とリズムを岩佐は書いている。




響音遊戯爪物語[CD]―岩佐なを詩集「狐乃狸草子」(七月堂)より

七月堂

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