瀬尾育生「存在のつたなさへ書き送られたこと」(「現代詩手帖」2010年08月号)
瀬尾育生の詩は美しい音楽だ。何が書いてあるか、その意味・内容は気にならない--というより、音楽として美しいので、意味・内容について考えようという気にはならない。というようなことを書いてしまうと、音楽をしている人にも、瀬尾に対しても失礼なことなんだろうなあ。
私は音楽をまったく知らない。ある交響曲のあらわしている意味・内容というものがあるのかもしれないが、そういうものを考えたことがない。ただ聞いて、あ、こっちの方がきょうの気分にあっている。きょうはこの曲は聴きたくないなあ。そんなことを思うだけである。
詩に対しても、実は、私の感じ方はほとんと音楽と同じで、きょうはこういうことばはついていけないなあ、きょうはこっちの方を読みたい、という具合に思うだけなのだが、ただ、音楽に比べると、少しだけ「屁理屈」をいいたくなる。だれにも通用しないたわごとかもしれない。けれども、私は私の考えたことをいいたくなる。詩の場合は。
で、瀬尾育生の詩。「存在のつたなさへ書き送られたこと」。
文字が消失して視野の片隅に暗い発光として残っている。そこから滲み広がる光の水の比喩(フネ)を新しい人が漕いでくる。掌の人に聴従したあとで、その語らなかったことのほうへ少しだけ迷ってゆけば、声紋がいちめんに額に降ってくる道に出られる。
意味・内容を説明しろといわれたら私にはできない。できないのだけれど、ことばが動く瞬間瞬間の、音とリズムが、とても読みやすい。実際に声に出して読んでいるわけではないので、音読したとき読みやすいかどうかはわからないが、黙読したとき聞こえる音が美しい。黙読したとき、しらずに動いてしまう喉が、とても気持ちがいい。
なぜだろう。
ひとつには、ことばがいくつもの文脈をていねいに生きているからだ。高貝弘也とは別な文体だが、「古典」をきちんと踏まえている。
「視野」「片隅」「暗い」「発光」。ここには「文脈」がある。ある意味では、それは「常套句」にもつながるのだけれど、ある程度こういうものを踏まえないと、ことばはリズムに乗れない。瀬尾には「文脈」の蓄積がある。
そして、その一連の「文脈」の前後の、「消失して」と「残っている」の対比。漢字塾ごと、和語(?)の対比。もし、「残っている」ではなく「残存している」だったなら。「意味」は同じでも、リズムが違ってくる。「……して」はすでに「発光して」という形でつかわれており、「残存している」と重ねてしまうと、とたんに読みにくくなる。(私は音読はしないので、実際に声に出したときどうなるかはわからないが、黙読するかぎりでは、「発光して残存している」ではつまずいてしまう。「発光して残っている」以外に表現はありえない。)
そうしてみると「消失して」とほんとうに対比しているのは「発光して」かもしれない。「発光して」は「存在する」をすでに含んでいる。存在せずに発光することはできないからである。
そういうことを踏まえて、「残っている」ということばは「念押し」としてつかわれているのだ。
こういうことばの操作も「文脈」である。日本語がつちかってきた「文脈」である。瀬尾は意識しているかどうかわからない。また、こういうことは意識して書けるかどうかわからないが、無意識に、つまり自然に書いてしまう力が瀬尾のもっている「文脈力」というものなのだ。
次の1行は、もっとその力が鮮明にあらわれている。
そこから滲み広がる光の水の比喩(フネ)を新しい人が漕いでくる。
「光の水」。こういうものは、存在しない。「光」か「水」しか存在しない。けれど、瀬尾はそれを強引に結びつけ、すぐに「比喩」ということばをつけくわえる。「光の水」は「実在」ではなく「比喩」である。「比喩」とはもともといまここにないものを借りて、いまここにあるものの「本質(?)」を浮かび上がらせる方法である。いまここにないことが「比喩」の基本である。だから「比喩」といわれれば、その瞬間に「光の水」は存在してしまう。
瀬尾はそれにさらに「フネ」というルビをふる。「比喩」ということば自体が「比喩」になってしまう。いままで存在しなかったものが一気に噴出してくる。
そうしておいて、
「新しい人」。
この「新しい」の強さ。それは「正しさ」と錯覚してしまう。いままで存在しなかった「比喩」の世界にあらわれるのは、「新しい」ひとでなければならない。
こうしたことばの動きが「文脈」というものである。
あとは、もう、瀬尾マジック。瀬尾の魔法の世界である。瀬尾のことばの自在な運動にしたがって揺さぶられながら旅するだけである。
瀬尾マジックのなかでも、とくにびっくりするのは、そのあとに出てくる「聴従した」という動詞である。こんなことばがあるかどうかしらない。(辞書はひいていない。)ことばがあるかどうかしらないが、そして、ないとするなら、それは「文脈」(古典)を逸脱していることになるのだが、その逸脱したものがなぜか、すぐにわかってしまう。「聴き・従った」と理解できてしまう。もちろん私の「理解」が「誤解」であり、「錯覚」かもしれないが、そう受け止めてしまう。
そういう「あいまい」な世界を、ゆっくりたどりなおすようにして「その人の語らなかったことのほうへ少しだけ迷ってゆけば」という「漢語(熟語)」とは無縁のうねるようなことばが動いていく。このリズムの変化にも、私はまいってしまう。酔ってしまう。
追いかけるようにして、今度は「声紋」という「漢語」が登場する。
瀬尾が書いていることに、「意味」はあるかもしれない。「内容」はきっとあるのだろう。けれど、私は、その「意味」「内容」ではなく、ことばが動いていくときのリズム、とくに漢語(熟語)と和語のリズムに酔ってしまう。それはもしかすると、漢字とひらがなとで書かれる日本語の形にあっているということかもしれない。
日本語は漢字とひらがなで書かれる。そこには異質のものがまじりあい、衝突し合い、同時に融合している。
その表記、書き方--それが、どこかで瀬尾の表現の基本になっている。ひとつの「文体」になっている。その文体を、そして、私はとても自然だと感じ、その自然な動きに誘われるということかもしれない。
瀬尾に、私は、そういう感覚的な力を感じる。瀬尾のことばは、とても感覚的である。そしてその感覚は、日本語の「文脈」に深く通じている感覚であると感じる。それゆえに、読みやすい、と感じる。