詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高橋睦郎『百枕』(23)

2010-08-23 12:31:35 | 高橋睦郎『百枕』
高橋睦郎『百枕』(23)(書肆山田りぶるどるしおる、2010年07月10日発行)

 「枕売--五月」。

夏始なりたきものに枕売

 「枕売」という商売があるとは知らなかった。枕だけ売り歩いて、それで商売になるんだろうか--と思っていたら、高橋はエッセイでいろいろ書いている。枕と色事はつきもので、色も売り歩いた、と。
 で、枕売りなりたいのは、単なるすけべごごろから?
 どうも違う気がする。

枕売さぞ青葉さす若衆かな

 「青葉さす」が美しい。そして、それが美しいのは「若衆」が美しいからだ。高橋の、発句の人物は、枕を売りながら色も売るということがしたいというより、「青葉さす」と形容されるような若衆にこそなりたいのだろう。
 そういう、自己を超える夢があるからこそ、ここでの句は「荘子」の、荘周と蝶の夢にもつながっていく。「枕という人類が産んだ最も奇怪(きっかい)な道具をあいだに置いて、荘周が蝶になることと蝶が荘周になるとこととは、一つことではあるまいか。」
 枕売が「青葉さす若衆」と想像することは、自分自身がその「青葉さす若衆」となって枕を売り歩くことそのものなのだ。

枕買うてまづ試みん一昼寝

風涼し枕と二人寝んとこそ

 そして、そういう夢を見るのは、また「枕を買う」人物にもなることでもある。枕を売るひと、枕を買うひと--それは「ひとつ」である。そこでは枕の売り買いだけではなく、それにつづくすべてのことが夢見られている。
 「昼寝」というより、昼日中、明るい光の中で見る「目覚めている意識の夢」、つまり明確な願望である。
 このさっぱりした感じはいいなあ。



 反句、

荘周の枕も薄蚊吐く頃ぞ

 「薄蚊」とはなんだろう。私には見当がつかない。「うすか」と読むのだろうか。
 わからないままこんなことを書いていいのかどうか。
 蚊は不思議で、どこからともなくあらわれる。衣服や、寝具や、何やかやの「ひだ」のようなところにひそんでいるのだろうか。隠れているものが、ふいにあらわれてくる。そして、そのうるさい音に、現実を知らされる。
 荘周の蝶の夢は美しいが、それとは対照的な、うるさい現実の蚊--そのとりあわせに、俳諧の不思議なおもしろさを感じる。荘周の、文学的な夢を笑い飛ばす(破壊する)現実の「俗」。
 高橋は、「青葉さす」若衆になりたいと思った人物を、からりと笑っているのかもしれない。




柵のむこう
高橋 睦郎
不識書院

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林嗣夫「朝、病院で」ほか

2010-08-23 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
林嗣夫「朝、病院で」ほか(「兆」146 、2010年05月08日発行)

 私はときどき(頻繁に?)誤読をする。誤読には2種類ある。「文字」は正確に読みとるのだが「解釈」をまちがうという誤読と、「文字」そのものをまちがうとうもの。
 林嗣夫「朝、病院で」で、私は、後者の誤読をした。それは結局、解釈をまちがえたということにつながるのだが……。
 詩の前半部分。

ピリッ、と指先にしびれが走った
とても新鮮なしびれだった
あっ生きてる、という驚きにも似ていた

採血するとき
看護師の注射針の入れ方が
まずかったのか

一本の血液を収め
わたしの腕に小さな綿をとめながら言った
「血が止まるまでしっかり押さえていてくださいね」

血が止まるまで--
そうね、血が止まるまで、ね
わたしは口の中でくり返した

廊下の待合室のソファには
うつむいたり ひそひそ話をしたり
血が止まるまで、の人たちが並んでいた

 この引用の最後の「血が止まるまで、の人たちが並んでいた」を、私は「息が止まるまで、」と読んでいた。そして、あっ、すごい、こんなこと書けない--と思い、そのことについて書こうと思っていた。(実は、書き出しの部分は、書き直したのである。誤読に気がついて、書き直したものである。)
 なぜ、「息が止まるまで、」と誤読したんだろう。
 病院のなかには生と対峙した死があるからだろうか。「うつむいたり ひそひそ話をしたり」が死をまつ人々、自分のではなく他人の死をまっている人々の姿に見えたのか。そういう人々もやがては死ぬ。そして、いま、血液採取で新鮮なしびれを感じ、生きていると感じた林もやがては死ぬ。血が止まる(出血が止まる)のは傷が塞がるときと、死んでしまうときと二つあるが、その「死」の方がふいに私の意識に浮かんできたのである。
 「あっ生きてる」ということばが、反対に「死」を呼び寄せたのかもしれない。
 なぜ、誤読したのかわからないが、「息が止まるまで、」の方に、強く詩を感じたのだ。いのちの「矛盾」のようなものを感じたのだ。矛盾を読みたい、矛盾のなかにあるものを、よりわけるようにして何かに触れたい--そういう私に気持ちがあるからだろうか。
 もし、林が「息が止まるまで、」と書いたとしたら、後半はどんなふうに変わるのだろうか。
 最後の3行。

血が止まるまで、

とても新鮮な朝だった

 この3行も、私は実は「息が止まるまで、」と読み違えていた。林は、純粋に、採血し、そのときの血が止まるまでのことを書いているのだが、その待っている時間と、一生がどこかで重なって、「息が止まるまで、」と読んで、私は一度も疑問を抱かなかった。
 読み違えて、あ、いい詩だなあ、と感じていたのである。
 ひとが生きていると感じる瞬間は、ひとそれぞれだろう。そして、生きていると感じる瞬間、死の瞬間までと考えることはないかもしれない。けれど、病院でなら、もしかするとそういうことがあるかもしれないと思ったのだ。
 林の描いている「場」が病院ではなく、「学校」だったら違ったかもしれない。学校での集団検診。そこでなら、死は登場しないだろう。病院だから、死が隣り合わせにあって、死を考えてしまう。
 うまく言えないが、病院という「場」の不思議な力が、林に「息が止まるまで、」という行を書かせた--病院から不思議な力を甘受し、林は「息が止まるまで、」と書いてしまった。書かされてしまった。私は、そんなふうに勘違いし、林の感受性に驚いたのである。

 これは、まあ、ありえない(許されない?)一種の共同作業(?)のような体験なのだが、私は、こういう「誤読」も、なぜか自分自身の経験として、とても好きなのである。書いておきたいことなのである。そういう変な体験のなかに、詩がある、と感じているのである。

 「出勤途上で」の前半も私はとても好きだ。この詩については文字の誤読はしていない(と思う)。私は目が非常に悪いので、断言はできないのだが……。

ときどき変なものにでくわす

たとえば出勤の途上
わたしの車の前をトラックが走っていた
土をいっぱい積んで
土をいっぱい積んでいた!

土を運んでどうするつもりだろう
地球の表面は
水と土ばかりではないか
土の上を 土を運ぶ
そんなばかな

それとも土を
あちらに移し こちらに移し
遊んでいるのだろうか

 「土を/あちらに移し こちらに移し/遊んでいる」は林の「誤読」である。そんなことをしているわけではないのは林はわかっている。けれど、「誤読」したいのだ。ばかなことをしている、と「誤読」したいのだ。
 トラックが土を運んでいる。そのとき林は、見たものを「誤読」していない。肉眼はきちんと映像を把握している。ことばもきちんとそのことを描写している。きちんと描写しながら、それでもなおかつ、「誤読」したい。
 ありふれたものなのに、「変」であると「誤読」したい。
 この欲望はなんだろうか。 
 そして、その「誤読」願望、「誤読」欲望に触れながら、私がその「誤読」を肯定したいという気持ちになるのはなぜだろうか。「土を運んでどうするつもりだろう」ということばを林のことばとしてではなく、自分のことば(自分の実感)にしていまいたいと感じるのはなぜだろう。
 きっと私も、いまの現実に対して違和感を感じているからだろう。そしてその違和感をどう表現していいかわからずにいる。だから、その違和感を、ぱっとつかみ取り、表現したことばに触れると、その「誤読」を肯定したくなるのだろう。

土をいっぱい積んで
土をいっぱい積んでいた!

 この繰り返しに似た2行に「誤読」の出発点がある。「土をいっぱい積んで」トラックが走っていた--が倒置法で「トラックが走っていた/土をいっぱい積んで」でおさまりきれず、「土をいっぱい積んで」が暴走して「いた!」を呼び寄せる。
 その「いた!」のなかにある意識--その「誤読」が、この詩の輝きだと思う。
 「いた!」というのは、間違いではない。それは「存在」の過剰なリアリティーである。「存在」が「存在」を超えて、あふれている。「いっぱい積んでいた」といっても、現実にはトラックの荷台以上にはつめないはずだが、「土をいっぱい積んでいた!」と書いたときには、「荷台」を超えている。「荷台」をあふれている。
 ありえない「誤読」が詩を引き寄せている。
 そこに、私は、ひかれる。



 あ、私は何を書いているかなあ。またまたわからなくなってしまった。
 同人誌「兆」のなかでは、林の詩は、私が感想を書いた順序とは逆に、「出勤途上で」「朝、病院で」という具合に並んでいる。「出勤途上で」で、林が現実を「誤読」するのを読んだために、それに影響されて「血が止まるまで、」を「息が止まるまで、」と過剰に読んでしまったのかもしれない。

血が止まるまで、

とても新鮮な朝だった

 を「息が止まるまで、」と読んでしまうと、林は死んでしまうから、そんな「誤読」は許されるはずもないはずなのだが、これから先の生きている間中でも、「とても新鮮」と言える体験だった(体験に違いない)というふうに読もうと思えば読める。
 私は、林が、この朝の体験で、単なるある日の「朝」を体験したのではなく、人間の「生涯」(一生)のなかにある不思議さを体験したと読んだ瞬間に思い、そのために「血が止まるまで、」を「息が止まるまで、」と勘違いしたのだと思う。
 林が書いている「朝」は一日の「朝」ではなく、「永遠の朝」なのだと思う。「永遠」という過剰な朝なのだと思う。それは「いっぱい積んでいた!」の「「いた!」と同じである。林が見ているのは一台のトラックの荷台ではなく、そこからあふれる「土」の存在、「いっぱい」そのものである。
 

 

風―林嗣夫自選詩集
林 嗣夫
ミッドナイトプレス

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