詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高橋睦郎『百枕』(28)

2010-08-28 10:58:25 | 高橋睦郎『百枕』
高橋睦郎『百枕』(28)(書肆山田りぶるどるしおる、2010年07月10日発行)

 「秋枕--十月」。

人の秋枕の秋やしみじみと

 「しみじみと」ということばは、こんなふうに静かにつかうと、ほんとうにしみじみとしてくる。秋は人が恋しくなる。

暮残る枕白しよ秋もすゑ

 「白」という色は不思議だ。暗くなっていくなか、ぽつんと残されると、そのまずしさがつらくなる。何色にも染められずに取り残されたむなしさを、受け止める相手もいないまま、吐き出している。

いなづまと交す枕や小傾城

 この句については、高橋がエッセイで注解(?)している。去来の「いなづまやどの傾城とかり枕」という句に刺激を受けて書いた句であることがわかる。去来の句を注解は別にして、高橋は、次のように書いている。

 いなづまはいまは稲妻と書くが、ほんらいは稲夫とあるべきところ。晩夏から初冬にかけてのいなづまは天の射精とされ、これが地の卵巣たる稲田に走ることにより、稲に実が入るものと考えられた。そのいなづまが稲田ならぬ遊廓に通うとなると、どの傾城と仮枕するのだろうか、という。

 後半が注解の本筋なのだが、その前段がとてもおもしろい。いなづまは天の射精か。そんなことは、ないね。いまの科学からみると「誤読」だね。しかし、それがおもしろい。「誤読」のなかには「事実」ではなく、「祈り・願い」としての「真実」が含まれている。「考えられた」ということばが、その「しめ」に出てくるが、そうなのだ、ひとは考えたいのだ。考え、それをことばにすることで、その考えが「事実」にかわってほしいと祈るものなのだ。
 「誤読」のことばの運動には「事実」はない。そのかわり「こころの真実」がある。あるいは、ちょっと言い換えて、「誤読」のことばのなかには「真実」はない。そのかわり「こころの事実」がある、と言うこともできる。「事実」と「真実」というのは、それくらいの違いだろうと思う。
 さらにおもしろいのは、ひとはいつでも「誤読」のことばに乗っかって、「誤読」を加速させるということだ。
 いなづまが天の射精と考えたあと、それが遊廓に通う。あれっ、稲が卵巣じゃなかったの? 射精して、受精して、実になる--それが「こころの真実・事実」ではなかったの? 遊廓は、射精をするところではあっても、受精し、妊娠し、出産するところではない。妊娠せず、出産せず--つまり、男にとって、ただ射精するだけのところであるはずだ。「こころの真実・事実」、つまり「夢」が微妙に逸脱している。
 逸脱しているのだけれど、うーん、それを普通、逸脱とは言わないね。「夢」が加速し、逸脱していくことを、人間は好んでしまうのかもしれない。それがスケベな逸脱なら、「こころの真実・事実」は「こころ」ではなく「肉体」の「真実・事実」の方を優先するのかもしれない。「こころの真実・事実」は実は「こころ」ではなく「頭」が「考えた」ことにすぎなくて、ことばとは無縁であるはずの「肉体」の方が、「ことば」にならない「人間の真実・事実」という「夢」をつかみとるのかもしれない。
 天と地の生理、自然の摂理もの大事だけれど、それだって、よくよく見れば人間の「生理」の比喩である。天の射精、稲の受精のなかに人間の「生理」が紛れ込んでいる。「誤読」は「人間の生理」によってまぎれもない「事実・真実」になる。その「事実・真実」から、「肉体」がまた別の方向に勝手に動いたってかまうものか。
 あ、こんな面倒くさいことを高橋は書いているわけではないのだけれど、私は高橋のことばから、そんなふうに「誤読」を拡大してしまう。
 「読む」というのは「正解」をしるためのものじゃないね。あくまでも「誤読」をつづけるためのものだ。「正解」に納得ができなくて、ひとは「書く」。書きながら「誤読」を拡大する。

 「正解」にも「誤読」にも、詩、はない。詩は、「誤読する」という「動詞」のなかにある。



 反句。

鯔子(からすみ)の枕ざまなる見事さよ

 これは去来の故郷が長崎であることに由来する。去来の句の遊廓が「長崎」であると見て、長崎の珍味カラスミをもっきてたのだ。カラスミを枕にみたてているのだ。枕ほどもあるカラスミを私は見たことがないが、こえふとった立派なものを賞讃している。--だけではないかもしれない。カラスミはボラの卵巣。あら、それは射精を待っている? 誘っている? そういう意味での「枕」?
 --こんな読み方は「誤読」を通り越しているのだけれど、そんなふうに逸脱を誘いつづけることば、それが私には楽しい。
 立派な卵巣だねえ。で、射精は? 女は「見事さよ」と言ってくれるかなあ。
 私は下品だなあ、と反省しながらも、こういう下品を受け入れてくれるのも俳句のおもしろさのひとつであると勝手につけくわえておこう。



日本の川
大西 成明,赤江 瀑,高橋 治,高橋 睦郎,大庭 みな子,北村 想
ピエブックス

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豊原清明「狼・シュン」

2010-08-28 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
豊原清明「狼・シュン」(「映画布団」4、2010年08月24日発行)

 豊原清明「狼・シュン」は「短編シナリオ」。詩であろうが、シナリオであろうが、小説であろうが、私はそれを「ことば」としてしか読まない。ジャンルは気にかけない。ことばがどれだけ刺激的であるかだけが問題である。
 豊原は詩と俳句も書いている。どれもおもしろいが、私は、最近シナリオがいちばんおもしろいと感じる。

○ 駅前・切符売り場(日曜日・春)
   大倉山太郎(14)と、吉野健太(15)が、切符を買っている。
   多くの人が、イコカカードや、携帯で、駅の中に入っていく。
太郎「切符の方がいいのにな。」
健太「どっちでもええやないか。」
太郎「あの子、いるかな?」
健太「おるよ、きっと。」

 これは書き出しだが、これだけでドラマがある。何も書かれていないけれど、太郎と健太がいつも日曜毎に切符を買っていることがわかる。いつもいっしょにどこかへ行っている。そして、そこには「あの子」がいる。「あの子」が来る。「あの子」がいつも来ていた。
 その「過去」が見える。
 豊原のことばは、いつでも「過去」を抱え込んでいる。
 「切符の方がいいのにな。」「どっちでもええやないか。」というやりとりは、どうでもええやないか、という感じの台詞だが、そこに二人の性格が見える。性格が見えるといっても、それをいちいちことばにするようなものではないのだが、あるいはことばにならないようなものなのだが、そこに「人間」の「肉体」が見える。その「肉体」というのも、私の定義では「過去」である。
 ちょっと比較してみよう。今回の芥川賞受賞作。赤染晶子「乙女の密告」の冒頭。

 乙女達はじっとうつむいている。静かな教室のあちこちからページをめくる音が響く。日本人の教授は黒板を書く手を止める。さっと後ろを振り向く。教室はしんと静まりかえる。

 ここには「過去」がない。教室で教授が板書し、学生が本のページをめくるのかノートのページをめくるのか、よくわからないが、そういう行為は「日常」であるはずなのに、つまり繰り返されているはずなのに、その繰り返しと、繰り返しの中で動く肉体がぜんぜん見えてこない。
 教授が黒板に文字を書いている間、本の(教科書の)ページをめくるというのも、馬鹿みたいだなあ、と思う。(私は、そんなことをしたことがない。教授が黒板に何か書いているならそれを見ている。あるいは、それをノートに写している。教科書のページなどくらない。)リアリティーがまったくない。
 嘘を書いている、と思ってしまう。これから始まるのは嘘なんだと告げる文章である。
 豊原のことばは違う。それが「つくりもの」であっても、嘘ではない。どのことばも「過去」をもっている。ことばの一つ一つから「過去」が噴出してきている。
 これは、とても衝撃的なことだ。
 太郎と健太は、ストリートでギターを弾きながら歌っている。そこへ、いつものように「あの子」がやってきて、歌を聴く。

   紫の服を着た、女性、山野裕子(20)が太郎と健太の前に来て、微笑している。   太郎、話しかける。
太郎「一寸、喫茶店か、公園行きませんか?」
裕子「ううん。もっと、聴かしてちょうだい。」
   太郎、しつこく話す。裕子、向こうに行く。太郎の靴を踏む、健太。
太郎「つけよう。」
健太「しゃあないやっちゃ。」
   俊二、横から口をはさむ。
俊二「あんさんら、アホか?」
太郎「あんさんもな。」
   太郎と健太、ギターを置いて、つけていく。 

 ここにも書かれていないけれど「過去」が見える。「つけよう。」「しゃあないやっちゃ。」という二人の会話の中に、二人の関係も見える。

 普通(といっていいかどうか、ちっと疑問だけれど)、ことばを書くとき、そのことばの「来歴」というか、「過去」が読者にどれだけわかるか(わかってもらえるか)、とても不安である。状況を書き手はどうしても説明してしまう。
 ところが豊原は「過去」を説明などしない。豊原がことばを書けば、そこに必然的に「過去」が噴出してくる。
 こうした性質をもつことばは、映画、あるいは芝居に最適である。映画も芝居も役者が「過去」を背負って、「過去」を見せる。「過去」を見せながら、未来へ進んでいく。豊原のことばも「過去」を見せながら、未来へ進んでいくという運動をする。

 豊原のことばは完璧である。



夜の人工の木
豊原 清明
青土社

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