高橋睦郎『百枕』(28)(書肆山田りぶるどるしおる、2010年07月10日発行)
「秋枕--十月」。
「しみじみと」ということばは、こんなふうに静かにつかうと、ほんとうにしみじみとしてくる。秋は人が恋しくなる。
「白」という色は不思議だ。暗くなっていくなか、ぽつんと残されると、そのまずしさがつらくなる。何色にも染められずに取り残されたむなしさを、受け止める相手もいないまま、吐き出している。
この句については、高橋がエッセイで注解(?)している。去来の「いなづまやどの傾城とかり枕」という句に刺激を受けて書いた句であることがわかる。去来の句を注解は別にして、高橋は、次のように書いている。
いなづまはいまは稲妻と書くが、ほんらいは稲夫とあるべきところ。晩夏から初冬にかけてのいなづまは天の射精とされ、これが地の卵巣たる稲田に走ることにより、稲に実が入るものと考えられた。そのいなづまが稲田ならぬ遊廓に通うとなると、どの傾城と仮枕するのだろうか、という。
後半が注解の本筋なのだが、その前段がとてもおもしろい。いなづまは天の射精か。そんなことは、ないね。いまの科学からみると「誤読」だね。しかし、それがおもしろい。「誤読」のなかには「事実」ではなく、「祈り・願い」としての「真実」が含まれている。「考えられた」ということばが、その「しめ」に出てくるが、そうなのだ、ひとは考えたいのだ。考え、それをことばにすることで、その考えが「事実」にかわってほしいと祈るものなのだ。
「誤読」のことばの運動には「事実」はない。そのかわり「こころの真実」がある。あるいは、ちょっと言い換えて、「誤読」のことばのなかには「真実」はない。そのかわり「こころの事実」がある、と言うこともできる。「事実」と「真実」というのは、それくらいの違いだろうと思う。
さらにおもしろいのは、ひとはいつでも「誤読」のことばに乗っかって、「誤読」を加速させるということだ。
いなづまが天の射精と考えたあと、それが遊廓に通う。あれっ、稲が卵巣じゃなかったの? 射精して、受精して、実になる--それが「こころの真実・事実」ではなかったの? 遊廓は、射精をするところではあっても、受精し、妊娠し、出産するところではない。妊娠せず、出産せず--つまり、男にとって、ただ射精するだけのところであるはずだ。「こころの真実・事実」、つまり「夢」が微妙に逸脱している。
逸脱しているのだけれど、うーん、それを普通、逸脱とは言わないね。「夢」が加速し、逸脱していくことを、人間は好んでしまうのかもしれない。それがスケベな逸脱なら、「こころの真実・事実」は「こころ」ではなく「肉体」の「真実・事実」の方を優先するのかもしれない。「こころの真実・事実」は実は「こころ」ではなく「頭」が「考えた」ことにすぎなくて、ことばとは無縁であるはずの「肉体」の方が、「ことば」にならない「人間の真実・事実」という「夢」をつかみとるのかもしれない。
天と地の生理、自然の摂理もの大事だけれど、それだって、よくよく見れば人間の「生理」の比喩である。天の射精、稲の受精のなかに人間の「生理」が紛れ込んでいる。「誤読」は「人間の生理」によってまぎれもない「事実・真実」になる。その「事実・真実」から、「肉体」がまた別の方向に勝手に動いたってかまうものか。
あ、こんな面倒くさいことを高橋は書いているわけではないのだけれど、私は高橋のことばから、そんなふうに「誤読」を拡大してしまう。
「読む」というのは「正解」をしるためのものじゃないね。あくまでも「誤読」をつづけるためのものだ。「正解」に納得ができなくて、ひとは「書く」。書きながら「誤読」を拡大する。
「正解」にも「誤読」にも、詩、はない。詩は、「誤読する」という「動詞」のなかにある。
*
反句。
これは去来の故郷が長崎であることに由来する。去来の句の遊廓が「長崎」であると見て、長崎の珍味カラスミをもっきてたのだ。カラスミを枕にみたてているのだ。枕ほどもあるカラスミを私は見たことがないが、こえふとった立派なものを賞讃している。--だけではないかもしれない。カラスミはボラの卵巣。あら、それは射精を待っている? 誘っている? そういう意味での「枕」?
--こんな読み方は「誤読」を通り越しているのだけれど、そんなふうに逸脱を誘いつづけることば、それが私には楽しい。
立派な卵巣だねえ。で、射精は? 女は「見事さよ」と言ってくれるかなあ。
私は下品だなあ、と反省しながらも、こういう下品を受け入れてくれるのも俳句のおもしろさのひとつであると勝手につけくわえておこう。
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「秋枕--十月」。
人の秋枕の秋やしみじみと
「しみじみと」ということばは、こんなふうに静かにつかうと、ほんとうにしみじみとしてくる。秋は人が恋しくなる。
暮残る枕白しよ秋もすゑ
「白」という色は不思議だ。暗くなっていくなか、ぽつんと残されると、そのまずしさがつらくなる。何色にも染められずに取り残されたむなしさを、受け止める相手もいないまま、吐き出している。
いなづまと交す枕や小傾城
この句については、高橋がエッセイで注解(?)している。去来の「いなづまやどの傾城とかり枕」という句に刺激を受けて書いた句であることがわかる。去来の句を注解は別にして、高橋は、次のように書いている。
いなづまはいまは稲妻と書くが、ほんらいは稲夫とあるべきところ。晩夏から初冬にかけてのいなづまは天の射精とされ、これが地の卵巣たる稲田に走ることにより、稲に実が入るものと考えられた。そのいなづまが稲田ならぬ遊廓に通うとなると、どの傾城と仮枕するのだろうか、という。
後半が注解の本筋なのだが、その前段がとてもおもしろい。いなづまは天の射精か。そんなことは、ないね。いまの科学からみると「誤読」だね。しかし、それがおもしろい。「誤読」のなかには「事実」ではなく、「祈り・願い」としての「真実」が含まれている。「考えられた」ということばが、その「しめ」に出てくるが、そうなのだ、ひとは考えたいのだ。考え、それをことばにすることで、その考えが「事実」にかわってほしいと祈るものなのだ。
「誤読」のことばの運動には「事実」はない。そのかわり「こころの真実」がある。あるいは、ちょっと言い換えて、「誤読」のことばのなかには「真実」はない。そのかわり「こころの事実」がある、と言うこともできる。「事実」と「真実」というのは、それくらいの違いだろうと思う。
さらにおもしろいのは、ひとはいつでも「誤読」のことばに乗っかって、「誤読」を加速させるということだ。
いなづまが天の射精と考えたあと、それが遊廓に通う。あれっ、稲が卵巣じゃなかったの? 射精して、受精して、実になる--それが「こころの真実・事実」ではなかったの? 遊廓は、射精をするところではあっても、受精し、妊娠し、出産するところではない。妊娠せず、出産せず--つまり、男にとって、ただ射精するだけのところであるはずだ。「こころの真実・事実」、つまり「夢」が微妙に逸脱している。
逸脱しているのだけれど、うーん、それを普通、逸脱とは言わないね。「夢」が加速し、逸脱していくことを、人間は好んでしまうのかもしれない。それがスケベな逸脱なら、「こころの真実・事実」は「こころ」ではなく「肉体」の「真実・事実」の方を優先するのかもしれない。「こころの真実・事実」は実は「こころ」ではなく「頭」が「考えた」ことにすぎなくて、ことばとは無縁であるはずの「肉体」の方が、「ことば」にならない「人間の真実・事実」という「夢」をつかみとるのかもしれない。
天と地の生理、自然の摂理もの大事だけれど、それだって、よくよく見れば人間の「生理」の比喩である。天の射精、稲の受精のなかに人間の「生理」が紛れ込んでいる。「誤読」は「人間の生理」によってまぎれもない「事実・真実」になる。その「事実・真実」から、「肉体」がまた別の方向に勝手に動いたってかまうものか。
あ、こんな面倒くさいことを高橋は書いているわけではないのだけれど、私は高橋のことばから、そんなふうに「誤読」を拡大してしまう。
「読む」というのは「正解」をしるためのものじゃないね。あくまでも「誤読」をつづけるためのものだ。「正解」に納得ができなくて、ひとは「書く」。書きながら「誤読」を拡大する。
「正解」にも「誤読」にも、詩、はない。詩は、「誤読する」という「動詞」のなかにある。
*
反句。
鯔子(からすみ)の枕ざまなる見事さよ
これは去来の故郷が長崎であることに由来する。去来の句の遊廓が「長崎」であると見て、長崎の珍味カラスミをもっきてたのだ。カラスミを枕にみたてているのだ。枕ほどもあるカラスミを私は見たことがないが、こえふとった立派なものを賞讃している。--だけではないかもしれない。カラスミはボラの卵巣。あら、それは射精を待っている? 誘っている? そういう意味での「枕」?
--こんな読み方は「誤読」を通り越しているのだけれど、そんなふうに逸脱を誘いつづけることば、それが私には楽しい。
立派な卵巣だねえ。で、射精は? 女は「見事さよ」と言ってくれるかなあ。
私は下品だなあ、と反省しながらも、こういう下品を受け入れてくれるのも俳句のおもしろさのひとつであると勝手につけくわえておこう。
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