詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

糸井茂莉「夢、島々(パンセ)」

2010-08-11 21:41:43 | 詩(雑誌・同人誌)
糸井茂莉「夢、島々(パンセ)」(「現代詩手帖」2010年08月号)

 ことばの中になにがあるか。音がある。音の中に何があるか。そのことばとは別のことばがある。そのとき、そのことばと別なことばの関係は? わからない。わからないけれど、ことばの音と音が呼び合う。そのとき、その呼び合うということにどれだけ身を任せることができるか。つまり、どれだけ好きになれるか。さらに言い換えると、自分の考えていることはどうでもいい、ことばの音が別の音を呼ぶということにすべてを任せ、自分はどうなってもいいと思うことができるか。
 糸井茂莉は、どうなってもいいと思える詩人なのだと思う。音に身を任せ、音が連れて行ってくれる世界へ行ってみたいの感じる詩人なのだと思う。

吃音の連続というより、孤独な自己主張の音(おん)としての、パ。パンセの、パスカルの、絶対的な不安の、破裂音としてのパ。攻撃のしずく。あるいは唐突な閃き。制御できない懐疑の増殖として、パ、の連なり。その暗さ。果てしなさ。宇宙の静寂が押しつぶしてもなお。そしてその強靭さ。スリッパの、喇叭の、消えてなお明るい残響をしたたらせ、踏みはずし、つんのめり、自らを砕く尊大な、パ、の音(おん)。

 音に任せてことばを集める、のではなく、音が集まってくる。それは、孤独で、自己主張することしかできず、絶対的な不安を破裂させる。集まるたびに、いま、ここになかった唐突な閃きが生まれ、それは制御できないまま、これはいったい何、ことばはいったいどこへ行くのかという懐疑を増殖させる。それに向き合うとき、糸井は「宇宙」に向き合っている。
 未生。未生のことばが、未生それ自体をも突き破り、暴走し、目的地もないまま動いていく。

春の尾を引いて、春の緒を転がす、覆す、靴返す、鼻緒、花の緒を結んで、春の薄墨の闇夜を引きずって消える獣の尾、引きずって消える星の尾、振る、降る、ほうき星の、屑のこなごな。緒を結んで、O を盗んで、eau を盗んで、逃げ去る春の夢の獣の尾が、水にひたる、喉を震わせ、鼻の緒を結び、

 「お」という音は文字に固定されない。意味に固定されない。文字は意味を固定するのではなく、意味を破壊するたっめに動く。漢字から、フランス語にまで動いて、意味を攪拌する。「ふる」も「振る」から「降る」に変化するとき、星屑のきらめきをあつめてしまう。
 このとき、ことばは意味を失い、ただ原始の音として輝く。
 それは糸井が書き記したことばだけれど、糸井のものではない。ことば、音それ自体のものである。糸井は、ただそれを追認している。その追認のさなか、糸井の肉体、糸井のことばの肉体が顔を除かせる。星が降る、eau というフランス語となって。抒情性、素養という形で。
 音の運動が、糸井を暴くのである。
 暴かれるまま糸井はことばに従う。ついてゆく。ことばは常に糸井の前にある。


アルチーヌ
糸井 茂莉
思潮社

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高橋睦郎『百枕』(11)

2010-08-11 00:00:00 | 高橋睦郎『百枕』
高橋睦郎『百枕』(11)(書肆山田りぶるどるしおる、2010年07月10日発行)

 「草枕--五月」。

草枕旅のはじめは五月こそ

 「草枕」は「旅」の枕詞。五月の旅か。いいなあ。
 俳句は不思議だ。こういう何でもないような、つまりどこに工夫がしてあるのかよくわからない句が(あ、これは私にはわからないというだけのことであって、ほかの人にはわかるのかもしれないが)、すーっと胸にはいって落ち着くことがある。最初は読みとばすのだけれど、なぜか、その句へ引き返してしまう。
 音がいいのかもしれない。音にむりがないのかもしれない。

夏の風邪枕親しむ二三日

 「親しむ」ということばの使い方に、なるほどなあ、と思う。ずーっと寝ている。枕は常にそばにいる。それが「親しむ」ということ。

 この回のエッセイでは、高橋は再び万葉集を引いている。

草枕旅行く夫(せ)なが丸寝(まるね)せば家(いえ)なるわれは紐解かず寝む

草枕旅の丸寝の紐絶えば吾(あ)が手と付けろこの針(はる)持し
 
 高橋は、これに口語訳をつけている。「草を結んで枕とする旅をつづけるいとしい夫のあんたが着たまま寝るなら、家にいる吾(あたい)も紐を解かずに丸寝しようよ」「草を結んで枕とする旅をする旅の途中、着たまま寝る紐が切れたら、吾の手だと思ってこの針で縫いつけておくれなね」。
 このふたりは離れている。風邪をひいて寝ている「わたし」と枕の関係が「親しむ」という関係だとすると、その対極にある。けれど、ことばがこんなふうに行き交うとき、そこに「親しむ」--親しんできた関係がくっきりと浮かび上がり、そのなかで、ことばではなく、「肉体」が寄り添う。「親しむ」という関係、そばにいるという関係をつづけてきた「肉体」だけが、こういうことばを引き寄せることができる。発することができる。
 風邪(病気)のときの枕と人間の関係、それと男女の関係は、まったくないのだけれど、「親しむ」ということばに誘われて、私は、何かがつながっていると感じてしまうのだ。
 「親しむ」というのは懇ろになるということであり、安心して身をまかせるということでもある。そこには「肉体」がある。「肉体」抜きにして「親しむ」はない。

 旅は、肉体と肉体を遠ざける。距離をつくりだす。その距離をことばが埋める。ことばが距離を越えて結びつく。「肉体」よりも強く。

 そして、この距離を「空間」ではなく「時間」としてとらえなおすこともできるかもしれない。
 高橋は、「いま」と「万葉」の時代の「時間」の距離、隔たりを、ことばで埋める。高橋がことばを動かすとき、「いま」と「万葉」が「親しい」関係になる。「いま」が「万葉」に「親しむ」のか、「万葉」が「いま」に「親しむ」のか。区別はできない。時を越えて、ことばの「肉体」に触れ(ことばの「肉体」と懇ろになり)、そのとき、互いの「肉体」が新しくなる。いままで気がつかなかった「肉体」の奥の力を感じる。「肉体」の奥から力が湧いてくるのを感じる。
 高橋は、万葉に触れながら、ことばの新しい力を感じているのだと思う。



 反句、

草枕丸寝忘るな風薫る

 あ、書き忘れていた。「親しむ」と同時にそこに書かれていた「丸寝」ということば。服を着たまま寝る--自分で自分の体を抱き抱えるようにして丸くなって寝る。その姿。その姿をあらわすことば。

草を枕として着たまま寝る旅の原始的な姿を残した表現で、当時の平城京の官人貴族らには疾うに失われた習慣が、東国からの防人らには残っていたわけだ。

 高橋は、そんなふうに「丸寝」について書いているが、残っているのは「習慣」だけではない。「ことば」が残っている。人間はいつでもなにかをあらわすのにことばをつかう。そのことばがあるかぎり、それが指し示す人間の行為がある。こころがある。
 万葉に残っていることばを引き継ぐ、俳句に(あるいはエッセイに)取り入れ、動かすのは、その残っているこころに新しいいのちを注ぐことでもある。あるいは、残っているものから、注がれることでもある。
 残っているものを見つけ出すとき、それは、恋のように、見つけ出したつもりが見つけ出され、新しいなにかを注がれることなのかもしれない。

百人一句―俳句とは何か (中公新書)
高橋 睦郎
中央公論社

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