詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高橋睦郎『百枕』(26)

2010-08-26 11:03:18 | 高橋睦郎『百枕』
高橋睦郎『百枕』(26)(書肆山田りぶるどるしおる、2010年07月10日発行)

 「枕占--八月」。
 「枕占」は「夢占い」に同じ、と高橋は書いている。「枕占」が高橋の造語かどうかはわからない。造語と思いたい。

秋や今朝枕をたのみ何占ラふ

 夢占い--その夢は夜見るものだけれど、ここで高橋が書いているのは、真夜中に見た夢の占いだろうか。それとも、目覚める寸前に見た朝の夢だろうか。それとも、夢を見なかった。見なかった夢を捏造して、それを占うのか。
 「たのみ」のひとことが、夢の捏造を思い起こさせる。
 私の「誤読」だろうけれど、私は「誤読」をしたくてことばを読む。「誤読」ができると、とてもうれしい。
 詩は、たぶん、いま、ここから、いま、ここへ逸脱していく瞬間に輝くものだ。
 「誤読」ではないときは、それまでの私のことばの運動が、たとえば高橋のことばの運動にであうことで成り立たなくなり、はっと目覚めるときである。古い「誤読」が否定され、「真実」が突然あらわれてくる。--そのとき、それは「真実」であっても、私からすれば、いま(過去)からの逸脱である。
 「誤読」が詩人のことばで否定されるか、逆に私が詩人のことばを「誤読」してとんでもないところへ行ってしまうのか--どちらにしろ、そこには「誤読」がからんでいる。「いま(過去)」の否定がからんでいる。
 朝、目覚める、というのは、いわば「夜」の否定である。「夢」の否定である。「夜」と「夢」から逸脱していくことが目覚めるということである。どこへ逸脱していくのか--それを占いたいというのは、占いに身をまかせるということでもある。身をまかせることを「たのむ」とも言う。
 だれもが、いま、ここではなく、どこかへ行ってしまいたいのだ。

迎火や寝慣れ枕を縁の先

 迎え火を、寝ころんで見ているのだろうか。寝慣れた枕を縁側に出して、ごろり、と涼をとりながら。
 「寝慣れ枕」は、自分が慣れているということだろうか。それとも、迎え火に誘われて、遠い国から帰ってくる愛しい人がつかっていた枕だろうか。長い旅だっただろう、さあ、いつもの枕で休んでください、というのだろうか。

此ノ君の枕の別れ今日や明日

 竹でつくった籠枕。「別れ」は季節が夏から秋にかわるからだけれど、「君」が出てくると、竹であんだ籠枕だけではなく、いろっぽいものもただよってくる。
 ことばはいつでも、複数のことがらを行き来する。
 だからこそ、「占い」というものも必要なのかもしれない。「此ノ君」は竹? それとも愛しい人? 占いは、たぶん、占ってほしいひとの「希望」にあわせて選ぶ「誤読」かもしれない。
 ひとは、自分ののぞむように「世界」を理解したいのだ。だれもが「誤読」したがっているのだ。



枕とも筮(ぜい)ともならず竹の花

 数十年に一度花を咲かせて枯れていく竹。その花は生きてきた証か、死への旅立ちの印か。同じことを、違うことばで言うことができる。だから、ひとつのことは必ず「誤読」できる。

 これは、「誤読」しかできない私の、強引な自己弁護にすぎないかもしれないけれど。



日本二十六聖人殉教者への連祷
高橋 睦郎
すえもりブックス

このアイテムの詳細を見る

人気ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

岩佐なを「銅版画苦楽部」、廿楽順治「ライトバース」

2010-08-26 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
岩佐なを「銅版画苦楽部」、廿楽順治「ライトバース」(「出来事」6、2010年夏発行)

 岩佐なを「銅版画苦楽部」を読みながら、うーん、まずいなあ、と思う。何がまずいかというと……気持ち悪くない、気持ちがいい、好きなのである。
 これは、まずい。
 私は岩佐なをが嫌いであった。大嫌いであった。ともかく気持ちが悪い。気持ちが悪い、気持ちが悪い、と書くことで、なんとなく私自身の平穏を保っていたところがある。気分が滅入り、ひとを罵倒してすっきりしたいと思ったとき、そうだ、岩佐なをの詩について、気持ちが悪い、と書けばいいんだ--ということが、できなくなった。
 岩佐なをがかわったのか、私がかわったのか。よくわからないが、まずい。
 ちょっとまずい、を通り越してしまった。
 何かが変である。
 「銅版画苦楽部」は右ページに詩、左ページに版画という構成で組まれているが、その「備考②(ワラビ発見)」を読みながら、ほんとうに、変だ。どうしてこんなふうになってしまったのだろうと思った。
 左のページには、ネコが描かれている。これが、なんとも不思議。私はネコを直視できない。直視できるのは、ピカソの描いたネコ、右目と左目が違っていて、片方の目でテーブルの上の魚を狙い、片方の目で人間を見つめているネコの絵だけだと思っていた。そのピカソの絵ほどではないのだけれど、なんとなく岩佐のネコの版画を見つめてしまって、黒くてよく見えない口元をじーっと見てしまったのである。ネコ恐怖症の私が、である。これはおかしい。私は病気かもしれない、熱があるかもしれない……。でなければ、そこにはネコではなく、「他人」が描かれているのかもしれない。
 詩は、というと……。

五分の魂とはこれかと思う
しかしワラビだそうだ
土のなかからスルスル出てきやがって
五分どころかもっと伸びた
あるモノはこれはハテナだと云う
ワラビもハテナも似たようで
似て非なるものだ
兎に角最初に発見したものに
与えられるそうだ
欲しくないんだ
タマシイもハテナもワラビも
ウミニトケルタイヨウモ
モチロンエイエンモ

 何が書いてあるかというと、何も書いてない。いや、ひとつだけ、書いてあるものがある。
 口調である。
 それも、自分をみせない口調というか、自分を他人にしてしまう口調である。いや、そうではなくて、他人と他人を平気で(?)つなぐ口調である。
 岩佐には岩佐のいいたいことがあり、岩佐自身の声というものももちろんあるのだろうけれど、それは、まあ、出さない。他人を次々に登場させ、そこに「世間」というものを浮かび上がらせる。岩佐の「肉体」ではなく、「世間」の肉体を浮かび上がらせる。
 「世間」というのは、どうにもうさんくさいものであるが、岩佐はそれと正面きって対決する(向き合う--そして、自分を変える)のではなく、「世間」と「世間」をつっつきあわせる。
 結果的に、そういうものを平然と見ている岩佐という「肉体」を浮かびひ上がらせるのだけれど、そのときの落ち着きはらった感じが、たたいても壊れない感じで、それがいいのだ。その感じこそ、「世間」であり「他人」だ。
 昔は(とは、いったいいつのころだろう--私は30年ほど岩佐の詩を読んでいると思うけれど……)、たたくと、いやたたかなくても、そこから体液のようなものがあふれてきて、それが気持ち悪かったが、いまは、その体液のようなものが「他人」になってしまっていて、それがおもしろい。
 あ、なんのことかわからないね、これでは。
 たとえば、

あるモノはこれはハテナだと云う

 この1行。ワラビの描写である。土のなかから出てきたワラビ。その形は?(クエスチョンマーク)に似ている。これを自分の考えだとは言わずに、「あるモノ」の主張(云う)だと突き放す。そうすると、その反動で、それまで書いてきたことは「わたし」の考えでありながら、相対的に「他人」の考えになってしまう。「わたし」から吹っ切れて、何か、客観的な感じになる。いろんな考えが、それぞれ「あるモノ」がいったことのように、独立した「肉体」をもってしまう。
 そして、そこにはだれもが知っているランボーの「肉体」さえ登場してくる。
 その瞬間。
 ワラビはハテナ。ハテナは疑問。疑問が伸びる(成長する)と、そこに必然的に「答え」のようなものが引き出されてくる。それは、実はどこかにあるのではなく、「疑問」そのもののなかにある。「疑問(ハテナ)」のなかには、答えが「五分(の魂)」も含まれている。答えは、疑問をもった人間がみつけだすものである。疑問をもたない人間は答えも「発見」しない。答えは最初に「疑問」をもった人間に「与えられる」。
 という「意味・内容」が吹き飛んでしまう。
 そんなものよりも魅力的なのは「口調」である。

見つけた
何を
永遠を
海に溶け込んだ太陽を

 だったかな? その「口調」が

見つけた
何を
ワラビを
自然に溶け込んだハテナを

 という書かれなかった「意味」を、同じ次元にしてしまうことも可能なのだけれど、(そんなふうに書き直すことも可能なのだけれど)、そうしない。
 違った「口調」のまま、そこに併存させる。
 きっと「世間」とは「他人」が同居する状態なのだ。岩佐は「他人」として自分を「他人」のなかで同居させる力を確実に自分のものにしているのだ。
 これは、気持ち悪がることはできないなあ。



 廿楽順治「ライトバース」にも「他人」が出てくる。「他人」の「声」が出てくる。「角」という作品。(作品は行末が下にそろえられているのだけれど、引用では頭をそろえた形にしている。)

おぼえてろよ。
おぼえてられませんな。

 この「おぼえてられません」、「他人」は他人のまま、けっして「わたし」の内部に取り入れ、引き受けるようなことはしません。「わたし」の「肉体」を変えるようなことはしません、ということなのだ。
 「あるモノ」は「おぼえてろよ」と言う。けれど「おぼえてられませんな」と「他人」のままにしておくのである。
 それが「世間」だ。

 「世間」は、ことばにしないときは「世間」のままだけれど、ことばにすると「他人」があふれる詩になる。「個人」とは無関係な、さっぱりした運動になる。





しましまの
岩佐 なを
思潮社

このアイテムの詳細を見る

人気ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする