詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

犬飼愛生「牛の子ではない」、高田太郎「河骨川」

2010-08-31 12:12:21 | 詩(雑誌・同人誌)
犬飼愛生「牛の子ではない」、高田太郎「河骨川」(「交野が原」69、2010年09月20日発行)

 犬飼愛生「牛の子ではない」の書き出しが強烈である。

牛の子ではないから
人間は人間のお乳で育ててほしいの
牛のような助産婦が そう言ったのだ

 これは犬飼が助産婦から聞いたことばをそのまま書いたのだと思う。「詩」を書こうとして(詩にしようとして)発せられたことばではないが、だからこそ、そこに詩がある。母乳で育ててほしい--といえばそれですむのだけれど、日常の会話でも、こんなふうにことばは逸脱していく。ほんとうに何かを言おうとすると、ことばは過剰になる。その過剰の瞬間に、ことばが詩になる。
 この助産婦の本心の過剰に、どんなふうに向き合えるか。それを超えて、どれだけ過剰なことばを書きつづけることができる。
 これは難しい。

雲ひとつない空が 真っ青な
月曜日だった
目も開かぬうちに
私の胸に乗せられた子
たったいま、この世に生まれた子が
ちう、と吸った
私ははじめて 自分の体内から
乳が湧くのを見た

 「見た」ということばに、犬飼の必死を感じるけれど、それでもまだ助産婦のことばに負けていると思う。過剰なことばになっていない。逸脱していない。

私の乳だけで ここまで育った
歯が生えた、髪も伸びた
よつんばいになった子の
手が もうすぐ
一歩でる

 助産婦のことばに対抗しきれないまま、こどもが成長している。ことばではなく、赤ん坊が「いま」を突き破っていく。これでは母子手帳の記録になってしまう。
 せっかく助産婦のことばを受け止めたのだから、そこから先へ過剰に逸脱していってほしいと思う。



 高田太郎「河骨川」は風景のスケッチだが、ことばの逸脱の仕方が自然で、スケッチの詩にとても似合っていると思う。

うつらうつらしていると
いつのまにか浮子の姿はなかった
燃えつきようとする落日が
川面を静まらせ
そこには河骨の花が小魚とふざけながら
黄色い蝶のように
ゆらゆらゆれて美しく舞い上がったりするが
その川底の深い土の中では
風化した白い人骨のような根が絡み合い
みだらな夜を待っているのを
だれも知らない

 「河骨」の花。「河骨」ということばのなかに「骨」があり、骨とは一般的に「死」の象徴である。そうしたごく普通の連想にしたがってことばを動かしているのだが、白い人骨という比喩をつかった瞬間から、「根」ではなく、「人骨」そのものがからみあう死後の夜、淫らな死が生きて動きはじめる。死が生きるというのは矛盾だが、矛盾だから、そこに詩があるのだ。
 淫らなセックス--そこで人間は死を体験する。死を体験することで、生きている、と感じる。矛盾はいつでも淫らなのだ。矛盾を淫らと定義するのは、高田の過剰な意識である。だから、それが詩なのだ。





高田太郎詩集 (新・日本現代詩文庫)
高田 太郎
土曜美術社出版販売

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高橋睦郎『百枕』(31)

2010-08-31 00:00:00 | 高橋睦郎『百枕』
高橋睦郎『百枕』(31)(書肆山田りぶるどるしおる、2010年07月10日発行)

 「後記」にも3句書かれている。

枕との旅ななそとせ唯朧

枕これ夢の器ぞ花の昼

枕より進まぬ噺暮遅き

 高橋にとって「枕」と「ことば」は同じものかもしれない。「ことば」とともに旅をして70歳になる。「ことば」は、そして「夢の器」でもある。「ことば」なしには「夢」か語れない。
 高橋のことばの特徴はなんだろうか。この句集は、いわば一人連歌であり、連歌をともなった「古典細道」とでもいうべき「紀行文」かもしれない。高橋は古典のさまざまな「ことば」(夢の器)を旅する。そのとき、寄り添うのは「古典」の作者であり、あるいは歴史である。故事である。
 高橋と同伴者は、共生者であり、また共犯者でもある。それも互いを犯すのである。
 助けてもらいながら、助けてくれたひとを犯す。
 高橋は、たとえば「古語」を見つけ出し、いま、新しく句の中に取り込む。そのとき、高橋は「古語」を死からすくい上げ、いのちを吹き込みながら、その古語を高橋の色に染め上げる。高橋の好みのスタイルに仕立て上げる。セックスの相手を自分の好みのスタイルに仕立て上げ、こんな色っぽい人間になった、と自慢するようなものである。
 一方、耕され、犯された「古語」の方も、だまってはいない。したがったふりをして、ひそかに反撃をねらっている。知らないうちに、高橋も、その「古語」に影響され、そのスタイルになっていく。
 いま生きて、ことばを書いているのが高橋なので、高橋が一方的に何かをしているように見えるけれど、きっと高橋の内部で変化が起きているはずである。ことばを書くということは、書いたことばによって、自分の「肉体」が変化してしまうことでもある。自分の「肉体」がどうなってもかまわないと覚悟しないかぎり、ことばは書けない。
 セックスも、極端な例になるかもしれないが、誰かを犯す。それは犯した方の一方的な暴力に見えるが、そういうときでも、そのセックスで犯した方も変わってしまうことがあるのだ。そういうやり方が病みつきになったり、あるいは逆のことに目覚めたり。どんなことでも一方的に何かがおこなわれるということはない。
 ことばの場合、それは、つぎのことばがどうなるかわからないという意味で、もっと「共犯者」の度合いが強いかもしれない。
 高橋がこの句集(紀行文風のの俳文)のあと、どんなことばを動かすことになるのか、高橋も、高橋によって書かれたことばも、わからない。だれも、どうなるかなどわからない。ただ、同じものは書かれない。どうしても次は違ったものを書かざるを得なくなる。そういう変化を人間にもたらすのが、ことばである。

 この高橋の俳文の特徴--それにもどろう。
 ひとつは、すでに書いたが「古典」「古語」(雅語)の発掘にある。もう一つは「造語」にある。
 「古語」を耕しているうちに、「古語」だけでは書き表せないものがでてくる。「古語」を犯すことによって、高橋が逆に犯され、新しい「何か」に目覚めてしまうのだ。いままでなかったものに目覚めてしまうのだ。それは「古語」からの逆襲のようなものである。高橋のことばを「変形」させ、高橋の「肉体」を変形させ、高橋を突き破って「生まれてしまう」のである。
 このエネルギーの噴出、逸脱--それを私は「誤読」と呼ぶのだけれど。
 そういう「造語」(誤読)と「古典(古語)」が共犯して、「文学」を犯す。「文学」に新しいものをねじ込む。それが今回の高橋の俳文というものだと思う。
 これは新しいスタイルの俳文なのだ。

 そして、その紀行俳文の果て、未知の荒野にあらわれる輝き、新しいいのち--それを高橋は「夢」となつかしいことばで呼んでいる。この「夢」を枕にして眠るものは、いつか、かならず、その高橋の「夢」によって己の夢を攪拌されることになる。
 覚悟せよ。



 アマゾン・コムのアフィリエイトシステムでは、高橋睦郎『百枕』は検索できない。
 高橋の「夢」に同行し、それにいつか乗っ取られてもかまわないという覚悟のある人は、書肆山田へ直接注文し講読してみてください。書肆山田は、
 東京都豊島区南池袋2-8-5-301
 電話 03-3988-7467
 在庫の有無は、私は確認していません。




詩人の買物帖
高橋 睦郎
平凡社

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