池井昌樹「螢」(「現代詩手帖」2010年08月号)
池井昌樹の詩については何度も書いている。何度書いても同じことを書いてしまうのだから書かなくてもいいかなあ。でも、同じになっても書いておきたい。ときとともに池井も変わっているだろうし、私も変わっているだろうから、どんどん変わりながらも「感想」が変わらないとしたら、それはそれで「意味」があるように思えるからである。
「螢」の全行。
だれかのむねのふかみへと
ひとすじつづくみちがあり
みちのかなかにもりがあり
こんもりとしたもりかげに
ちいさなちいさなひをともす
ほたるみたいないえがあり
それをとおくでみつめている
こんなとおくでみつめている
だれかのむねのふかみから
しずかなみちがながれだし
あくるひへまたあくるひへ
はてないときがながれだし
あかねにそまるそらのした
だれもがひとりたどるころ
だまってそれをみつめている
いつまだもまだみつめている
あんなちいさな
ほたるのあかり
これは、とても奇妙な詩である。「私」(池井)と「だれか」、「みつめている」の関係が明確ではない。
「だれかのむねのふかみへと」から「こんなにとおくでみつめている」までは「私」を「主語」と考えることができる。私ではないだれかの胸の奥へとつづく道があり、その果てに小さな明かりを灯す家があり、それを私(池井)が見つめている。--単純に考えると、そういう「意味」が成り立つと思う。
でも、よく考えると、これは変。
「だれか」とはだれ? 自分が知っているひとの「むねのふかみ」なら想像できる。でも、だれであるかわからないひと、そのひとの「むねのふかみ」は想像できない。「むねのふかみ」への手がかりがない。もちろん通りすがりひとをみつめながら、この何を考えているんだろうと想像することはできるが、それは漠然と何を考えているんだろうと想像するのであって、具体的に「ひとすじつづくみちがある」とは考えたりはしない。だれかの「むね」のなかが、表面(?)から「ふかみ」へと「立体的」にできているということも、なかなかできない。そういうことができる相手(だれか)とは知ったひとでないと、「むね」の「立体感」(三次元の感覚)は親身に迫ってこない。
でも、池井は、その「だれか」をとても親しいひとのように感じ、その「むねのふかみ」に小さな灯をみる。「だれか」と書かれているが、ほんとうは池井はそのひとを「だれか」とは感じていないのだ。
だからこそ、次のような、またまた奇妙なことが起きる。
それをとおくでみつめている
こんなとおくでみつめている
「私」(池井)は、それを「とおく」でみつめている。その、「とおく」って、どこ?「とおく」って何?
「だれか」の「むね」の外から、「だれか」から離れてということなのだろうけれど、「むねのふかみ」などという親密な「場」、その奥にともる灯がもしみえるとすれば、それはその相手と近くにいないと不可能である。恋人のそばにいる。抱きしめて、その目をのぞく。そうすると、その奥に、むねのふかみに、灯を見るということは「比喩」として成り立つとは思うけれど、「とおく」で、そんなものは見えないだろう。
「とおく」とは「とおく」ではないのだ。「だれか」が「だれか」というわけのわからないひとではないように、「とおく」はとても「近い」のだ。近すぎて距離がわからない。だから「とおく」と勘違いしてしまう。まちがっている--だからこそ、繰り返し、年を押すのだ。自分自身、つまり池井自身のために。
「だれか」とは池井のなかの、まだ名づけられていない池井、ことばを語ることのできない池井なのだ。そう考えると、この詩の悲しみがよくわかる。
池井のなかの、なもない池井、ことばをもたない池井--その「むねのふかみ」を池井は実感できる。そこに一筋の道があるのも、その奥に森があるのも、家があるのも、その家に灯がともるのも、はっきり自覚できる。名づけられてはいないけれど、それも池井自身だからである。それを池井は「とおく」からみつめている。
「いま」「ここ」が、そのむねのふかみの小さな灯から「とおい」ということを知っている。
それをとおくでみつめている
こんなとおくでみつめている
二度くりかえすのは、その名もない池井、ことばをもたない池井に、池井が呼びかけているのだ。未生の池井に向かって、生まれてきていいんだよ、と呼びかけているのだ。その「むねのふかみ」から、池井がいる「場」まではとおい。とおいから、こわくて生まれてくるのをためらっているかもしれない。けれど、大丈夫、生まれておいで、と呼びかけている。
これにつづく「だれかのむねのふかみから」は、そして、その未生の池井が、いま、ここにいる池井に向かって発したことばである。実際には未生の池井がそう発するわけではないが、そう発していると池井が感じ、受け止めたことばである。
未生のものから、存在しないものから、「みち」が「ながれだし」ている。この「流れだす」という動詞に、この詩の大切なものがある。それは「自然」に流れているのだ。だれかが一生懸命につくる道ではなく、まるで川のように流れてくる。最少の方に「だれかのむねのふかみへと/ひとすじつづくみちがあり」と書いてあったが、それは実は「ふかみ」から流れだしてきた「自然」の道なのである。それは「自然」であるから、「あくるひへまたあくるひへ」とつづく。とまることを知らない。この道を、池井は「はてないとき」とも言い換えている。「むねのふかみ」へつづく道は、実は「とき」である。
池井は、未生の池井に向かって呼びかけると書いたが、ほんとうは、未生の「とき」にむかって呼びかけている。「ときよ、ときよ、まだ生まれていないときよ、生まれておいで」と呼びかけている。
その呼びかけにこたえるように、「みち」は「とき」は池井に向かった流れている。流れてくる。
その「ながれ」を池井は、未生の池井といっしょになって「だまってみつめている」。「いままでもまだみつめている」。くりかえすとき、その主語は、池井なのか、未生の池井なのかわからなくなる。それは「一体」になっている。
「だれか」と池井の「一体感」。それがいつも池井の詩のことばの中心にある。「一体」になるとき、池井は存在し、同時に存在しない。存在しないことによって、新しい池井に生まれ変わる--どんうなふう言えばいいのかわからないが、そういう融合と生成がいつも起きている。それは「とおい」ところであり、実際は「近い」ところである。矛盾したものが結びつく「池井昌樹という肉体」のなかのできごとである。
*
書いていて、いつも同じようなことを書きながら、どこかで何を書いているのかわからなくなる瞬間がある。そのとき、こういうことをいっていいのかどうかわからないけれど、あ、いま私は池井になっている、とも感じる。私が私であることを忘れてしまう。
そういう瞬間が、私は好きである。
そして、池井になってしまった私は、ちょっと自慢したい。
あかねにそまるそらのした
この1行すごくない? いいだろう? だれもこんなすごい行を書いた人間はいないぜ。どこがすごい? それがわからんから、谷内は馬鹿なんだ。むね、でも、みち、でも、もり、でも、ちいさなひ、でもないだろう。突然「あかねにそまるそらのした」が出てくるだろう。この、突然がすごいんじゃないか。こういう行は、おまえ、考えて書けるんじゃないんだぞ。ふいに、書かされてしまうものなんだぞ。書かされまままに書くというのが詩なんだぞ。