詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

フィリップ・ノイス監督「ソルト」(★★★★)

2010-08-02 23:35:19 | 映画

監督フィリップ・ノイス 出演 アンジェリーナ・ジョリー、リーヴ・シュレイバー、キウェテル・イジョフォー、ダニエル・オルブリフスキー

 でたらめな映画である。こんなこと、できるわけないだろう、ということを平気でやっている。それがおもしろい。
 成功の要因はただひとつ。アンジェリーナ・ジョリーが主演であるということ。アンジェリーナ・ジョリーでなくてもいいが、女優であること--これがこの映画の成功の理由である。
 スパイもの。それもスパイアクションとなれば、男が定番だった。ショーン・コネリーからマット・デイモンまで。男が体を張って動く。(ショーン・コネリーの場合ははげしい動きではなくセクシーな抑制された動きの方が重要なのかもしれないけれど。)
 女優と男優とどこが違うか。
 私の偏見が含まれているかもしれないが……。
 たとえば高速道でのカーチェイス。車から車への飛び移り。これがマント・ディモンが主役なら1回しかない。1回、走る車から別の斜線の車の上に飛び移るというシーンをとったら、2度と類似のシーンはないはずである。そんなこと、できるわけない。うそだろう。そう観客が思うことは1回きり。これが原則。
 ところが、これが女優なら2回、3回あってもいいのだ。どうせ、うそ。うそだろう。でも、もう1回やってみせて。次はできるかな? えっ、また、できた? うそだろう、うそだろう、そうだろう。--そうやって積み重ねて、うそが「ほんとう」になる。これは女優がまだそんなことをだれもしていないからだね。
 それにねえ。
 いやあ、がんばっているのだけれど、やっぱりスピードがちょっと鈍い。スタントマンのふきかえもあると思うけれど、肉体の動きがマット・デイモンなんかの映画とはすこしだけスロー。
 これが意外に効果的。
 最近のアクションは速すぎて、見ていて肉体がついていかない。いっしょに動かない。アンジェリーナ・ジョリーの動きについていけるかというと、実際にはあんなふうに走ったり殴ったりはできないのはわかっているけれど、マット・デイモンの動きに比べるとついていける。カメラの切り返しも、そんなに速くない。
 で、うそだろう、うそだろう、と思いながらも、なんとなく自分がアンジェリーナ・ジョリーになったような気分になれる。
 昔、やくざ映画を見たあと、映画館からでてきた客がみんな肩で風を切っていた--というような感じだね。
 やってみたくなるじゃありませんか。
 特に、最後の方、手錠もかけられ逃げられない。そこに敵の男は鋏(?)か何かの凶器を隠し持っていて、すれ違うときに刺そうとねらっている。それを、ね。手錠の鎖(?)を利用して、そこに相手の首をひっかけ、廊下から一階(?)へ飛び降りるようにして、いわば首吊りにする。アンジェリーナ・ジョリーが自分の体重を利用して男の首をしめる。
 あ、かっこいい。
 やれそうに見えるでしょ? 武器が何にもなくても、自分の肉体と知恵で相手を殺す。見事ですねえ。
 これが男だったら、あの首吊りシーンも一瞬。アンジェリーナ・ジョリーは女。首吊りといっても体重がちょっと軽い。だから、それを補うために、廊下の手すりというか、下の部分を利用して、体をてこのように動かして、首吊りに重さを加える。一生懸命、首を締め上げるシーンが追加され、そこで何が起きているかがはっきりわかる。ゆっくり納得できる。
 すごいなあ。
 あんなふうにやってみたい、と思うでしょ?

 夏休みお薦めの映画はこれかな。


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池井昌樹「螢」

2010-08-02 15:22:38 | 詩(雑誌・同人誌)
池井昌樹「螢」(「現代詩手帖」2010年08月号)

 池井昌樹の詩については何度も書いている。何度書いても同じことを書いてしまうのだから書かなくてもいいかなあ。でも、同じになっても書いておきたい。ときとともに池井も変わっているだろうし、私も変わっているだろうから、どんどん変わりながらも「感想」が変わらないとしたら、それはそれで「意味」があるように思えるからである。
 「螢」の全行。

だれかのむねのふかみへと
ひとすじつづくみちがあり
みちのかなかにもりがあり
こんもりとしたもりかげに
ちいさなちいさなひをともす
ほたるみたいないえがあり
それをとおくでみつめている
こんなとおくでみつめている
だれかのむねのふかみから
しずかなみちがながれだし
あくるひへまたあくるひへ
はてないときがながれだし
あかねにそまるそらのした
だれもがひとりたどるころ
だまってそれをみつめている
いつまだもまだみつめている
あんなちいさな
ほたるのあかり

 これは、とても奇妙な詩である。「私」(池井)と「だれか」、「みつめている」の関係が明確ではない。
 「だれかのむねのふかみへと」から「こんなにとおくでみつめている」までは「私」を「主語」と考えることができる。私ではないだれかの胸の奥へとつづく道があり、その果てに小さな明かりを灯す家があり、それを私(池井)が見つめている。--単純に考えると、そういう「意味」が成り立つと思う。
 でも、よく考えると、これは変。
 「だれか」とはだれ? 自分が知っているひとの「むねのふかみ」なら想像できる。でも、だれであるかわからないひと、そのひとの「むねのふかみ」は想像できない。「むねのふかみ」への手がかりがない。もちろん通りすがりひとをみつめながら、この何を考えているんだろうと想像することはできるが、それは漠然と何を考えているんだろうと想像するのであって、具体的に「ひとすじつづくみちがある」とは考えたりはしない。だれかの「むね」のなかが、表面(?)から「ふかみ」へと「立体的」にできているということも、なかなかできない。そういうことができる相手(だれか)とは知ったひとでないと、「むね」の「立体感」(三次元の感覚)は親身に迫ってこない。
 でも、池井は、その「だれか」をとても親しいひとのように感じ、その「むねのふかみ」に小さな灯をみる。「だれか」と書かれているが、ほんとうは池井はそのひとを「だれか」とは感じていないのだ。
 だからこそ、次のような、またまた奇妙なことが起きる。

それをとおくでみつめている
こんなとおくでみつめている

 「私」(池井)は、それを「とおく」でみつめている。その、「とおく」って、どこ?「とおく」って何?
 「だれか」の「むね」の外から、「だれか」から離れてということなのだろうけれど、「むねのふかみ」などという親密な「場」、その奥にともる灯がもしみえるとすれば、それはその相手と近くにいないと不可能である。恋人のそばにいる。抱きしめて、その目をのぞく。そうすると、その奥に、むねのふかみに、灯を見るということは「比喩」として成り立つとは思うけれど、「とおく」で、そんなものは見えないだろう。
 「とおく」とは「とおく」ではないのだ。「だれか」が「だれか」というわけのわからないひとではないように、「とおく」はとても「近い」のだ。近すぎて距離がわからない。だから「とおく」と勘違いしてしまう。まちがっている--だからこそ、繰り返し、年を押すのだ。自分自身、つまり池井自身のために。

 「だれか」とは池井のなかの、まだ名づけられていない池井、ことばを語ることのできない池井なのだ。そう考えると、この詩の悲しみがよくわかる。
 池井のなかの、なもない池井、ことばをもたない池井--その「むねのふかみ」を池井は実感できる。そこに一筋の道があるのも、その奥に森があるのも、家があるのも、その家に灯がともるのも、はっきり自覚できる。名づけられてはいないけれど、それも池井自身だからである。それを池井は「とおく」からみつめている。
 「いま」「ここ」が、そのむねのふかみの小さな灯から「とおい」ということを知っている。

それをとおくでみつめている
こんなとおくでみつめている

 二度くりかえすのは、その名もない池井、ことばをもたない池井に、池井が呼びかけているのだ。未生の池井に向かって、生まれてきていいんだよ、と呼びかけているのだ。その「むねのふかみ」から、池井がいる「場」まではとおい。とおいから、こわくて生まれてくるのをためらっているかもしれない。けれど、大丈夫、生まれておいで、と呼びかけている。
 これにつづく「だれかのむねのふかみから」は、そして、その未生の池井が、いま、ここにいる池井に向かって発したことばである。実際には未生の池井がそう発するわけではないが、そう発していると池井が感じ、受け止めたことばである。
 未生のものから、存在しないものから、「みち」が「ながれだし」ている。この「流れだす」という動詞に、この詩の大切なものがある。それは「自然」に流れているのだ。だれかが一生懸命につくる道ではなく、まるで川のように流れてくる。最少の方に「だれかのむねのふかみへと/ひとすじつづくみちがあり」と書いてあったが、それは実は「ふかみ」から流れだしてきた「自然」の道なのである。それは「自然」であるから、「あくるひへまたあくるひへ」とつづく。とまることを知らない。この道を、池井は「はてないとき」とも言い換えている。「むねのふかみ」へつづく道は、実は「とき」である。
 池井は、未生の池井に向かって呼びかけると書いたが、ほんとうは、未生の「とき」にむかって呼びかけている。「ときよ、ときよ、まだ生まれていないときよ、生まれておいで」と呼びかけている。
 その呼びかけにこたえるように、「みち」は「とき」は池井に向かった流れている。流れてくる。
 その「ながれ」を池井は、未生の池井といっしょになって「だまってみつめている」。「いままでもまだみつめている」。くりかえすとき、その主語は、池井なのか、未生の池井なのかわからなくなる。それは「一体」になっている。

 「だれか」と池井の「一体感」。それがいつも池井の詩のことばの中心にある。「一体」になるとき、池井は存在し、同時に存在しない。存在しないことによって、新しい池井に生まれ変わる--どんうなふう言えばいいのかわからないが、そういう融合と生成がいつも起きている。それは「とおい」ところであり、実際は「近い」ところである。矛盾したものが結びつく「池井昌樹という肉体」のなかのできごとである。



 書いていて、いつも同じようなことを書きながら、どこかで何を書いているのかわからなくなる瞬間がある。そのとき、こういうことをいっていいのかどうかわからないけれど、あ、いま私は池井になっている、とも感じる。私が私であることを忘れてしまう。
 そういう瞬間が、私は好きである。
 
 そして、池井になってしまった私は、ちょっと自慢したい。

あかねにそまるそらのした

 この1行すごくない? いいだろう? だれもこんなすごい行を書いた人間はいないぜ。どこがすごい? それがわからんから、谷内は馬鹿なんだ。むね、でも、みち、でも、もり、でも、ちいさなひ、でもないだろう。突然「あかねにそまるそらのした」が出てくるだろう。この、突然がすごいんじゃないか。こういう行は、おまえ、考えて書けるんじゃないんだぞ。ふいに、書かされてしまうものなんだぞ。書かされまままに書くというのが詩なんだぞ。

池井昌樹詩集 (現代詩文庫)
池井 昌樹
思潮社

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高橋睦郎『百枕』(2)

2010-08-02 00:00:00 | 高橋睦郎『百枕』
高橋睦郎『百枕』(2)(書肆山田りぶるどるしおる、2010年07月10日発行)

 「長枕--八月」。冒頭の句。

汗臭き鼾累々長枕

 「長枕」は文字通り長い枕で、ひとつを複数でつかうのだろう。どうしてもエロチックな印象がある。それが「汗臭き鼾累々」だと、そこから女のにおいが消えてしまう。男だけの、それはそれでエロチックな暴走もありそうな感じである。
 その暴走を高橋は2句目で、一気に洗い流す。

夏の夜の短き夢を長枕

 「短き夢」、その「短き」がとてもいい。そこでおこなわれる性愛はあくまでセックスであり、愛とは無縁のもの。「愛」の長さをもたぬもの。「現実」にはなりえない「夢」。「短い」夢と「長い」枕。この出会いが、さっぱりしている。
 高橋がエッセイで書いているが、いわゆる「若者宿」の、一夏の(一晩の)できごとである。この「若者宿」を高橋は、海辺の集落のものと設定して、海を、漁師を、登場させ、ことばを動かしていく。
 その終わりから2番目の句。

百物語に百クの枕や更けて雨

 ふいに登場する「雨」が、とてもおもしろい。「百クの枕や」と、「百」を突然「ひゃく」と読ませているが、その音の変化と、気候の変化、雨が降りはじめたという変化が呼応していて、気分が一新する。
 若者宿の性愛など、ほんとうに夢となって遠くなる。

 反歌(のような句--以後、反句、と書いていこうかな……。)

土用波砂の枕を崩しては

 「長枕」が「砂の枕」にかわっている。「若者宿」の長枕は、それこそ丸太一本の長枕だったかもしれない。それは砂の枕と違って崩れない。だからこそ(というのは変ないい方かもしれないけれど)、一晩の性愛はの「愛」は崩れさり、単なる性の暴走となって、夢のなかへ消える。消えても、「枕」が証拠として残るから、それはそれでいいのだ。ところが、「砂枕」となると、波が崩してしまえば「証拠」がのこらない。(あるいは、雨が崩してしまうということもあるかもしれない。)こういうとき、ことばが求められる。「もの」が消えてしまっても、残りつづける「ことば」。そして、それは一瞬の暴走だった性の戯れを、「愛」として引き止める。「愛」として、それをとどめておきたい「夢」が、崩れていくもの、消えていくもののなかにある。
 あ、なんだか、「性愛」よりも、こっちの未練(?)の方がエロチックかなあ……。



漢詩百首―日本語を豊かに (中公新書)
高橋 睦郎
中央公論新社

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