詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高橋睦郎『百枕』(13)

2010-08-13 12:00:00 | 高橋睦郎『百枕』
高橋睦郎『百枕』(13)(書肆山田りぶるどるしおる、2010年07月10日発行)

 「枕文字--七月」。

上五をば枕といふぞ明易き

枕文字五(いつ)に悩みて明易き

 「上五」。枕詞の--というより、書きはじめのといった方がいいのかもしれない。書きはじめはどんな文学でも難しい。短歌・俳句のように短い詩はなおさらだ。真剣に悩み、考えあぐねているうちに夜も明ける。
 高橋も書き出し、あるいは冒頭の句が書けずに、夜を明かしてしまうということがあったのだろうか。
 と、考えていたら、同じようなことを高橋がエッセイで書いている。

枕が据わらなければ、よい夢は見られない道理で、そのために短夜を考え明かすということは、俊成にも、定家にも、芭蕉にも、蕉門の誰彼にもあったろう。

 あ、さすが高橋。私は高橋もそうなのだろうかと想像したが、高橋が想像するのは俊成、定家、芭蕉なのか。
 そんなところに高橋の、ことばの高みが、ふいにあらわれる。びっくりというのではなく、こういう古典を相手にことばを動かすのが高橋なんだなあ、とあらためて感動する。私は古典を気にせず、ただ高橋の書いたことばを「いま」「ここ」に引きつけて読むけれど、高橋のことばは古典のなかへ帰しながら(古典をくぐりながら)、読むべきものなんだろうなあ。
 でも、私には、そんな素養がない。
 だから、思いつくまま、即興感想をつづける。

うとましきものに酸き髪汗枕

 「酸き」(すい)。「うとましい」。たしかに、そういうことばはある。つかったことはある。でも、急には思いつかない。そういう静かで強いことばにであうと、日本語はいいもんだなあ、と思う。まねしたくなる。こういうことばを探して、俳句を書くのは面白いだろうなあ、と思う。
 ところで、この「髪」の、「汗」の匂い--それはだれのものだろう。いつのものだろう。自分のものではなく、きのうの夜のセックスの相手の残したものだろう。(あるいはふたりの交じり合ったものか。)そのときは「うとましい」ではなかったもの、親密なあかしだったものが「うとましい」に変わる。短夜なのに……。
 この嗅覚の変化と短夜が交錯するところに、厳しい人間観察の(自己観察の)目を感じる。

山宿は先づもてなしの籠枕

 「もてなし」。なるほど、もてなしというのは、たしかにそういうものだ。特別な何かを用意するのではなく、いまあるもので何ができるか、そのできることの最良のことをする。美しいことばだと思う。



 反句は、

百物語一話枕に髪梳いて

 「四谷怪談」を踏まえた句。
 夏、暑い(今年は特に猛烈だ)。それをしのぐための、一工夫。ここでも、高橋が触れるのは文学である。ことばである。
 そのことが、ちょっとおもしろい。





詩人の食卓―mensa poetae
高橋 睦郎
平凡社

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チャールズ・チャプリン監督「ライムライト」(★★★)

2010-08-13 01:41:53 | 午前十時の映画祭
監督 チャールズ・チャプリン 出演 チャールズ・チャプリン、クレア・ブルーム

 私はこの映画はあまり好きではない。ことばが多すぎる。また、長すぎる。
 いちばん好きなシーンは、ノミのサーカスのシーンである。実際のサーカスでやってうけるかどうかはわからないが、映画では楽しい。ノミを追うチャプリンの目の演技がはっきりわかるからだ。私だけの印象かもしれないけれど、私には、チャプリンの目は、ノミを見ていない。もともといないのだから見えるはずはないのだが、それでも見えていると思い演技をするのが、ふつうの俳優の演技だと思う。チャプリンは、そうではない。最初から目を見せるために演技をしている。ノミを見せるための演技ではなく、目を見せるためにノミの存在を利用している。他の動きもそうである。ノミがいるから、そんなふうに動くのではない。チャプリンが演じている動きそのものを見せるために、架空のノミがひっぱりだされている。そんなふうに見える。
 「役」を見せたいのではない。チャプリンという「肉体」を見せたいのだ。こういう姿勢は、私は嫌いではない。役者らしくていいなあ、芸人らしくていいなあ、と思う。「役」そのものは、「役」でしかない。
 ラストシーンも、わりと気に入っている。チャプリンが死ぬ。舞台の上では、クレア・ブルームが踊りつづけている。チャプリンが死ぬ(死んだ)ということを、クレア・ブルームは知っている。知っているけれど踊ることをやめない。その芸人魂、芸人根性のようなものが、なんだか気持ちがいい。チャプリンが芸人に伝えたいのは、そういうことだろうと思う。何があっても動いてしまう「肉体」、「肉体」を見せつづけるという姿勢。「肉体」を見せたい、というのが役者の(芸人の)欲望である。その欲望を貫くこと--それが美しい。観客が見ている「肉体」を演じつづけるのではなく、自分の「肉体」をさらしつづけるのだ。
 観客というのは単純である。クレア・ブルームが踊るのをやめ、死んでいくチャプリンに駆け寄るのを見れば、その瞬間に、クレア・ブルームの演じている「役」など忘れ、現実に起きている「物語」の方へ一気にのめりこむ。架空の芝居よりも現実の方がはるかに好奇心を刺激するからである。そのとき、観客は役者の「肉体」など見ない。そこで実際に起きている「こと」を見てしまう。役者の「肉体」は消えてしまうのだ。
 これでは役者の意味(存在価値)がなくなる。
 だから、クレア・ブルームは、死んでゆくチャプリンに駆け寄りなどはしないのである。そんなことをしないのが役者(芸人、パフォーマー)であることを学んだからだ。
 別な視点から言いなおそう。
 チャプリンがドラムの上に落ちて動けなくなる。そのままでは死ぬだけだとわかっていても、舞台に出て何か言う。それは芸人として観客に対して責任を持つという見方もあると思うが(そういう見方の方が多いと思うが)、私はそうではなく、芸人というのは死につつある(動けない)という「肉体」さえ、見せたいのだと思う。
 こういう「本能」のようなものが噴出する瞬間が、私は好きである。こういう「本能」が噴出する瞬間というのは「本物」という感じがする。この「本能」は私のもっている「本能」とは無縁である。私などは、痛いときは痛いと騒ぎまくる本能しかもっていない。だからこそ、私を超越する「本能」を生きているひとを見ると引きつけられる。好きになる。すごいものだと思う。
 考えてみれば、役者というのは変な存在である。それはチャプリンも実感していたのだと思う。だからこそ、映画のなかに、とても強いことばが出てくる。「血は嫌いだが、血は私の肉体のなかを流れている」。それが生きている、ということなのだ。
 あ、なんだか、映画の感想という感じがしないね。書きながら、そう思う。こういう感想しか書けないのは、この映画が心底好きではない、という証拠である。などと、もってまわった言い方になったが、実際、私はこの映画がなぜ「名作」といわれるのかさっぱりわからないのだ。「キッド」の方がはるかにおもしろいのに……。でも「キッド」は「午前十時の映画祭」のなかには入っていない。



 少し補足(?)すると……。
 この映画でのチャプリンの目はなんだかすごい。私は「人間」を感じない。「役者」を感じる。入っていけない。多くの人間がもっている「感情の交流」というか、やわらかみ、弱みをもっていない。完璧に「自立」している。
 「こころの一部」というより「肉体の一部」。
 チャプリンは「こころ」を見せるのではなく、「肉体」を見せる。それは「目」においても同じ。その強靱さが、私は怖いのである。

                         (「午前十時の映画祭」27本目)


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江代充「語調のために」

2010-08-13 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
江代充「語調のために」(「現代詩手帖」2010年08月号)

 江代充「語調のために」は4篇の詩から構成されている。4篇の構成によって何かを語ろうとしているのかもしれないが、私の関心はそこにはない。江代のことばには、独特のリズムがある。それだけが私の関心である。
 4篇の冒頭は「生」という作品。

山かげの石垣が雨に吹かれたように湿り
また灰色になり
そこに生え拡がる苔のような草の姉妹が
石に正しく取り付いてこちらにも濃く見渡せるのは
眠らないこの地を通して朝がくること
わずかな苦しみのわざを通し
ここでは街中よりも早く日の暮れることを
ともないをもとめて行く人に知らせるためだろうか

 この詩の「主語」はどれだろうか。何だろうか。「こちら(私の方?)」が形式主語であり、意味上の主語は「苔のような草(略)が/(略)見渡せるのは」だろうか。そして述語は「知らせるためだろうか」になるのだろうか。「草が見渡せるのは……知らせるためである」という構文のなかに、この詩はおさまるのだろうか。
 しかし、そんなふうに仮定すると、とても奇妙なことが起きる。
 「知らせる」対象は「ともない(同伴者?)をもとめていく人に」ということになるが、「何を」知らせるのかがよくわからない。「……」に相当する部分が、よくわからない。矛盾した2行になってしまう。「朝がくること(を)」「早く日が暮れることを」。どちらを知らせたいのか、朝についてなのか、日暮れについてなのか、読みながら悩んでしまう。
 この矛盾を解決(?)する方法、視点はひとつある。「どちらか」ではなく「両方」なのだ。「朝がくること(を)」知らせ、また「日が暮れることを」知らせる。
 「両方」ということばはここには書かれていないが、たぶん、江代のキーワードは「両方」なのである。「両方」を江代のつかっていることばで言いなおせば「また」になるのだが……。2行目の「また灰色になり」の「また」。
 併存。並列。これは、そんなふうにも言い換えることができる。

山かげの石垣が雨に吹かれたように湿り
また灰色になり

 石垣が「湿り」、また「灰色にな」る。「湿る」と「灰色になる」は、同列ではない。別な別な現象である。その別個な現象を「また」ということばで繋ぎ、併存させる。並列させる。そうすることで、「湿る」と「灰色になる」の「両方」を、あたかも同列にみせかける。
 別個のものが境界をなくし、流動する。
 天沢退二郎が江代の作品を高く評価しているのをどこかで読んだ記憶があるが、天沢にとって江代が天才に見えるとしたら、この別個のものが(ほんらい交じり合わないものが)、流動するという現象が、天沢の果てない夢、言語の夢だからである。
 「別個」のものが境界をなくし、流動するという現象は、3行目、

そこに生え拡がる苔のような草の姉妹が

 で、強烈にあらわれる。
 「苔のような草」なら、ふつうの表現である。でも「草の姉妹」とは? 「姉妹」とは人間をさす。草に姉妹などない。ぜったいにまじりあわないものが、ここでは平然といっしょになって動いている。流動している。
 先行する行との関係を見ると、江代が何を書きたいのか、さっぱりわからなくなる。
 「石垣」が「湿る」様子を書きたいのか、「灰色」になった様子を書きたいのか、そこに生えている「苔のような草」を書きたいのか、その草が「姉妹」であるということを書きたいのか。
 「両方」ではなく、「すべて」なのだ。「また」でつなぎつづける「すべて」を書きたいのだ。「両方」というのは「また」でつないだときの最少単位であり、そこを出発点にして、江代は「また」「また」「また」と世界を拡大していくのだ。「また」を省略しながら。
 この運動は、ある意味では「ひとり連歌」である。1行目を「また」ということばで新たに展開する。次の行も「また」でつなぐ。ただし、この「また」は省略する。省略しているが、1行目は「また」このように押し広げることができる。そして2行目は「また」次のようにも展開できる。3行目も「また」……。
 そのとき問題となるのは、常に直前の行だけである。(あるときは1行のなかでも同じようなことが起き、直前のことばだけが問題となる。)2行前のことばは捨てられれる。2行前のことばをすてさりながら、「また」ということばで、「直前の行」と「いまここにある行」の「両方」をしっかりと結びつける。
 2行前のことば(1行目のことば)を捨て去るためには、3行目のことばは、2行前のことば(1行目のことば)とは異質でなければならない。「苔のような草」では、石垣、湿りと着きすぎる。だから「姉妹」が必要だったのだ。
 「草の姉妹」はしかし、「草」ではありえない。もう「姉妹」である。「見渡せる」(見わたしている)のは草ではなく「姉妹」という「両方」である。「ひとり」と「ひと」である。
 ここまで「流動」してしまうと、あとは、もうただ「土石流」のように、何もかもが自己存在の輪郭をかかえたまま、世界をえぐるようにして流れる。見たことのない地肌がそこに出現する。
 書かれていない「また」を挟んで、先行する行と次の行が向き合っている。
 江代のことばは、何行もつづけて読むのではなく、常に2行単位で、とぎれとぎれに読むしかないのである。

 「また」は、「間/他」かもしれない。
 1行目と2行目の「間」。それをぴったりと埋めるのではなく「他」として存在させる。そこには、1行目がもっている世界とは違うもの、他のものが割り込み、「間」を「間」として存在させる。それは「魔/多」となって世界を被っていくかもしれない。
 あ、こんなふうに書いていくと、なんだか、そのまま天沢退二郎の詩について書いているような気持ちになってくる。



隅角 ものかくひと
江代 充
思潮社

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