詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高橋睦郎『百枕』(15)

2010-08-15 12:29:09 | 高橋睦郎『百枕』
高橋睦郎『百枕』(15)(書肆山田りぶるどるしおる、2010年07月10日発行)

 「枕詞--九月」。「枕」がだんだんほんものの「枕」から「意味」としての「枕」にかわってきた。「もの」から「ことば」にかわってきた。
 エッセイで高橋は、「枕詞」を

詞(ことば)の枕で土地の神霊と共寝(きょうしん)して、詩(ポエジー)の夢天に遊ぶ

と定義している。「共寝」を「ともね」ではなく「きょうしん」と読ませている。あ、寝てしまわないんだ、同じ振動(バイブレーション)で(共振することで)、高まっていくんだ、遊ぶんだ--と、おもしろく感じた。そうだねえ、「共寝」って「寝る」ことが目的じゃないんだから……。
 ことばはおもしろいもんだなあ、と思った。

 句は、いつものことだが最初の句がおもしろい。

あしひきの長ガ夜を寝(い)ねず胸ナ枕

 「胸枕」は腹這いになって、そのままでは鼻・口が塞がって息ができないので、胸の下に枕をおいている状態をいうのだろう。長い夜、寝つかれずに体のむきをあれこれ変えてみる、そうしてますます眠れなくなる--その長い時間が、「胸枕」という具体的なことばではっきりしてくる。
 「胸枕」という「枕」はないかもしれないが、いまなら、「抱き枕」がある。やはり寝つかれないときにつかうんだけれど、そういうものも句に登場するとおもしろいかな、とも思った。
 というのは。

たまくしげ箱枕にはりんの玉

 という句があって、その「りんの玉」を高橋は次のように説明している。

「りんの玉」は閨房具で鳩の卵大の二玉から成り、中実の一玉で中空の一玉を突けば、りんりんと美音を発する、という。

 あ、よくわからない。どうやってつかうの? 高橋はつかったことがあるの? 末尾の「という」という伝聞形式の表現が気になる。
 「共寝」が「寝る」ことを指さないように、「枕」はどうしても「閨房」とつながる。「枕詞」という「ことば(文学)」に視点を誘っておいて、その実、こっそりセックスをしのばせる。その感じが、すけべこころを刺激する。好奇心を刺激する。そして、好奇心が働くからこそ、ことばを読む気になるんだなあ、とも思った。
 


 反句は、折口信夫に捧げた一句。

歌つひに枕序詞落葉焚

 それに先立って、

歌の生命の中心はむしろ序詞や枕詞の虚にあって、それらに飾られている実のぶぶんにあるのではない、

 と高橋は書いている。
 この実より虚という、ことばにかける思い--それは「枕詞」だけではなく、あらゆる表現に共通するものかもしれない。ことばがことばと出合う--そのとき、「共寝」するものがある。
 「共寝」が詩なのだ。

百人一首
高橋 睦郎
ピエ・ブックス

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高岡修『幻語空間』

2010-08-15 00:00:00 | 詩集
高岡修『幻語空間』(思潮社、2010年07月25日発行)

 高岡修という詩人は私には謎のひとつである。ことばに抵抗感がない。ことばに触れて、いやだなあと思いながらもひかれてしまうという瞬間がない。このことばについていけば、きっと自分が自分でなくなる--そう思う瞬間がない。逆に、このことばを叩き壊してしまいたい。叩き壊すことで、私自身も壊れてしまうかもしれないが、どうなってもいいから叩き壊すのだ、叩き壊さなければならない--と、思うことがない。
 別な言い方をすると、ことばから「いま」を感じることがない。常に「過去」を感じる。しかもその「過去」は、いま、ここにあらわれてきたら、「いま」がメチャメチャになってしまうという「秘密」(隠し事)ではなく、きちんと整理され、教科書に記録されているという「過去」なのだ。
 あ、そうなのだ。いま、「教科書」ということばを書いて、ふいに気がついたが、高岡修の詩は「教科書」なのである。それが謎なのだ。なぜ、ことばが、こんなふうに「詩」の「教科書」になってしまうのか--それがわからない。
 高岡修という詩人を知ったのはいつのことだったか。30年前か。25年前か。柴田基典が鹿児島に高岡修という詩人がいると教えてくれた。何篇か紹介してくれた。それを読んだとき、わからないことが何一つ書かれていないということに驚いた。そのときの印象がまざまざとよみがえった。
 わからないことが何一つ書かれていない--というのは、「教科書」の目的からすると変かもしれない。「教科書」は知らないことをわかるようにするための「手引き」だからである。けれど、その「教科書」が読んでわからないものだったら「教科書」にならない。わかっていることだけを教えるのが学校であり、そのわかっていることだけを書いてあるのが「教科書」である。
 高岡修の詩は、ほんとうに「教科書」である。たとえば、「鮃」。

為すべきことはついにやってこない
彼は見る
手だけが
吊り皮にぶら下がっている
今日の
郷愁

 何もすることがない。何をしていいかわからない。そういうとき、ひとは何をすることができるか。石川啄木は「働けど働けど……」とことばをつないで、じっと「手を見る」と書いたが、そんなふうに「教科書」には、ひとは無為に時間をやりすごすとき、「手を見る」のだと書いてある。その「教科書」にしたがって、高岡の「彼」もまた手を見る。もちろん啄木ではないから、その手は掌ではない。「彼」の手は吊り革をつかんでいる。ただし、そこには積極的な意味はない。啄木のように「じっと」手を見るというような意識の凝縮はない。手は吊り革をつかんでいるのではなく、「ぶら下がっている」。為すべきことなどない、つかむという積極的な反応はそこには起きない。無為のまま、「ぶら下がっている」。それが、「今日」という日の、一日のしめくくり。「今日」という一日はまだ終わっていないが、そうやって「彼」は「今日」を閉じる。そして、それを「過去」として眺める。そのときの、こころの悲しみ。「郷愁」。
 「今日」と「郷愁」が韻を踏むことを含め、ここに書かれているのは「教科書」の詩の書き方どおりのことばである。
 絶対に「教科書」を逸脱しない。正確に、どこまでもどこまでも、まるで「教科書」の複製をつくりつづけるかのように、ことばは正確に動く。
 詩のつづき。

縊死体の記憶が
波のように打ち返している
きのうの


 吊り革に「ぶら下がる」手は、「彼」自身である。きのうもまた、同じように、なすこともなく一日の終わりに吊り革にぶら下がりながら帰宅したのだ。その「手」はまるで、吊り革で首をつっている「人間」である。
 吊り革-ぶら下がる(手)、首吊りの輪の形、吊るされた輪、そこにぶら下がる死んだ「人間」の象徴としての「手」。「縊死体」ということばは「教科書」のことばの運動を完全に正確に伝えている。
 「波のように」という「比喩」がここに登場するのは、この詩が「鮃」だからである。引用する際省略したが、1連目は「都市という名の/混濁した海/その底の泥のなかにも/一匹の鮃はいる」とはじまっている。「波」という比喩をここでもちだすことで、首を吊った死体と「鮃」、「海」は重なり合うのである。
 それと同じように、「今日」が「きのう」と重なり合うのである。「今日」は「きのう」と同じ、やはり「彼」にとっては無為の一日、そのなかでこころだけがたどりつけない過去とをもとめて「郷愁」を生きている。
 完璧過ぎる語法としての詩、「教科書」どおりの詩。

 高岡の個性は、完璧な「教科書」という個性である。--そうわかっても、私には、以前として高岡修は謎である。
 「教科書」とは違ったことをしたいとは思わないのだろうか。
 奇妙な言い方になるが、こどもは「してはいけません」と言われると、それをしないではいられない。「うんこ」「ちんぽ」「きんたま」というような汚いことばはつかってはいけません、と言われるからこそつかいたい。いじめてはいけません、といわれるからこそ、いじめたい。カエルとか小鳥とか、小さないのちを遊びのために殺してはいけません、と言われるからこそ石をぶつけて殺してみたくなる。そして、そういうことをしてしまったあとで、やっと何かに気がつく。気がつくためには暴走しなければならないのだ。
 詩は、乱暴なこどもではない--のかもしれない。
 けれど、私は、乱暴なこどもとしてのことばに出会いたい。どんなふうにして「教科書」から逸脱していけるのか、その結果、ことばはどんな自由を手に入れることができるか--そういうことを知りたくて詩を読んでいる。


幻語空間
高岡 修
思潮社

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