詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高橋睦郎『百枕』(9)

2010-08-09 00:00:00 | 高橋睦郎『百枕』
高橋睦郎『百枕』(9)(書肆山田りぶるどるしおる、2010年07月10日発行)

 「涅槃枕--三月」。ここに書かれている句は、私には、とっつきにくい句である。私は「涅槃」とか「釈迦」というものについて考えたことがない。だから、ことばが追い付いていかない。ことばが動いてくれない。知らないことしか書かれていないから、わからない。

 一方、エッセイの方にはとても刺激的なことばがあった。

 仏伝によれば、釈迦は布施物の豚肉を食べて下痢が止まらず、ついに死に至った、という。鎌倉暑気の清僧明恵(みょうえ)上人などは、涅槃会の一日じゅう、釈迦の苦痛を思って涙が止まらなかった、と伝えられるが、当今の仏教者にこの宗祖への体感敬慕の残っているものがはたして幾人あるだろうか。体感が喪われた時、宗教は肉体を失い形骸化するほかないのではあるまいか。

 読みながら、私は、ことばについて思ったのだ。高橋は、「日本語」の「体感」を生々しく持っている。いままで取り上げてきた例でいえば、たとえば

よき夢をたのみ縫ひつぎ初枕

 の「たのみ」。そのなかにあるいくつものことばとの連絡回路。「期待」「祈り」。その回路を、「肉体」のなかの筋肉、骨、神経のように、なまなましく持っている。高橋は、高橋のことばが、「いま」「ここ」ではなく、遠いどこかでつかわれたことばの「肉体」と感応し合いながら動いているのを感じ、そしてそれが動くたびに奥深い連絡回路をよりなまなましく感じ取ることができるひとなのだ。
 古典を読む--そうすると、高橋のことばの肉体のなかに、古典の、万葉集のことばの感覚が「肉体」としてよみがえってくる。そういう詩人なのだ。
 万葉のことを書いたのは、そのエッセイのなかで高橋は柿本人麿について触れているからである。

日本の詩歌に関わるものには、仏祖ならぬ歌祖、柿本人麿の死についてなら、いささか快感も可能かもしれない。

 これは、高橋は、「柿本人麿の死については体感できる」と、控えめに言っているのである。高橋は人麿の「肉体」を感じ、そのことばには「ことばの肉体」を感じている、高橋はその「ことばの肉体」を引き継いでいる、という意味でもある。
 反句。

石枕われもしてみん人丸忌

 人麿は石見(島根県)で死んだ。石を枕に死んだ。人麿は

鴨山(かもやま)の磐根(いはね)し枕(ま)ける吾をかも知らにと妹が待ちつつあらむ

と歌った。その歌から「石枕」ということばを引き継いだとき、高橋は、人麿の、ことばではなく、「肉体」そのものも引き継いでいる。
 「ことばの肉体」はほんとうの「肉体」にもなる。「体感」になる。

 ことばの連絡回路は、人間の「肉体の回路」(骨、神経、筋肉)そのものなのだ。




百人一首―恋する宮廷 (中公新書)
高橋 睦郎
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