高橋睦郎『百枕』(3)(書肆山田りぶるどるしおる、2010年07月10日発行)
「邯鄲枕--九月」。
九月--もう籠枕の季節ではなくなってしまった。籠枕は素材は竹である。だから1句目のような句が生まれる。
2句目の「名残」が、なんというのだろう、「矛盾」を感じさせておもしろい。秋、涼しくなりもう「籠枕」は必要ではない。その必要でもないものに「名残」を感じ、まだそれをつかって昼寝をする。そのとき、ほんとうに「名残」があるのは、枕かな? それとも昼寝かな? あるいは、昼寝のひと眠りのあいだに見た夢かな?
ひとときの眠り、そしてその夢--となれば、どうしても「邯鄲の夢」。
あ、でも、高橋は「邯鄲の夢」はさらりと駆け抜ける。「籠枕」が竹のまわりだけでできていて中は空洞なのに対して、秋の枕(ふつうの枕?)は中は空洞ではない。「籠」ではなく「陶器」(陶枕)というものも、そういえばあるなあ。陶枕も中は空洞。
そういう枕を変遷して、
「枕腸タ」は「まくら・わた」かな? 枕の内部につめるもの。内部にものがつまった枕をつかう季節。そのとき、「夢」も新しくなる。暑苦しい夏の夢から涼しい秋の夢へとかわる。
この変化が、私はとても好きである。
でも、この変化にこそ、実は「邯鄲の夢」についての思いが書かれているのかもしれない。
「粟籾」をつかうというのは、私は不勉強で知らないが、
という句もあるので、粟籾もきっと枕の詰め物につかうのかもしれない。そういう「詰め物」は、また、一種の「空洞」である。カラッポである。
「枕」のなかに「夢」があり、それが「頭(かしら)」と入れ代わる。そのとき「頭」はすがはいったようなすかすか。虚しい状態。
不思議なことに、そんなことを考えていると、「邯鄲の夢」というか、人間の考えの実体のなさに比べて、「枕」はすごいなあ、と思えてくる。「実体」がある。
一方に、ただ移り変わる「人間」があり、他方にいつまでも変わらぬ「枕」の「実体」というものが存在する。枕には「籠枕」「長枕」などいろいろあるけれど、「枕」である。「もの」である。そういうものに比べると「人間」、その「夢」というのは、「邯鄲野夢」であろうとなかろうと、あまり差がないような木かしてくる。
あ、これは高橋の俳句に対する感想になるのかなあ。
私の書いているのは、感想ではないし、批評でももちろんない。私は、高橋のことばに触れて、そのとき思いついたことばを動かしているだけである。「日記」である。高橋の句を「誤読」して、高橋から遠く遠く離れていく--そのために、私はたぶん書いている。近づくではなく、遠ざかるために。
*
美女や美童も露のように消えてしまう。それは「夢」にすぎない。「仇夢」ではなく、「仇枕」か……。「枕」だけが実体だと私は思ったが、その枕さえ、高橋は「仇」なものであるという。
では、「仇」ではないものは?
高橋は、ことば、というかもしれない。日本語というかもしれない。
高橋はこの本で「枕」ということばを集めているが、枕がこんなにたくさんあるとは私は知らなかった。
ことばがあれば、そこにはことばを書いた(言った)ものの何かがある。高橋は、それが「実体」だと言うのかもしれない。
本を読みはじめたばかりだが、私はそんなことを考えた。

「邯鄲枕--九月」。
別れんか竹の枕や竹夫人
籠枕名残とけふも一ト昼寝
老びとに邯鄲の夢足枕
九月--もう籠枕の季節ではなくなってしまった。籠枕は素材は竹である。だから1句目のような句が生まれる。
2句目の「名残」が、なんというのだろう、「矛盾」を感じさせておもしろい。秋、涼しくなりもう「籠枕」は必要ではない。その必要でもないものに「名残」を感じ、まだそれをつかって昼寝をする。そのとき、ほんとうに「名残」があるのは、枕かな? それとも昼寝かな? あるいは、昼寝のひと眠りのあいだに見た夢かな?
ひとときの眠り、そしてその夢--となれば、どうしても「邯鄲の夢」。
あ、でも、高橋は「邯鄲の夢」はさらりと駆け抜ける。「籠枕」が竹のまわりだけでできていて中は空洞なのに対して、秋の枕(ふつうの枕?)は中は空洞ではない。「籠」ではなく「陶器」(陶枕)というものも、そういえばあるなあ。陶枕も中は空洞。
そういう枕を変遷して、
いつのまの秋の枕や昼寝覚
枕腸タ更へし夢こそ涼新た
「枕腸タ」は「まくら・わた」かな? 枕の内部につめるもの。内部にものがつまった枕をつかう季節。そのとき、「夢」も新しくなる。暑苦しい夏の夢から涼しい秋の夢へとかわる。
この変化が、私はとても好きである。
でも、この変化にこそ、実は「邯鄲の夢」についての思いが書かれているのかもしれない。
「粟籾」をつかうというのは、私は不勉強で知らないが、
粟粥は煮よや枕は備へよや
という句もあるので、粟籾もきっと枕の詰め物につかうのかもしれない。そういう「詰め物」は、また、一種の「空洞」である。カラッポである。
「枕」のなかに「夢」があり、それが「頭(かしら)」と入れ代わる。そのとき「頭」はすがはいったようなすかすか。虚しい状態。
不思議なことに、そんなことを考えていると、「邯鄲の夢」というか、人間の考えの実体のなさに比べて、「枕」はすごいなあ、と思えてくる。「実体」がある。
一方に、ただ移り変わる「人間」があり、他方にいつまでも変わらぬ「枕」の「実体」というものが存在する。枕には「籠枕」「長枕」などいろいろあるけれど、「枕」である。「もの」である。そういうものに比べると「人間」、その「夢」というのは、「邯鄲野夢」であろうとなかろうと、あまり差がないような木かしてくる。
あ、これは高橋の俳句に対する感想になるのかなあ。
私の書いているのは、感想ではないし、批評でももちろんない。私は、高橋のことばに触れて、そのとき思いついたことばを動かしているだけである。「日記」である。高橋の句を「誤読」して、高橋から遠く遠く離れていく--そのために、私はたぶん書いている。近づくではなく、遠ざかるために。
*
美女(びんでう)も美童も露や仇枕
美女や美童も露のように消えてしまう。それは「夢」にすぎない。「仇夢」ではなく、「仇枕」か……。「枕」だけが実体だと私は思ったが、その枕さえ、高橋は「仇」なものであるという。
では、「仇」ではないものは?
高橋は、ことば、というかもしれない。日本語というかもしれない。
高橋はこの本で「枕」ということばを集めているが、枕がこんなにたくさんあるとは私は知らなかった。
ことばがあれば、そこにはことばを書いた(言った)ものの何かがある。高橋は、それが「実体」だと言うのかもしれない。
本を読みはじめたばかりだが、私はそんなことを考えた。

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