高貝弘也『露光』(2)(書肆山田りぶるどるしおる72、2010年07月30日発行)
高貝のことばの「出典」を私は特定できない。特定する気持ちもない。
けれど、その「出典」とは別に、高貝は高貝自身で、高貝のことばを「引用」しているのを感じる。「引用」しながらことばを動かしているのを感じる。
高貝の詩に(1)(2)(3)はないのだが、以下、私の思っていることを書くために便宜上つけてみた。
(1)の「露光」の「露」は、(2)の「露端」の「露」に引用される。そして「露端」は、(3)の「道端(路端?)」となって引用される。それは、ことばの「残響」のようなものである。
高貝は、ことばはことばを引用しあって動くもの、と感じているのかもしれない。
たとえば。
露端。これ、何?--これはわからないのだけれど、「露光」の「露」がここに引用されているので、なんとなく露の端っこ?というような気持ちになる。「露」ははかないもの--という意識がどこからともなくよみがえってくる。その端っこならもっとはかない。そのはかないもののなかにある「残響」。いつまでも残っているもの。
それは、たとえば(やみがたい 人間の性)。そして、やみがたいなにかに突き動かされて、(わたしは?)あなたに声をかけている。(わたしは?)と括弧のなかにはいって、なおかつ疑問形なのは、それは「わたし」という特定された個人ではなく、「人間」をつらぬいているもの--「性」そのものだからでもある。
性は生なのだけれど、性のなかには死もある。死んでこそ性である。そこに「逝(せい)」がしのびこんでくる余地がある。性と生と逝は、遠い残響のように響きあう。いや、残響というより、発端の、始まり以前の音かもしれないけれど。
「性」は(3)の部分では、「子を孕んでいる」ということばにつながっていく。「孕む」ということばのなかに「引用」される。そして、その「子」を修飾する「疚しい」ということばには、(1)の「庇」が引用されている。文字の(漢字の)形で。正確に、ではないが、文字の構造が似ていて、読み方をかえれば「庇(ひさし)」と「久しい」がついたり離れたりする。
一方で(1)の「庇う」と(3)の「疚しい」は、「疚しい」何かを「庇う」のだという別な「意味」も生み出してくる。
高貝のことばは「音楽」として響きあうだけではなく、「絵画(?)」というか、視覚的にも影響し合うのである。
そして、そのなんとも説明しにくい一瞬の錯覚のようなことばの連携、交流のなかに、私は、詩を感じる。
詩とは、ことばがことばでなくなる瞬間のことだと私は思っている。
言い方を変えると……。
たとえば、「庇う」と「疚しい」が文字の形から響きあい「ひさし」「久しい」という音となって響きあうとき、「庇う」ということばは「庇う」という意味を剥奪される。もう「庇う」ということばではなくなる。また、「疚しい」ものを「久しく」「庇う」というふうにことばを動かすと、そのときあらわれてくるのは「庇う」や「疚しい」が単独で持っていた「意味」、本来の「ことば」の姿とは違ってくる。
違ってくるのだけれど、その違ってくる瞬間に、はっと思う。何かが見えたように感じる。その何か、まだ存在していない何か、まだ存在していないのに、すでに存在していたかもしれないと感じさせる何か--それを、私は詩と感じている。
どのページを開いてもいい。そこにはことばが本来のことば(というか辞書にあるようなことば)から遊離して、別なことばと交流し、互いの「意味」を破壊しながら、いままでなかったことばとして生まれてくる瞬間がある。ことばが生まれる前の瞬間を感じさせるためにことばが動く瞬間がある。
「はらりと剥いでいる」の「は」の音の響きあいの美しさ。「はらりと・剥ぐ」などという組み合わせは日常にはめったにない。「べりっと剥ぐ」「めりめりと剥ぐ」。「剥ぐ」には何かそういう力のようなものが含まれているが、高貝が「はらりと」という副詞をつかった瞬間から「剥ぐ」の「意味」が破壊される。「はらり」も何か不思議な強さをもつ。「はらりと散る」というような使い方以外にあるのだ。
「文鳥よ。あやとりよ」は
という次のページのなかで漢字とひらがなに分解され、交流することで、糸のあいだを行き交う指がかよわい指が「鳥」のように舞っているようにも見えてくる。あるいは、籠の鳥が、糸でつくられた籠にとじこめられ、きずつく幼い指のようにも。あるいは、じれったがる淫らな指のようにも。そして「散々な」のなかには「はらりと・散る」の「散る、散る」がはばたいていて、なんだか小さないのちを殺す愉悦のようなものさえただよってくるのだ。
繊細な感覚を書きながら、どこへ異様に逸脱していく不思議な力が、突然、詩としてあらわれてくるのだ。--そんなことを(小さないのちを殺す愉悦なんて)書いてはいけない、読みとってはいけない、「誤読」してはいけないという意識とともに。

高貝のことばの「出典」を私は特定できない。特定する気持ちもない。
けれど、その「出典」とは別に、高貝は高貝自身で、高貝のことばを「引用」しているのを感じる。「引用」しながらことばを動かしているのを感じる。
(1)
露光のさきを、あなたが必死に庇(かば)いつづけている。
この世の濡れ縁---- その下で蹲(うずくま)るものを。真っ先に
蔑(ないがし)ろにされていたものを
(2)
露端に木霊する、遠い残響が
(やみがたい 人間の性)
逝(ゆ)き迷う あなたに、
声をかけている
(3)
棄(す)てられていた、道端の ごま鯖(さば)。
また疚(やま)しい子を孕(はら)んでいる 訝(いぶか)しそうに、
こちらをうかがっている
……ものを殺す、道草で
生を惑う。もう救われなくて
高貝の詩に(1)(2)(3)はないのだが、以下、私の思っていることを書くために便宜上つけてみた。
(1)の「露光」の「露」は、(2)の「露端」の「露」に引用される。そして「露端」は、(3)の「道端(路端?)」となって引用される。それは、ことばの「残響」のようなものである。
高貝は、ことばはことばを引用しあって動くもの、と感じているのかもしれない。
たとえば。
露端。これ、何?--これはわからないのだけれど、「露光」の「露」がここに引用されているので、なんとなく露の端っこ?というような気持ちになる。「露」ははかないもの--という意識がどこからともなくよみがえってくる。その端っこならもっとはかない。そのはかないもののなかにある「残響」。いつまでも残っているもの。
それは、たとえば(やみがたい 人間の性)。そして、やみがたいなにかに突き動かされて、(わたしは?)あなたに声をかけている。(わたしは?)と括弧のなかにはいって、なおかつ疑問形なのは、それは「わたし」という特定された個人ではなく、「人間」をつらぬいているもの--「性」そのものだからでもある。
性は生なのだけれど、性のなかには死もある。死んでこそ性である。そこに「逝(せい)」がしのびこんでくる余地がある。性と生と逝は、遠い残響のように響きあう。いや、残響というより、発端の、始まり以前の音かもしれないけれど。
「性」は(3)の部分では、「子を孕んでいる」ということばにつながっていく。「孕む」ということばのなかに「引用」される。そして、その「子」を修飾する「疚しい」ということばには、(1)の「庇」が引用されている。文字の(漢字の)形で。正確に、ではないが、文字の構造が似ていて、読み方をかえれば「庇(ひさし)」と「久しい」がついたり離れたりする。
一方で(1)の「庇う」と(3)の「疚しい」は、「疚しい」何かを「庇う」のだという別な「意味」も生み出してくる。
高貝のことばは「音楽」として響きあうだけではなく、「絵画(?)」というか、視覚的にも影響し合うのである。
そして、そのなんとも説明しにくい一瞬の錯覚のようなことばの連携、交流のなかに、私は、詩を感じる。
詩とは、ことばがことばでなくなる瞬間のことだと私は思っている。
言い方を変えると……。
たとえば、「庇う」と「疚しい」が文字の形から響きあい「ひさし」「久しい」という音となって響きあうとき、「庇う」ということばは「庇う」という意味を剥奪される。もう「庇う」ということばではなくなる。また、「疚しい」ものを「久しく」「庇う」というふうにことばを動かすと、そのときあらわれてくるのは「庇う」や「疚しい」が単独で持っていた「意味」、本来の「ことば」の姿とは違ってくる。
違ってくるのだけれど、その違ってくる瞬間に、はっと思う。何かが見えたように感じる。その何か、まだ存在していない何か、まだ存在していないのに、すでに存在していたかもしれないと感じさせる何か--それを、私は詩と感じている。
どのページを開いてもいい。そこにはことばが本来のことば(というか辞書にあるようなことば)から遊離して、別なことばと交流し、互いの「意味」を破壊しながら、いままでなかったことばとして生まれてくる瞬間がある。ことばが生まれる前の瞬間を感じさせるためにことばが動く瞬間がある。
だしぬけに、はらりと剥(は)いでいる。
籠のなかの籠からでた、恋恋たる文鳥よ。あやとりよ
「はらりと剥いでいる」の「は」の音の響きあいの美しさ。「はらりと・剥ぐ」などという組み合わせは日常にはめったにない。「べりっと剥ぐ」「めりめりと剥ぐ」。「剥ぐ」には何かそういう力のようなものが含まれているが、高貝が「はらりと」という副詞をつかった瞬間から「剥ぐ」の「意味」が破壊される。「はらり」も何か不思議な強さをもつ。「はらりと散る」というような使い方以外にあるのだ。
「文鳥よ。あやとりよ」は
掬(すく)えない、…ああどうしてもすくえない、
散々な 文(あや)とり
あやとりよ
という次のページのなかで漢字とひらがなに分解され、交流することで、糸のあいだを行き交う指がかよわい指が「鳥」のように舞っているようにも見えてくる。あるいは、籠の鳥が、糸でつくられた籠にとじこめられ、きずつく幼い指のようにも。あるいは、じれったがる淫らな指のようにも。そして「散々な」のなかには「はらりと・散る」の「散る、散る」がはばたいていて、なんだか小さないのちを殺す愉悦のようなものさえただよってくるのだ。
繊細な感覚を書きながら、どこへ異様に逸脱していく不思議な力が、突然、詩としてあらわれてくるのだ。--そんなことを(小さないのちを殺す愉悦なんて)書いてはいけない、読みとってはいけない、「誤読」してはいけないという意識とともに。
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