詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

荒川洋治「ゴンチャロフ著『平凡物語 上・下』評」

2010-08-05 12:34:23 | その他(音楽、小説etc)
荒川洋治「ゴンチャロフ著『平凡物語 上・下』評」(毎日新聞、2010年08月01日朝刊)

 文章は、たとえば「起承転結」のように書くものである、という考え方がある。「結論」がないといけないらしい。文章だけではなく、あれこれ何かを話していると、「それで、結論は?」とうながされることがある。ことばは「結論」へたどりつけないといけないらしい。
 私も長い間そんなふうに考えていたが、最近は考え方が違ってきて、「結論」はどうでもいいなあ、と思うようになった。考えられるところまで考える(ことばをうごかしていく)。それだけでいいように思うようになった。「結論」にはきっと「むり」がある。「結論」にしなければならない、という意識によってゆがめられてしまったものがある、というように考えるようになった。
 それで、というのも奇妙かもしれないが。
 他人の文章(詩)を読むときも、筆者がいいたい「結論」にはあまり関心がなくなった。どんな「結論」であれ、そこに書かれている「結論」はその人のものであって、私の現実とはどこかしら違っているから、それは私の「結論」にはなりえない--そう思うようになった。そして、「結論」とは関係ないわけではないだろうが、「結論」として書かれている部分とは違う部分に関心がでてきた。「結論」ではない部分が、とてもおもしろいと感じるようになってきた。

 で。

 荒川洋治「ゴンチャロフ著『平凡物語 上・下』評」の、途中(「起承転結」の「転」くらいの位置の部分)に、とてもこころを動かされた。

ぼくの印象にのこったのは二人。ひとりは、青年が友人と釣りをしているとき、父親らしい老人といっしょに来て、そばに立った娘だ。三日目も来る。そのあとも。あまりものをいわない彼女と機械的な視線をおくる青年。この光景は特に意味もなく、うすっぺらなのに印象的だ。ああ、このようなことはよくあるのに、ゴンチャロフの小説でしか会えないことだと、ぼくは思うのだ。

 ああ、いいなあ。いい文章だなあ、と思う。荒川洋治にしか書けない文章だと思う。どこかで体験したようなこと、体験したけれど、ことばにしようとはしなかった何気ないこと。よくあること。よくあるけれど、だれも書かなかった。つまり、ゴンチャロフの小説のなかにしかない、ことば。
 それを指摘する荒川のことばも、それにいくらか似ている。
 ゴンチャロフの小説以外にも、たぶん、ふと、これは平凡なことなのだけれど、だれも書いてこなかったことだなあ。このひとのことばに出合わなかったら、それがことばになるということすら気がつかなかったことだなあ、という部分はあると思う。
 荒川は、今回、たまたまゴンチャロフを取り上げて、そう書いているが、荒川の評価(批評)はいつでもそうしたものだと思う。
 そして、それはそのまま荒川の文章の特徴でもあると思う。
 荒川がほめているような文章は、荒川の文章に出合わないかぎり、そこに存在していることすら気がつかない。

 荒川は、書評のなかでもっとほかのことも書いていた。「結論」も書いていたはずだ。でも、私はもう思い出せない。思い出せるのは、

このようなことはよくあるのに、ゴンチャロフの小説でしか会えない

 という文だけである。それは繰り返しになるが、「このようなことはよくあるのに、荒川洋治のことばでしか会えない」と私は思うのだ。


忘れられる過去
荒川 洋治
みすず書房

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高橋睦郎『百枕』(5)

2010-08-05 00:00:00 | 高橋睦郎『百枕』
高橋睦郎『百枕』(5)(書肆山田りぶるどるしおる、2010年07月10日発行)

 「菊枕」を読んだとき、そこに濃密な「恋」を感じた。
 菊、恋、高橋睦郎とことばをならべると、どうしてもそこに「男色」を思い浮かべてしまう。久女の、虚子への恋(熱愛)も書かれてはいたのだが、久女は孤独のなかで若くして死に、他方、王に捨てられた童は若さをたもったまま永遠のいのちを獲得するという文脈で恋が語られるとき、恋に上下はないはずなのに、王と童の恋(男色)の方が強い、と主張しているように思える。死ねば終わる恋も、死ななければ終わらない。死ねなければ終わらない。
 こんな濃密な恋を書いたあと、高橋は何を書くのだろう。

 「時雨枕--十一月」の冒頭。

凩のいつか時雨やひぢ枕

片しぐれ聞くに片肘片枕

 もう恋人はいない。ひとりで自分の腕を(肘を)枕に寝ている。孤独。一気に、前の句(連作)が洗い流される。

手枕を解いて灯入るる時雨かな

 うたた寝(あるいは寝ないまでも、ぼんやりと横になっている)から起き上がり、自分で灯を入れる。このわびしさ。外が時雨なら、その気持ちはいっそう強くなる。

時雨聞く枕の高さありにけり

 この句で、私は、ほーっと声を漏らしてしまった。俳句のことは私はわからないので、見当違いのことかもしれないけれど、とてもすっきりしている。高橋の句は、どちらかというとことばが多い。それも強いことばというか、ふつうの会話ではつかわないような高尚なことばが多いし、漢字も、こんな複雑な漢字いまもあるの?と、引用にも困るものがある。ことば、文字に抵抗感(?)がありすぎて、思わず身構えてしまうのだけれど、この句ではそういうことが一切なく、すっと引きこまれ、枕と一体になって時雨を聞いている感じがした。「ありにけり」は何にも言っていないように見えるけれど、あ「ある」ということはこういうことなのか、「ありにけり」とはこんなふうにつかうのか、と感動してしまった。
 ここで「ある」と言っているは、文法的には「枕の高さ」--その「高さ」という一種、抽象的なものになるのかもしれないが、「高さ」が「抽象的」に「高さ」としてあるわけではなく、何センチという物理的(数学的?)にあるわけではなく、時雨、その音、枕、よこたわる体、耳ではなく、全身--それが、あ、時雨と聞き知ったときの一瞬のうちに、枕の高さのなかに集中し、そしてそこから静かに広がっていく--その集中し、広がっていく意識の動きそのものが「ある」ように思われる。

 *

 反句は、

恋の座の枕時雨にゆづりけり

 あ、「菊枕」はやっぱり「恋」の句だったんだね。そう意識して、それを「時雨」で転換したんだね。
 高橋のこの句集は、ひとり連歌である、という印象がさらに強くなった。




続・高橋睦郎詩集 (現代詩文庫)
高橋 睦郎
思潮社

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