河邉由紀恵『桃の湯』(2)(思潮社、2011年05月25日発行)
河邉由紀恵『桃の湯』にはとても奇妙な「形式」の詩がある。たとえば「マミーカー」。
この1連だけを見ると、句点「。」を省略しただけの(?)、「散文詩」に見える。「小鳥の舌」の「比喩」がおもしろいなあ、暗いの印象しかない。
最初は。
ところが、これが1行空きのあと、2連へつづいていくのである。
2、3連とつづけて引用したが、1連から2連への奇妙な1行空きは、その後もこんなふうにつづいていくのである。
「学校教科書文法」では、ほんらい(?)、句点「。」があるべきところに「。」がない。そして、空きの必要のないところ、文章を切断する必要のないところに、突然1行空きがある。それも、文章が一応終わって、というのではなく、単に1行18字×6行というスペースに入らなかったというだけで、次のことばの塊へはみ出し、飲み込まれていく。変な文章感覚(?)、段落感覚(?)である。
また、繰り返し繰り返し書かれている「おばあさん」という「主語」。その頻繁に出てくる感じが、なんとも変である。「おばあさん」が「主語」なのだから、たとえば1連目は、「小説」ならば、
という具合になるはずである。
どうして、そんなふうにすっきりとわかりやすいように書かない?
河邉の文章感覚って、どうなっている?
普通は、そう思う。
私は、ここから強引に「誤読」を始める。普通は句読点をつけて、読みやすく書く。そして「意味」のかたまりごとに段落を構成し、思考の動きがわかりやすいようにする。「意味」をなるべく自分の意図した通りに伝えたいからである。
ところが、河邉は、そうしない。
それは河邉の書いているものが「意味」ではないからだ。「意味」を伝えようとしてことばを書いているのではないのだ。(ひとが書いていることばに対して「意味」を伝えようとしていない、と断定してしまうのは、乱暴でしょ? 強引でしょ? 失礼でしょ? でも、私は、そう言い切ってしまうのだ。)
では、河邉は何を書いているのか。何をあらわそうとしているのか。
きのう読んだ「桃の湯」のなかに出てきたことばをつかえば「あいだ」である。「間」である。きのう読んだ作品では河邉と世界との「あいだ」に「ふわっ」「ざらっ」「ねっとり」というような感覚があらわれて、河邉と世界を「結びつけている」、「肉体」を基本にした関係をつくっているという特徴に触れた。
河邉は、その「あいだ」(間=ま)を、別の形で書いているのである。
私たちのことばは、ことばとことばが結びついて「世界」を描写する。この結びつき(関係)--結びつけ方は、実は、「厳密」ではない。なんとなく習慣的に句読点をつけている。「区切り」を「わかりやすい」ようにしながら、ことばを組み立てている。わかりやすいことばの動き、文章が「いい文章」と呼ばれていたりする。
でも、実際の人間の思いは、そこに「名文のことば」どおりには動いているとは言えない。未整理なものが、ごちゃごちゃと入り混じり、すっきりしていない。だからこそ、すっきりと整えられた文章を名文だと言うのだと思う。実際には、だれもが書けるわけではない、訓練した作家だけが書ける--だから、名文。
もし、そうであるなら。
「名文」からはみだしたもの、「悪文」のなかにしか存在しえない何かもあるのではないのか。
たとえば「あいだ」。「間=ま」。--それは、「魔(ま)」でもある。
ちゃんと目的地へ向かって歩いているようでも、「道をまちがって」ドノヴァン7の裏の桃の湯まできてしまった、というようなことがあるだろう。それが「現実」だろう。そして、その「現実」は、ゆっくり点検しないと、どこで間違えたかわからない。どの瞬間が「間違い」の始まりだったのかわからない。「現実」は「名文」のように句読点ですっきりとは整理されていない。
どこかが必要以上にべったりとくっつき、区切りがわからない。そして、その「わからない」ことを引きずったまま、気がついたら「間違っていた」。つづいているはずの「世界」が突然「切断」され、はっと目の前にあらわれる。
河邉の書いているのは、この「あいだ」(間=ま)が「魔」となってあらわれる瞬間なのである。
それは「魔」であるから、持続はしない。あれっと思っている「あいだ」に消えてしまう。
この感覚--実際に街を歩いているときなどに感じる。ふいに見えた路地、ビルのすきま、ビルの「あいだ」。その向こうに意識しなかった何かが瞬間的に見える。ひとの姿だったり、あるものだったり、あるいは空の色だったりする。それは、その路地に入らずに、そのまま大通りを歩いていけば忘れてしまうものである。けれど、何かを見た、感じたという「印象」が肉体のなかに残る。こころに残る。そこから、思いがふらっとさまよい出ることもある。
「あいだ」は「間(ま)」であり、「魔」が誘い出されるのだ。
そして、それは「名文」のように「頭」で整理された何かではなく、どこからどこまでが何かわからない「肉体」のようにつづいている、つづくことではじめて存在するものなのである。手にしろ、指にしろ、それは「肉体」から切断してしまうと、手とか、指という名前で呼ばれたところで、本人にとっては手でも指でもない。肉体は全部がつながっていて肉体である。肉体のなかにある「感覚」も同じである。どこかでつながっている。記憶もつながっている。
そこには「あいだ、間」は存在しない。存在しないけれど、それを便宜上、「あいだ」を挿入して、わかりやすくするという「魔法」が、まあ、いわばことばの仕事(名文の仕事)ということになるのかもしれない。
河邉は、そういう「名文」感覚に背を向けて、「あいだ、間」のない「魔」のなかへ入っていくのである。
4連目、5連目。
「おばあさん」が「主語」。けれど、ここにいる「おばあさん」は「おばあさん」ではなく、私には「若いおんな」にみえる。「若いおんな」の「肉体」にみえる。まあ、これは、私がスケベであるということが原因なのかもしれないけれど--「肉体」は「若い」から「年取った」まで、区切りなくつづいている(比喩的に言うと、句読点がないままつづいている)ということとも関係しているのだ。
いつ、どの瞬間、どこで「若い」から「年取った」に変わったのか、だれにもわからない。句読点を入れられないのが「肉体」である。
だから言うのだ。
河邉の句読点のない詩のことばは「肉体」そのものである。私たちは(私は、だけかもしれないが)、かってに句読点を入れて「頭」のなかでことばを整理しているが、「肉体」を基本にして動くことばに句読点の入る余地はない。それが河邉の「思想」である。
そして、句読点が入る余地はないにもかかわらず、ふいに「切断」というか「間(ま)」を感じてしまうのも「肉体」なのである。ふいに「あ、年をとってしまった」と感じる。そのときの「間」。
河邉は、まだだれも書いていないことを書いている。だから、その文の形式は誰かの書いたものや、「学校教科書」の文体とは違うのである。
河邉由紀恵『桃の湯』にはとても奇妙な「形式」の詩がある。たとえば「マミーカー」。
夕方になるとおばあさんはマミーカーを
押してだりや荘を出るがらがらがらとマ
ミーカーの音をひびかせておばあさんは
区民センターの前を通りすぎるおばあさ
んはだれとも喋らないからおばあさんの
舌はもう小鳥の舌よりも短いおばあさん
この1連だけを見ると、句点「。」を省略しただけの(?)、「散文詩」に見える。「小鳥の舌」の「比喩」がおもしろいなあ、暗いの印象しかない。
最初は。
ところが、これが1行空きのあと、2連へつづいていくのである。
は櫛でとかさないからおばあさんの髪は
もう白くてぼうぼうだおばあさんはひの
光りにあたらないからおばあさんの体は
もうさなぎのようにかわいているおばあ
さんのマミーカーは五福まんじゅう店を
すぎ揚柳の布がかかったさくら整骨院を
すぎさらに路地をまがりさらにお好み焼
きぼっうこをすぎあざみ食堂をすぎさら
に道をまちがってドノヴァン7の裏の桃
の湯まできてしまったおばあさんはマミ
ーカーをとめたおばあさんはここにくる
といつもあまいようないたいようなへん
2、3連とつづけて引用したが、1連から2連への奇妙な1行空きは、その後もこんなふうにつづいていくのである。
「学校教科書文法」では、ほんらい(?)、句点「。」があるべきところに「。」がない。そして、空きの必要のないところ、文章を切断する必要のないところに、突然1行空きがある。それも、文章が一応終わって、というのではなく、単に1行18字×6行というスペースに入らなかったというだけで、次のことばの塊へはみ出し、飲み込まれていく。変な文章感覚(?)、段落感覚(?)である。
また、繰り返し繰り返し書かれている「おばあさん」という「主語」。その頻繁に出てくる感じが、なんとも変である。「おばあさん」が「主語」なのだから、たとえば1連目は、「小説」ならば、
夕方になるとおばあさんはマミーカーを押してだりや荘を出る。がらがらがらとマミーカーの音をひびかせて区民センターの前を通りすぎる。だれとも喋らないからおばあさんの舌はもう小鳥の舌よりも短い。(おばあさん)
という具合になるはずである。
どうして、そんなふうにすっきりとわかりやすいように書かない?
河邉の文章感覚って、どうなっている?
普通は、そう思う。
私は、ここから強引に「誤読」を始める。普通は句読点をつけて、読みやすく書く。そして「意味」のかたまりごとに段落を構成し、思考の動きがわかりやすいようにする。「意味」をなるべく自分の意図した通りに伝えたいからである。
ところが、河邉は、そうしない。
それは河邉の書いているものが「意味」ではないからだ。「意味」を伝えようとしてことばを書いているのではないのだ。(ひとが書いていることばに対して「意味」を伝えようとしていない、と断定してしまうのは、乱暴でしょ? 強引でしょ? 失礼でしょ? でも、私は、そう言い切ってしまうのだ。)
では、河邉は何を書いているのか。何をあらわそうとしているのか。
きのう読んだ「桃の湯」のなかに出てきたことばをつかえば「あいだ」である。「間」である。きのう読んだ作品では河邉と世界との「あいだ」に「ふわっ」「ざらっ」「ねっとり」というような感覚があらわれて、河邉と世界を「結びつけている」、「肉体」を基本にした関係をつくっているという特徴に触れた。
河邉は、その「あいだ」(間=ま)を、別の形で書いているのである。
私たちのことばは、ことばとことばが結びついて「世界」を描写する。この結びつき(関係)--結びつけ方は、実は、「厳密」ではない。なんとなく習慣的に句読点をつけている。「区切り」を「わかりやすい」ようにしながら、ことばを組み立てている。わかりやすいことばの動き、文章が「いい文章」と呼ばれていたりする。
でも、実際の人間の思いは、そこに「名文のことば」どおりには動いているとは言えない。未整理なものが、ごちゃごちゃと入り混じり、すっきりしていない。だからこそ、すっきりと整えられた文章を名文だと言うのだと思う。実際には、だれもが書けるわけではない、訓練した作家だけが書ける--だから、名文。
もし、そうであるなら。
「名文」からはみだしたもの、「悪文」のなかにしか存在しえない何かもあるのではないのか。
たとえば「あいだ」。「間=ま」。--それは、「魔(ま)」でもある。
ちゃんと目的地へ向かって歩いているようでも、「道をまちがって」ドノヴァン7の裏の桃の湯まできてしまった、というようなことがあるだろう。それが「現実」だろう。そして、その「現実」は、ゆっくり点検しないと、どこで間違えたかわからない。どの瞬間が「間違い」の始まりだったのかわからない。「現実」は「名文」のように句読点ですっきりとは整理されていない。
どこかが必要以上にべったりとくっつき、区切りがわからない。そして、その「わからない」ことを引きずったまま、気がついたら「間違っていた」。つづいているはずの「世界」が突然「切断」され、はっと目の前にあらわれる。
河邉の書いているのは、この「あいだ」(間=ま)が「魔」となってあらわれる瞬間なのである。
それは「魔」であるから、持続はしない。あれっと思っている「あいだ」に消えてしまう。
この感覚--実際に街を歩いているときなどに感じる。ふいに見えた路地、ビルのすきま、ビルの「あいだ」。その向こうに意識しなかった何かが瞬間的に見える。ひとの姿だったり、あるものだったり、あるいは空の色だったりする。それは、その路地に入らずに、そのまま大通りを歩いていけば忘れてしまうものである。けれど、何かを見た、感じたという「印象」が肉体のなかに残る。こころに残る。そこから、思いがふらっとさまよい出ることもある。
「あいだ」は「間(ま)」であり、「魔」が誘い出されるのだ。
そして、それは「名文」のように「頭」で整理された何かではなく、どこからどこまでが何かわからない「肉体」のようにつづいている、つづくことではじめて存在するものなのである。手にしろ、指にしろ、それは「肉体」から切断してしまうと、手とか、指という名前で呼ばれたところで、本人にとっては手でも指でもない。肉体は全部がつながっていて肉体である。肉体のなかにある「感覚」も同じである。どこかでつながっている。記憶もつながっている。
そこには「あいだ、間」は存在しない。存在しないけれど、それを便宜上、「あいだ」を挿入して、わかりやすくするという「魔法」が、まあ、いわばことばの仕事(名文の仕事)ということになるのかもしれない。
河邉は、そういう「名文」感覚に背を向けて、「あいだ、間」のない「魔」のなかへ入っていくのである。
4連目、5連目。
なきもちになるおばあさんのかわいた体
は桃の湯の湯気によってねっとりとしず
かにしめってくる本当におばあさんの体
はしんのしんまでしめってくる毎日会い
つづけないとだめなのよしめったこの場
所であのひとは盃からお酒をのむように
わたしの髪をひとすじ口にふくんで遠い
目をして泣いていたわたしは泣いている
あのひとのうすい背中をさすりつづけた
ぬるいお湯のなかでわたしたちの膝は洋
梨のようにゆがんでゆらゆらゆれていた
さするひとはいつも遠いところにいると
「おばあさん」が「主語」。けれど、ここにいる「おばあさん」は「おばあさん」ではなく、私には「若いおんな」にみえる。「若いおんな」の「肉体」にみえる。まあ、これは、私がスケベであるということが原因なのかもしれないけれど--「肉体」は「若い」から「年取った」まで、区切りなくつづいている(比喩的に言うと、句読点がないままつづいている)ということとも関係しているのだ。
いつ、どの瞬間、どこで「若い」から「年取った」に変わったのか、だれにもわからない。句読点を入れられないのが「肉体」である。
だから言うのだ。
河邉の句読点のない詩のことばは「肉体」そのものである。私たちは(私は、だけかもしれないが)、かってに句読点を入れて「頭」のなかでことばを整理しているが、「肉体」を基本にして動くことばに句読点の入る余地はない。それが河邉の「思想」である。
そして、句読点が入る余地はないにもかかわらず、ふいに「切断」というか「間(ま)」を感じてしまうのも「肉体」なのである。ふいに「あ、年をとってしまった」と感じる。そのときの「間」。
河邉は、まだだれも書いていないことを書いている。だから、その文の形式は誰かの書いたものや、「学校教科書」の文体とは違うのである。
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