詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

金井雄二「樹木に」

2011-07-27 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
金井雄二「樹木に」(「独合点」107 、2011年07月17日発行)

 金井雄二「樹木に」は、「もの(対象)」を追いかけているうちに、ふっと「思い(気持ち)」が動く。その瞬間に無理がない。作為がない。だから美しい。

樹には葉があり、葉と葉の間には光があり
光はちいさくおおきく瞬いては消え消えては瞬いていて
そのおかげで緑と言う色の本当の正体がわかったような気がして

 引用したのは詩のなかほどである。
 引用部分の最初の2行は、もの(対象=樹)を描写している。樹を描写することは葉を描写することであり、葉を描写することは葉を輝かせている光を描写することである。とても自然にことばが動いている。ことばとともに樹という大きな存在から次第に葉、葉の間という具合に小さなものに視線が動いていく。そして、その視線は「瞬いては消え消えては瞬いて」という、あるか、ないかわからないものにぶつかり、そこから「思い」というか「気持ち」というか、「もの」ではないものへと飛躍する。
 「緑と言う色の本当の正体」は書かれない。それが何か、書かれない。そのかわりに「わかったような気がして」と「気」が書かれる。
 たぶん、あらゆる「正体(もの)」は金井にとっては「気」(思い)なのである。
 「そのおかげで」ということばは一見「論理的」に見えるけれど、そこには「科学的」な論理は存在しない。そこにあるのは「気」だけである。
 金井は「気」にだけ「気を配っている」のかもしれない。

蚊 虻 蜂
蛇 土竜
ちょっぴりこわかったなあ
朝露にぬれそぼった名もしらぬ花
花の名前は知らないけれど咲いている花を殺してはいけないと思った

 この「蚊……」の2行は私にはわからない。
 「緑という色の本当の正体」ということば、「瞬いては消え消えては瞬いて」ということばに引きずられて、私は一瞬、「虹」を見たのだが、「虹」のかわりに変な虫やら、虫変なのに虫ではない「蛇」、「竜」ではない「もぐら」があらわれたかと思うと、一転して、「虹」が「朝露」のなかに蘇り、それからまた美しいことばがつづくのである。
 そして、そのことばのなかに「気」に通じる「思った」がある。
 その行には、「知らぬ」ということばもある。
 「知る」と「思う」。--この二つのことばのなかで、金井は「思う」の方に肩入れ(?)している。
 「知る」ということは、金井にとってはありま重要ではない。
 それは、最初に見たように、「本当の正体がわかった」をすぐに「ような気がして」とずらしてしまうところに象徴的にあらわれている。「正体」を科学的につきとめることは金井の「本意」ではないのだ。「気」がすればいい。「思」えばいいのである。
 でも、ほんとうに、それでいいの?
 金井は開き直っている。


雑草におおわれた
草の蒸れた匂い
どうでもいいことだが
樹木の肌に触れたときいつまでもそこだけぼくは生きている

 「どうでもいいことだが」。このときの「どうでもいいこと」というのは、私のことばで言いなおせば「論理的であろうがなかろうが」ということになる。金井は「論理」ではなく、「気」で動く。
 だから、

樹木の肌に触れたときいつまでもそこだけぼくは生きている

 という1行には、ほんとうは省略されたことばがある。それを補えば、

樹木の肌に触れたときいつまでもそこだけぼくは生きている「気がする」

 になる。
 なぜ「気がする」が省略されてしまったかというと、その行に「いつでも」ということばがあるからだ。「気がする」というのは「そのおかげで緑と言う色の本当の正体がわかったような気がして」からわかるように「瞬間的」なものである。
 この1行には「瞬間的に」が省略されている。

そのおかげで緑と言う色の本当の正体がわかったような気が「瞬間的に」して

 「思う」の場合も同じ。花を殺してはいけないと「瞬間的に」思ったのである。
 この「瞬間的」を少しずつ書き留めて「いつでも」にかえたい。
 金井はそういうことを願って詩を書いているのかもしれない。


にぎる。
金井 雄二
思潮社
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フェデリコ・フェリーニ監督「道」(★★★★)

2011-07-27 13:50:29 | 午前十時の映画祭
監督 フェデリコ・フェリーニ 出演 アンソニー・クイン、ジュリエッタ・マシーナ

 好きなシーンが二つある。
 ひとつはザンパーノ(アンソニー・クイン)がジェルソミーナ(ジュリエッタ・マシーナ)を置き去りにするシーン。毛布をかけ、体が冷えないように、思わず人間らしいことをしてしまう。そして、いよいよ出発というとき、荷台のトランペットに目がとまる。この一瞬。毛布をかけたときより、もっと人間っぽい。トランペットを荷台から取り出し、ジェルソミーナの体の横にそっと置いていく。
 置き去りにして逃げるのだから、毛布をかけなくたっていい。トランペットを残していかなくたっていい--はずなのに、そういうことをしてしまう。
 いいねえ。このときのアンソニー・クイン。
 どきどきしてしまう。何度も見ているので、次に何が起きるかわかっているにもかかわらず、どきどきする。ジェルソミーナが目を覚ますんじゃないか。気がついてオートバイを追いかけながら「ザンパーノ」と声を上げて泣くんじゃないか……。
 存在しないフィルムが私のこころのなかでまわりだすのである。アンソニー・クインの、目の表情が、そういうことを期待させるのである。もしかすると、アンソニー・クインはジュリエッタ・マシーナが目を覚まし、追いかけてくるのをどこかで期待していたかもしれない。追いかけてくるのを見ながら、それを振り切って逃げてこそ、置き去りにするという残酷な行為になる--そうなってほしいと願っていたかもしれない。
 なんといえばいいのだろう。「逆説の期待」、裏切られることで安心する「期待」のようなものが、どこかにひそんでいる。
 これが最後の、大好きな大好きなシーンにつながる。
 ジェルソミーナがいつも吹いていた曲をザンパーノはふと耳にする。そして、ジェルソミーナの、それからを知る。死んでしまったことを知る。
 そのあと。
 夜の海辺をさまよい、砂浜にうっぷすザンパーノ。一瞬、空を見上げる。カメラは空をうつさないのだけれど、満天の星がきらめいている。それがわかる。アンソニー・クインの目が孤独のなかで純粋になる。トランペットを見つけ、ふと目がとまったときと似ているが、それよりももっと純粋な暗い色、暗いけれど透明な輝きになる。孤独のなかで、一瞬、ジェルソミーナとつながる。そして、ふたたび、そのつながりが消えてしまう。
 このとき、ふと、思うのである。トランペットを荷台にみつけ、それを「置き土産」にしようと思った瞬間、ザンパーノのこころはジェルソミーナとどこかでつながっていた。それを断ち切って、ザンパーノは逃げたのだ。その結果が、孤独である。そして、孤独であると気がついた瞬間、ザンパーノはジェルソミーナと深く深くつながるのだが、そのつながりが深く、また強ければ強いほど、現実の孤独はいっそう残酷にザンパーノに襲い掛かってくる。
 残酷で野卑だったアンソニー・クインが、泣きながら、砂をかきむしり、砂浜を叩く。海はアンソニー・クインの悲しみなど知らないというふうにただそこになる。波はあたりまえのように打ち寄せている。暗い闇。そして、スクリーンにうつることはないけれど、空にはきっと満天の星。そのひとつはジェルソミーナの星かもしれない。

 この映画はしばしば綱渡りの「奇人」が語る石のエピソード(「どんなものでも世の中の役に立っている。この石も」とジェルソミーナに語るシーン)とともに取り上げられるけれど、私にとっては、この映画は何よりもアンソニー・クインの映画である。
               (午前十時の映画祭青シリーズ25本目、天神東宝3)



 天神東宝の音響は相変わらずひどい。途中でかならずブォーンというような雑音が入る。大音響でごまかしている作品の場合は気づかずにすむこともあるが、「道」のような静かな映画では気になってしようがない。



道 [DVD]
クリエーター情報なし
アイ・ヴィ・シー
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レンブラント光の探求/闇の誘惑

2011-07-27 09:01:35 | その他(音楽、小説etc)

レンブラント光の探求/闇の誘惑(名古屋市美術館、2011年07月20日)

 レンブラントの版画(エッチングなど)を意識的に見たことはなかった。名古屋市美術館の催しは油絵よりも版画が多かった。版画も油絵同様、夜の闇とろうそくの光を描いたものが多いのだが、「ヤン・シックス」は昼の光を描いていておもしろい。
 男が窓辺に立って、窓を背にして、雑誌を読んでいる。逆光である。逆光だから、顔は暗くなる--はずなのだが、雑誌の照り返しが顔にあたり、完全な逆光にならずにやわらかな光をただよわせている。とても微妙である。その微妙な陰影と、無傷(?)の窓の外の光の対比がとてもおもしろい。
 フェルメールの光も繊細だが(フェルメールを見た直後なので、どうしても思い出してしまう)、この「ヤン・シックス」の光の繊細さには圧倒される。繊細な豊かさ--というような、ちょっと矛盾したことばがかってに動きだしてしまう。
 フェルメールは昼の光、レンブラントは夜のろうそくの光と私はかってに思い込んでいたが、レンブラントにも、こんなに美しい昼の光があるのだ、と驚いてしまった。
 油絵に、どんな昼の絵があっただろうか--そう思いながら会場をめぐっていると、「アトリエの画家」に出会う。全体のトーンの明るさが「昼」をあらわしているが、「昼」を決定づけるのはカンバスの角の真っ白な光である。カンバスの板の断面。それがまるで太陽の光を反射する鏡のように輝いている。真っ白な、すべてを拒絶する力が、そこにある。
 朝日新聞で大西若人がこの絵について書いていたことがある。その大西の文章に対する感想を、このブログで書いたことがある。何を書いたか忘れてしまったが、あ、大西はこの真っ白な拒絶する光を見たのだ--とそのとき思った。
 拒絶する光--と私は書いたのだが、なぜ、拒絶するということばが突然浮かんだのだろう。
 記憶のなかで、もう一度絵を見つめなおす。そうすると、その白は、太陽の光の反射ではなく、それ自体で発光しているように見えてくる。
 この強い光に対抗できるのは、セザンヌの塗り残しの空白だけである、とも思った。
 色になる前の、純粋な光、純粋な白。純粋すぎるので、それに追いつけない私が、拒絶されていると感じてしまうのかもしれない。
 そうすると……私がなじんでいるレンブラントの夜の光とは何だろう。昼の太陽の光が色になる前の純粋な透明な白だとすると、夜の光は色になってしまったものの「何か」である。
 色が、いくつもの色と出会い、その差異のなかから見つけ出す「何か」。「色」自身のなかにある燃え上がるものかもしれない。
 それが「ろうそく」の光に向かって動いているのかもしれない。ろうそくが照らしだしているのではなく、いくつもの色がまじりながら--色がまじると黒になる--まじることで生まれた黒から、もう一度生まれようとする「色の力」かもしれない。

 あ、私は何を書いているのだろう。

 実際に絵を目の前にしてことばを動かしているのではないので、どうも「自制」がきかない。ことばが暴走し、絵から、そしてレンブラントの色から離れて行ってしまう。
 絵の感想というのは、絵を見ながら、その場でことばを動かさないことには、結局のところ、奇妙なものになってしまうのかもしれない。

 目をつぶって、もう一度、あの「白」を思い出してみる。画面のほぼ中央、斜め右上から左下へ、まっすぐに伸びた輝き。--あの「白」に拮抗する夜の「白」をレンブラントは描いているだろうか。「夜警」のなかに、あの「白」に拮抗する輝きはあるだろうか。それを確かめるためにアムステルダムへ行きたい--と、急に思ってしまう。



 版画に戻る。
 レンブラントは驚いたことに和紙にも印刷している。和紙で版画をすると、インクが微妙ににじむ。全体がやわらかくなる。そうして、そのやわらかさのなかに「色」がひろがる。洋紙に印刷したときは版画の線は線なのに、和紙では線が色になる。--これはもちろん錯覚なのだが、とてもおもしろい。
 もうひとつ。
 版画というのは「面」ではなく「線」の交錯である。交錯する線が増えると、その部分が「黒」になる。これは常識的すぎて、わざわざ書くべきことではないのかもしれないが、それをわざわざ書いたのは……。レンブラントは、「面」を「色の線」の交錯と見ていたのかもしれないと、ふと、思ったからである。
 で、そうであるなら、というのは飛躍のしすぎかもしれないけれど。
 「アトリエの画家」のカンバスの白、その強い直線は、やはり「線」なのだ。どの方向の「線」とも交わることを拒絶した力なのだ。光の力なのだ。
 版画--交錯する線によって作り出される「闇」の絵のなかに「アトリエの画家」を置いて見ると、そんなことを思ってしまう。
 この絵を、版画から切り離して、たとえば「夜警」や「自画像」と並べてみたとき、また、違った感想を持つだろうと思う。
 絵はきっと、「美術館」のなか、展覧会という会場で生きている。いつも違った表情に生まれ変わる。だから何度見た絵でも、その絵を見にゆかなければならないのだとも思った。
                            (09月04日まで開催)


もっと知りたいレンブラント―生涯と作品 (アート・ビギナーズ・コレクション)
幸福 輝
東京美術
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お薦めの一品

2011-07-27 09:00:00 | その他(音楽、小説etc)
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グッドヘルス
グッドヘルス


これは、おいしい。
硬さがいい。余分な味がついていないのがいい。
オリーブオイルとポテトのシンプルな組み合わせが最高である。

スコッチや焼酎にもあうが、ワインにもあう。

手(指)に細かなポテト滓がくっつかないのもいい。
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