詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

馬場晴世「断崖」

2011-07-15 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
馬場晴世「断崖」(「something 」13、2011年06月30日発行)

 馬場晴世「断崖」はさっぱりしている。「現代詩」のことばは「暴走」しやすいのだが、馬場はそういうことばの運動には関心がないのかもしれない。

アイルランドの西の果て
モハーで
大西洋につき出た
切り立つ断崖を見た
十六キロにわたり
高さが二百メートルもある
柵がないので時には
羊やひとが落ちるという

大地が終わる処
西風が強く崖は海と戦っている
海は白い歯を立てて
岩にかみついている

落ちたら間違いなく死ぬ

その恐さをひとは見にくる
きっぱりと死に直面したいとき
怖さを内包して切り立つ一行を欲するとき
死を飛び越す一羽の海鳥になりたいとき

 馬場がなぜモハーへ来たのか、切り立つ断崖を見たいと思ったのか。その「こころ」を馬場は説明はしない。まるで他人のことのように、

落ちたら間違いなく死ぬ

その恐さをひとは見にくる
きっぱりと死に直面したいとき

 と書いている。
 ほんとうに死と直面したいと思って、その場所に来たのか、あるいはその場所に来たためにそう思ったのか--そういう「ややこしい」ことは書かないのだ。
 自然は人間に対して非情なものだが、馬場は、その非情な自然(風景)に向き合い、そこから反転するようにして自分のこころを「非情」で洗い流す。余分なものを切って捨てる。
 そうして、馬場自身が、一個の「自然」になる。
 「死を飛び越す一羽の海鳥にな」る。
 馬場は「なりたいとき」と書いているが、書くことで馬場は「海鳥」に「なる」。なってしまっているのである。
 そう気がついたとき、2連目が美しく見えて来る。最初に読んだときは、平凡な、そっけない描写、詩からは遠いありきたりのことばに見えたが、それはわざとそんなふうにことばを切り詰めているのだ。
 「死を飛び越す一羽の海鳥にな」る--それだけを浮かび上がらせる、きっぱりしたこころが各行のことばを鋭角に彫琢しているのである。
 このことばの響きは、しかし、なんとも不思議である。日本語で書かれているのだが、日本語の音がしない。湿ったモンスーンの膨らみがない。「漢文」の緊張と緩和、遠心・求心という動きとも違う。
 日本語の響きというのは「てにをは」の構文によって、精緻に、繊細に動くのだが、馬場のことばは「てにをは」を必要としていない。ただ「もの」をあるがままに並べると、その「もの」と 拮抗するために、こころが「鉱物」のように結晶化していく--そういう響き、音楽がある。




詩集 ひまわり畑にわけ入って
馬場 晴世
土曜美術社出版販売



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