松尾静明「出来事」、竹内章訓「桜花」(「折々の」23、2011年07月01日発行)
松尾静明「出来事」。
この作品を読むと、松尾は詩を「物語」と対峙させてみつめていることがわかる。「物語」の中断が松尾にとっての詩である。「物語」が中断したとき、「物語」を動いていた「時間」は両方へ開かれる。つまり、過去と、未来へ。
両方へ開かれて、しかし、その両方のどちらへも行かない。まったく別の新しい方向へ行く。
「地の底」がどういうものか、書かれることはない。まだ行っていないので、それは書くことができない。けれど、それはきっと「なつかしい」ものであることは予感として知っている。未知と懐かしい(旧知)が一瞬のうちに出会い、そのことが「過去」でも「未来」でもないものの「しるし」となる。
この詩を、しかし、ほんとうにおもしろくしているのは、1行目の「これから行く道の」の「これから」である。
「これから」の「主役(主語)」は「蝶」ではない。このことばの話者(松尾)である。「これから」には「時間」が含まれている。まだ存在しない時間。それが「これから」。その「時間」をどう生きるか。どう動くか。--そう考えるとき、そこには「物語」が生まれてくる。「これから」と書いたとき、明確にではないけれど、松尾は、「物語」を感じている。その「予感としての物語」が、傷ついた蝶によって破られる。中断する。そして、突然、蝶の「物語」が始まり、またすぐに中断する。松尾の「物語」の中断と、蝶の「物語」の中断が重なる。
すると、その中断そのものが「物語」になる。
「中断」が「物語」になってしまうのは、なぜか。
よくわからないが……松尾のことばの使い方と関係があるかもしれない。「これから行く道の傍らへ」「これから行く道の傍らのベンチへ」--このふたつのことばの「へ」。これは、私の場合「に」になるのだが、松尾は「へ」と書く。
「に」も「へ」も場所といっしょにつかわれる「助詞」だが、私の感覚では「に」の場合は、動かない。「へ」は何かが動く。「へ」の方が「方向性」が強い。その、「方向性」が「中断」に含まれるから、「中断」が「物語」になるのかもしれない。
*
竹内章訓「桜花」は「物語」が強引に作り出していく。
つぼみ、二分咲き、三分咲き、……九分咲き。そこにはまっすぐに流れる「時間」がある。そして、同時にその瞬間瞬間に、まっすぐに進む時間を突き破ってあらわれる「美」がある。時間を中断させ、噴出する美--そこに竹内は詩を見ている。このとき「物語」は一義的には「つぼみ、二分咲き、三分咲き」と動いていく「時間」の流れである。流れにともない、桜が変化する--その変化が「物語」である。
その「物語」に「わたし」が重ね合わせられる。桜(他者)が「比喩」なのか、「わたし」が「比喩」なのか。区別がなくなる。
そして、詩になる。
この詩は、そういう構造をくっきりと浮かび上がらせている。ただ、その構造を突き破る、瞬間瞬間のことばが観念的すぎて……あくまで「詩」という感じに終わってしまう。もう語られたことがらしか、ことばになっていない。たとえば「無自覚な性欲」を、もっと「肉体」をとおしたことばにしてゆかないと、「詩の書き方のお手本」に終わってしまう。

松尾静明「出来事」。
蝶が一匹 これから行く道の傍らへ落ちている
どこも傷ついているようには見えない
生きていた時のかたちに 逝くもののかたちで
かつて 蝶が物語をもっていた時のままに
色彩や縞模様を羽織って
地面の底へ向けて懐かしそうに耳を付けている
この作品を読むと、松尾は詩を「物語」と対峙させてみつめていることがわかる。「物語」の中断が松尾にとっての詩である。「物語」が中断したとき、「物語」を動いていた「時間」は両方へ開かれる。つまり、過去と、未来へ。
生きていた時のかたちに 逝くもののかたちで
両方へ開かれて、しかし、その両方のどちらへも行かない。まったく別の新しい方向へ行く。
地面の底へ向けて懐かしそうに耳を付けている
「地の底」がどういうものか、書かれることはない。まだ行っていないので、それは書くことができない。けれど、それはきっと「なつかしい」ものであることは予感として知っている。未知と懐かしい(旧知)が一瞬のうちに出会い、そのことが「過去」でも「未来」でもないものの「しるし」となる。
この詩を、しかし、ほんとうにおもしろくしているのは、1行目の「これから行く道の」の「これから」である。
「これから」の「主役(主語)」は「蝶」ではない。このことばの話者(松尾)である。「これから」には「時間」が含まれている。まだ存在しない時間。それが「これから」。その「時間」をどう生きるか。どう動くか。--そう考えるとき、そこには「物語」が生まれてくる。「これから」と書いたとき、明確にではないけれど、松尾は、「物語」を感じている。その「予感としての物語」が、傷ついた蝶によって破られる。中断する。そして、突然、蝶の「物語」が始まり、またすぐに中断する。松尾の「物語」の中断と、蝶の「物語」の中断が重なる。
すると、その中断そのものが「物語」になる。
いま
蝶が物語をやめてしまっている
これから行く道の傍らのベンチへ
年老いた男が座っている
男は身じろぎをしないので
彼も物語をやめてしまったかどうかは分からない
落ちている蝶のように
ベンチの底へ向けて慕わしそうに耳を付けている
「中断」が「物語」になってしまうのは、なぜか。
よくわからないが……松尾のことばの使い方と関係があるかもしれない。「これから行く道の傍らへ」「これから行く道の傍らのベンチへ」--このふたつのことばの「へ」。これは、私の場合「に」になるのだが、松尾は「へ」と書く。
「に」も「へ」も場所といっしょにつかわれる「助詞」だが、私の感覚では「に」の場合は、動かない。「へ」は何かが動く。「へ」の方が「方向性」が強い。その、「方向性」が「中断」に含まれるから、「中断」が「物語」になるのかもしれない。
*
竹内章訓「桜花」は「物語」が強引に作り出していく。
四時に井の頭公園に集まって
桜の下の私に触れてみて下さい
咲き始めの桜の つぼみの恋の
わたしに触れてみて下さい
四時に井の頭公園に集まって
桜の木の下のわたしに触れて下さい
二分咲きの桜の 最初の気づきに
触れて下さい
三分咲きの桜の 無自覚な性欲に
触れて下さい
四分咲きの 滲み出す苦渋に
触れて下さい
四時に井の頭公園に集まって
桜の木の下のわたし触れて下さい
五分咲きの桜の つかの間の安堵に
触れて下さい
六分咲きの桜の 最後の純粋に
触れて下さい
七分咲きの桜の 淫らな予感に
触れて下さい
八分咲きの桜の 今を謳歌する喜びの後の哀しみに
触れて下さい
九分咲きの桜の 未来のあなたの亡(ほろ)びに
触れて下さい
つぼみ、二分咲き、三分咲き、……九分咲き。そこにはまっすぐに流れる「時間」がある。そして、同時にその瞬間瞬間に、まっすぐに進む時間を突き破ってあらわれる「美」がある。時間を中断させ、噴出する美--そこに竹内は詩を見ている。このとき「物語」は一義的には「つぼみ、二分咲き、三分咲き」と動いていく「時間」の流れである。流れにともない、桜が変化する--その変化が「物語」である。
その「物語」に「わたし」が重ね合わせられる。桜(他者)が「比喩」なのか、「わたし」が「比喩」なのか。区別がなくなる。
そして、詩になる。
この詩は、そういう構造をくっきりと浮かび上がらせている。ただ、その構造を突き破る、瞬間瞬間のことばが観念的すぎて……あくまで「詩」という感じに終わってしまう。もう語られたことがらしか、ことばになっていない。たとえば「無自覚な性欲」を、もっと「肉体」をとおしたことばにしてゆかないと、「詩の書き方のお手本」に終わってしまう。
![]() | 松尾静明詩集 (日本詩人叢書 (97)) |
松尾 静明 | |
近文社 |
