詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

松尾静明「出来事」、竹内章訓「桜花」

2011-07-08 23:59:58 | 詩(雑誌・同人誌)
松尾静明「出来事」、竹内章訓「桜花」(「折々の」23、2011年07月01日発行)

 松尾静明「出来事」。

蝶が一匹 これから行く道の傍らへ落ちている
どこも傷ついているようには見えない
生きていた時のかたちに 逝くもののかたちで

かつて 蝶が物語をもっていた時のままに
色彩や縞模様を羽織って
地面の底へ向けて懐かしそうに耳を付けている

 この作品を読むと、松尾は詩を「物語」と対峙させてみつめていることがわかる。「物語」の中断が松尾にとっての詩である。「物語」が中断したとき、「物語」を動いていた「時間」は両方へ開かれる。つまり、過去と、未来へ。

生きていた時のかたちに 逝くもののかたちで

 両方へ開かれて、しかし、その両方のどちらへも行かない。まったく別の新しい方向へ行く。

地面の底へ向けて懐かしそうに耳を付けている

 「地の底」がどういうものか、書かれることはない。まだ行っていないので、それは書くことができない。けれど、それはきっと「なつかしい」ものであることは予感として知っている。未知と懐かしい(旧知)が一瞬のうちに出会い、そのことが「過去」でも「未来」でもないものの「しるし」となる。
 この詩を、しかし、ほんとうにおもしろくしているのは、1行目の「これから行く道の」の「これから」である。
 「これから」の「主役(主語)」は「蝶」ではない。このことばの話者(松尾)である。「これから」には「時間」が含まれている。まだ存在しない時間。それが「これから」。その「時間」をどう生きるか。どう動くか。--そう考えるとき、そこには「物語」が生まれてくる。「これから」と書いたとき、明確にではないけれど、松尾は、「物語」を感じている。その「予感としての物語」が、傷ついた蝶によって破られる。中断する。そして、突然、蝶の「物語」が始まり、またすぐに中断する。松尾の「物語」の中断と、蝶の「物語」の中断が重なる。
 すると、その中断そのものが「物語」になる。

いま
蝶が物語をやめてしまっている
これから行く道の傍らのベンチへ
年老いた男が座っている
男は身じろぎをしないので
彼も物語をやめてしまったかどうかは分からない
落ちている蝶のように
ベンチの底へ向けて慕わしそうに耳を付けている

 「中断」が「物語」になってしまうのは、なぜか。
 よくわからないが……松尾のことばの使い方と関係があるかもしれない。「これから行く道の傍らへ」「これから行く道の傍らのベンチへ」--このふたつのことばの「へ」。これは、私の場合「に」になるのだが、松尾は「へ」と書く。
 「に」も「へ」も場所といっしょにつかわれる「助詞」だが、私の感覚では「に」の場合は、動かない。「へ」は何かが動く。「へ」の方が「方向性」が強い。その、「方向性」が「中断」に含まれるから、「中断」が「物語」になるのかもしれない。



 竹内章訓「桜花」は「物語」が強引に作り出していく。

四時に井の頭公園に集まって
桜の下の私に触れてみて下さい
咲き始めの桜の つぼみの恋の
わたしに触れてみて下さい

四時に井の頭公園に集まって
桜の木の下のわたしに触れて下さい
二分咲きの桜の 最初の気づきに
触れて下さい
三分咲きの桜の 無自覚な性欲に
触れて下さい
四分咲きの 滲み出す苦渋に
触れて下さい

四時に井の頭公園に集まって
桜の木の下のわたし触れて下さい
五分咲きの桜の つかの間の安堵に
触れて下さい
六分咲きの桜の 最後の純粋に
触れて下さい
七分咲きの桜の 淫らな予感に
触れて下さい
八分咲きの桜の 今を謳歌する喜びの後の哀しみに
触れて下さい
九分咲きの桜の 未来のあなたの亡(ほろ)びに
触れて下さい

 つぼみ、二分咲き、三分咲き、……九分咲き。そこにはまっすぐに流れる「時間」がある。そして、同時にその瞬間瞬間に、まっすぐに進む時間を突き破ってあらわれる「美」がある。時間を中断させ、噴出する美--そこに竹内は詩を見ている。このとき「物語」は一義的には「つぼみ、二分咲き、三分咲き」と動いていく「時間」の流れである。流れにともない、桜が変化する--その変化が「物語」である。
 その「物語」に「わたし」が重ね合わせられる。桜(他者)が「比喩」なのか、「わたし」が「比喩」なのか。区別がなくなる。
 そして、詩になる。
 この詩は、そういう構造をくっきりと浮かび上がらせている。ただ、その構造を突き破る、瞬間瞬間のことばが観念的すぎて……あくまで「詩」という感じに終わってしまう。もう語られたことがらしか、ことばになっていない。たとえば「無自覚な性欲」を、もっと「肉体」をとおしたことばにしてゆかないと、「詩の書き方のお手本」に終わってしまう。





松尾静明詩集 (日本詩人叢書 (97))
松尾 静明
近文社



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アレハンドロ・イニャリトゥ監督「BIUTIFULビューティフル」(★★★★)

2011-07-08 23:25:41 | 映画
監督 アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ 出演 ハビエル・バルデム、マリセル・アルバレス

 どこから書きはじめればいいのだろうか。
 タイトルは、主人公の娘が「ビューティフル」はどうつづるかと父親に聞くところから取っている。父(ハビエル・バルデム)は、「発音どおり、BIUTIFUL」と言うのだが--これはもちろん間違っている。そして、この「間違い」のなかに、この映画の哀しみが象徴的に表現されている。ハビエル・バルデムは「ビューティフル」のつづりを知らないのと同じように、「ビューティフル」が何であるかを知らないのだ。いや、「ビューティフル」が何かを知らない人間などいない。もちろん知っている。知っているけれど、それは誰にでも「共有」される形にはなっていない。いわば、「間違ったビューティフル」にしか触れることができずにもがいている。
 「ビューティフル」にかぎらず、ハビエル・バルデムの行動は、どこかが必ず「間違っている」。たとえば、彼の収入は、不法移民が偽ブランド商品を売る「露店」の場所の確保や、労働者の斡旋をして給料をピンはねすることである。「まっとう」な人間なら、もっと違った仕事をするはずだが、それができない。ハビエル・バルデムはそれが「正しい」とはもちろん思っていないが、それしかできないのである。二人の子どもを養わなければならないからである。
 この映画は、その「間違い」をハビエル・バルデムのなかだけにとどめずに、ハビエル・バルデムとつながる人々の暮らしにまでていねいに拡大して行く。何度も出てくる「食べる」シーンが、特に強烈である。「食べる」ことは人間が生きる上で欠くことができないものだけれど、この映画で出てくる「食べ物」は悲惨である。「おいしい」感じがしない。唯一、とけたアイスクリームを手で掬って食べるシーンが「おいしい」感じがするが、それは食べ物が「おいしい」のではなく、「食べる」ことの喜びが輝いているからそう見えるだけなのである。人間の「生きる力」が「美しくないもの(おいしくないもの)」を突き破ってあらわれる--その瞬間に、貧しい、汚い、苦しいといった負のイメージが一瞬消えるだけなのである。しかし、そういう「生きる力」を骨太に描いた映画化というと、そうでもないのだ。主人公は死んで行く。なけなしの金は盗まれる。人間の「垢」のようなものが、どこまでもどこまでも克明に描かれる。そういうものをしっかり定着させるために「生きる力」が必要だから、それを描いているのである。
 そして、その一方、まったく違うシーンが、どうしようもない生活と同じ映像の質で表現される。たとえば何台ものテレビモニターに映し出される鯨の死(海岸に打ち上げられた鯨とその体に押し寄せる波の繰り返し)、工場の煙突からもくもくと噴き出す煙、ハビエル・バルデムがふと見上げた空に群れ飛ぶ小鳥の塊。--それが、なぜ美しく見えるのか、よくわからないが、世界はたしかにそんなふうにして、あらゆるものが同居しているのだろう。わたしたちの知らない「生きる力」のようなものが、世界のあらゆる部分に存在しているのである。
 その見えるかぎりの「部分」をアレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトはハビエル・バルデムと同時に描いている。ハビエル・バルデムは、世界のあらゆる部分と向き合っている。向き合い方(といっていいのだろうか)に緩みがないために、たとえば血尿、便器に飛び散った血、さらには前立腺ガンのための合併症のようにして漏れてしまう尿(ズボンをぬらしてしまう汚れ、紙おむつにさえ、目が引きつけられてしまう。あらゆるシーンから目がそらせなくなる。アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトの演出力もすばらしいが、ハビエル・バルデムの演技もすばらしい。



 字幕で気がついたこと。
 ハビエル・バルデムが医者に余命を訊ねる。医者が「2か月(ドス・メセス)」と答える。これを聞いてハビエル・バルデムが「メセス(月々、複数)」と口にして茫然とする。「年」ではなく「月」なのか、である。これを字幕では「2か月」と訳していた。好みの問題もあるだろうが、これではハビエル・バルデムが、そんなに短いのかと茫然とした感じが伝わりにくい。「2か月」はたしかに長くはない。短い。けれど、それがハビエル・バルデムの思いとどれくらいかけ離れているかが「2か月」ではわかりにくい。「年じゃないのか……」くらいにしてもらいたい。



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