詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

阿部日奈子「瓦礫の丘のウィニー」

2011-07-09 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
阿部日奈子「瓦礫の丘のウィニー」(「ミて」115 、2011年06月27日発行)

 阿部日奈子「瓦礫の丘のウィニー」は、自分で「物語」を用意しない。すでにあるものを借用する。ベケットの「しあわせの日々」を借りて、ことばを動かしはじめる。

目をさますと世界ははげしく膨れていた
んじゃなくって
あたしひとりがまあるく盛りあがった丘の頂上に
腰まで埋まっていたわけなの
まるで丸屋根のスカートを履いているような案配
助けを呼ぼうにも
目路をかぎりに瓦礫の原が広がっていて
荒地野菊が点々と咲くばかり
蜃気楼さえ見えやしない

 「物語」を借りることで、阿部は「物語」をつくるということから解放される。そして、その「解放=自由」を利用して、今度は「物語」を壊しはじめる。つまり、そこから離脱する。「物語」を壊すために、阿部は「物語」を借りるのである。
 それを象徴することばが「んじゃなくって」である。あることばを前提として提出し、それを即座に否定する。
 このとき、詩は、どんな形をとるのだろう。

まるで丸屋根のスカートを履いているような案配

 この1行の「スカート」がとてもおもしろい。丘に埋まって、上半身だけ出ている。部ケットの描いた登場人物と同じだが、その状態を「まるで丸屋根をはいているよう」と「比喩」をつかって語ってもいいのだが、阿部はそれにさらに「スカート」をつけくわえている。それは「丸屋根を履いている」だけではイメージがわかりにくいから「スカート」をつけくわえたのだということだろうけれど、そこに何を追加するか--が、批評のなのだ。
 阿部は、「しあわせな日々」の主人公の状態を「スカート」に象徴される「女」の状態と見ているのだ。「丸屋根を履いている」では、「女」を語ったことにならない。「女」が置かれている状況の「象徴」にはならない。何かに埋もれ身動きがとれず、頭だけを動かしている(ことばだけを動かしている)人間なら、男にもいる。阿部は、しかし、そういう状態を「女」と限定することで、ベケットに向き合おうとしている。
 で、突然、気がついたのだが……。
 ベケットの戯曲(芝居)にも小説にも、女は出てくる。しかし、その印象は弱い。男が圧倒的に多い。「ゴドーを待ちながら」に出てくるのは男だけである。そのことも、阿部は間接的に批判・批評しているのかもしれない。
 ベケットは、ほんとうに「女」を描いたのか。描ききっているのか。

 ベケットはウィニーという女を描くことで、女を描いている。
 んじゃなくって、

 と「批評」することが阿部の密かな願いだったかもしれない。でも、むずかしいねえ。「んじゃなくって」と「スカート」に、私は、はっと目が覚めた。なるほどなあ、とも思ったのだが、ベケットのことばの重力から逃れるのはむずかしい。それを突き破って、別のことばを動かすのはむずかしい。
 ベケットの女がひたすら「日常」を繰り返すのに対し、阿部は、違うことばを動かしてみる。

あ、くるしい、いやんなっちゃう……
ウサギの巣穴にすっぽり嵌まって抜けられない
考えなしのプーくまよろしく
一ミリだって動けないあたし
雲なんか浮かべてのんきそうな青空からは
すかさず紫外線の矢が飛来して
日傘は燃えつきてしまったし
デコルテときたら早くもブロンズ色よ
誰か肩先を覆うケープをください

 「日傘は燃えつきてしまった」はあえてベケットの「物語」のなかへ入って見せたのかもしれないが--どうも、私には「ウサギの巣穴」(アリス)や「プーくま」(くまのプーサン)という、別の「物語」からことば(イメージ)を借りてきたことによって、逆に、ベケットのことばが阿部の「ことばを借りる」という運動の中へ侵入してきてしまったような感じがする。
 ベケット以外のことばを借りることで、ベケットのことばを破ろうとして、逆に、ベケットのことばがベケット以外のことばを破ってしまう--そういうことが起きているような気がする。

プーくまみたいに一週間の絶食で
引っぱ出してもらえるならいいけれど
どうやらあたしは望みうす
旬野菜とボッタルガの冷製フェデリーニとか
鮎の燻製添え枝豆リゾットとか
デュカをまぶした仔羊ロースのソテーとか
食通ぶって舌鼓をうってきた女が
練り歯磨きの糖分で生き延びているんですもの
そのチューブもみるみる平べったくなってきちゃった

 ここでもベケットの「歯磨き」に逆襲されてしまう。
 そして、そういう「ことば」の逆襲だけではなく、阿部のことばが、ベケットの描くウィニーそっくりに、ただしゃべること、ことばを繰り広げることという状況を反芻してしまう。
 ウィニーをベケット的状況から解放できていない。
 批評しようとして、批評する行為そのものがベケットになってしまっている。

ああ天上の揚げ雲雀、伝えてよ、あたしのロジカルな電文を!
「吾レ死スヲ知ルベシ ウィニー」
瓦礫の丘に没するも
ウィニーはさいごのさいごまでウィニーでした、って

 これでは、「敗北宣言」である。

 と、書いてくると、まるで阿部批判の感想になってしまうけれど。
 批判しながらも、私は、阿部のこの作品が嫌いなわけではない。久々に阿部のことばにふれて、阿部節の健在なことも知り、ちょっとうれしい。
 阿部のことばの魅力は--この作品ではそれが弱点にもなっているのだが、ことばがしっかり「文学」を踏まえているということだ。「文学」からはみださない。リズムにゆるぎがない。どこまでも清潔である。清潔な強さをもっている。

ああ男たち男たち男たち
気難しいのや厚かましいの、うらぶれたのやお目出度いの
保守反動やら極左小児病やら、やにさがったのや愚図なのや
いっぱいいましたとも
不思議ね、空気が澄んだここからなら
ひとりひとりがくっきりみえる
とどめかね、おひゆけど、えおひつかで
けっきょく誰とも長続きしなかった……だから
あたしは「メリー・ウィドウ」も歌えない老嬢です

 「とどめかね、おひゆけど、えおひつかで」たったこれだけで、男と女の「物語」を作り上げてしまう「文学」の力。これを有効な「武器」にするにはたぶんベケットのことばの重力は重すぎる。ベケットのことばはブラックホールなのだ。戦うではなく「遊ぶ」にしてもベケットの重力場は重すぎて身動きがとれなくなる。
 ベケットという対象が難敵すぎたということだと思う。


海曜日の女たち
阿部 日奈子
書肆山田


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マイケル・リッチー監督「がんばれ!ベアーズ」(★★★)

2011-07-09 19:17:02 | 映画
監督 マイケル・リッチー 出演 ウォルター・マッソー、テイタム・オニール

 子どもの気持ちを大人はわかってくれない――そういうとき、子どもはどうやって生きてゆくか、という視点で見直してみた。それに大人はどう向き合うか、という視点で見直してみた。
 ライバルチームのピッチャー(監督の息子)の態度がおもしろいね。三振を取りたいのに勝負を避けるように命令される。そんなことをして勝ったって面白くない。ピンボールをわざと投げてしまう。監督に殴られる。「ぼくの気持ちなんか、何にもわかっていない」。次に投げた球は、ぼてぼてのピッチャーゴロ。ところが捕球した後、一塁へ投げない。打者は一塁、二塁とベースを踏んでゆく。チームメートがボールをピッチャーから取り上げようとする。彼はかたくなに拒む。この、父親への反抗の仕方がいいね。子どもができることは反抗しかない。反抗をとおして、子どもは成長していく。
 これを見て、ウォルター・マッソーが気づく。というか、だらしない監督だったのが、急に目覚める。「大人」に成長する。子どもは大人を見て成長するが、大人は子どもを見て成長する。
子どもたちは、野球をしたいのだ。勝つことはもちろん楽しいが、負けたって楽しい。ほんとうに自分ができることをしたのなら。自分にできることをしないで勝っても楽しくない。だから、最後はベンチを温め続けていた子どもも全員プレーさせる。「こんなことをしたら負けちゃうよ」「大丈夫、勝てるさ」。
 そこまでしたら嘘になるから、試合にベアーズは負けるんだけれど、全然みじめじゃない。「お荷物」だったチームメートに「おまえ、できるじゃないか」とほめたたえ、全員で、ビールなんかを飲んだりして、はしゃいでしまう。この陽気さ――勝ったチームにはない、無邪気さ。いいもんだね。この無邪気な一体感こそ、幸福というものに違いない。
 大人の仕事は、この無邪気な喜びを傷つけないことだね。――と書くと、この映画の「説教くささ」に染まってしまった証拠かも。
 まあ、いいか、テイタム・オニールのカーブも見ることができたから。

 一か所。テイタム・オニールが帽子の裏にワックス(?)を塗って変化球を投げるシーン。説明の仕方が、記憶と違っていた。ほかの映画と混同したのかな? 「つばを拭くふりをしている」以上の説明があったように記憶しているのだが。
 「午前十時の映画祭シリーズ」ではときどきこういうことが起きる。私の記憶違い? それとも別バージョン?


 




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