詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

富山直子「コーヒーとエマ君」、吉本裕「折り鶴」

2011-07-13 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
富山直子「コーヒーとエマ君」、吉本裕「折り鶴」(「たまたま」21、2011年05月20日発行)

 富山直子「コーヒーとエマ君」は、かるい童話のような作品である。

エマ君はコーヒー通である
シンゴスターリビングというカフェの
お庭にいる黒い犬です
お客さんが出入りする度に鼻をきかせています
「あー今日はグァテマラ・リンダ」
「昨日はスマトラ・マンデリンだったなあ」
と呟いて、お昼寝をします

夢の中でエマ君は、自分専用のミルで
豆を挽いています
すると突然雨が降ってきました
コーヒー豆の雨です
エマ君はこれでもかというくらい豆を
ひきます
でも後から後から止むことなく降ってきます
そしてエマ君は、コーヒー豆に埋もれて
しまいました

風がぴゅうとふくと、エマ君は庭の小屋の中で
目を覚ましました
「明日は何のコーヒーだろう」
そう呟きました

 2連目がリズムがいい。「すると突然雨が降ってきました/コーヒー豆の雨です」という2行を、たとえば「すると突然コーヒー豆の雨が降ってきました」という1行と比べてみるとわかる。「意味」はかわらないが、2行の方が動きがある。雨が降ってきた。よく見るとコーヒーの豆だった。だから、一生懸命に豆を挽く。一瞬一瞬が自然に動く。
 この自然なリズムが、3連目の「風がびゅうとふくと」の「びゅう」という音をおもしろくさせている。「びゅう」という一瞬が見えるのである。



 吉本裕「折り鶴」を読んでいて、ふと、その中の1文字を書き換えてみたくなった。

鶴が 風で庭に落ちていた
千羽鶴のために小さくたたまれた一羽
汚れているのに 白さが目を鬱
子どもが折ったのか 角が甘い

たとえば僕らが
逃れられずに朽ちてゆくとしても
必ずどこかで祈ってくれている人がいる
懐かしい写真や手紙を見返すように
ときどきそのことを思い出せれば
ちゃんと最後まで立っていられるだろう

一つの夢が終わり 一つの夢が始まる
どの夢の中にも
喜び 悲しみ 不安や快楽がある
変わるのはまわりの景色だけで
心のある場所はいつも変わらない

いつでも普通に生きる
時々鶴を折る

 「子どもが折ったのか 角が甘い」という1行に、吉本のたしかな視力を感じる。ただ目で現実を見るのではなく、手も動かしている。しっかりと手で鶴を折ったことがあるから、そのときの肉体が「角が甘い」ということばを引き出すのである。
 この詩は、折り鶴を見ながら、折り鶴を折ったことを思い出し、それから、これから折り鶴を折るひと(吉本を含む)のことを思っている「一人称」の詩である。それはそれできちんとまとまっているのだが、私は、ふとこれを「二人称」にしてみたくなったのである。1文字書き換えることで。
 私が書き換えたいと思ったのは2連目の「必ずどこかで祈ってくれている人がいる」。「祈る」を「折る」に変えたい。

必ずどこかで折てくれている人がいる

 そうすると、2連目は、庭に落ちている鶴の独白になる。折り鶴--紙で折られた鶴は、いつか風雨にさらされて朽ちてゆく。けれども、また「必ず折り鶴を折ってくれる人がいる」。そのこを心の支えにして、立っていることができる。倒れて朽ちていくにしても、翼を広げた形で立っていることができる。
 その独白を聞いて、吉本が人間の生き方を見つめなおす--そういう風に読んでみるとどうなるだろう。
 「心のある場所」というのは、「鶴を折る」という、その「行為」の中、ということにはならないだろうか。鶴を折るとき、しずかに祈る。祈り、願いをこめて鶴を折る。祈ること、願うことと、鶴を折るということが重なる。重なることで「心」がたしかなものになる。
 そんなふうに、この詩を読みたい。
 「祈ってくれ人」を「折ってくれる人」にすると、詩のなかから「祈る」ということばは消えてしまうのだけれど、読者が読者の力で「祈る」ということばを見つけ出してくれると思う。
 書かれていないことばを読者が探し出したとき、作者と読者の交流が始まると思う。



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