詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

金勝熙「ヘソのための恋歌Ⅰ」

2011-07-18 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
金勝熙「ヘソのための恋歌Ⅰ」(韓成禮訳)(「something 」13、2011年06月30日発行)
 金勝熙「ヘソのための恋歌Ⅰ」は、田島安江や伊与部恭子と違って「見えるもの」にこだわる。「見えるもの」があるということは、その「内部」(背後、奥、歴史……いろいろな言いかたかできると思うけれど)に「見えないもの」があるということだ。「見える」のはあくまで「表面」。「内部」はふつうの視力では見えない。「内部」を見るためには、ことばを動かさないといけない。

あなた、あなたが誰でも、あなたのおヘソを見せてくれるなら、私はあなたを愛します、いやにもつれたちっぽけな丸が、くねくねと曲がったあなたのかなしいおヘソも、私のヘソとまったく同じ恥ずかしい罪と愚かなる欲望がくねくね、ぐるぐる挟まっているはずです、あなた、闇の胎の中から訳もわからず飛び出し、一定の住家も無く罪を犯して死んでゆくあなた、あなた、

 「もつれたちっぽけな丸が、くねくねと曲がったあなたのかなしいおヘソ」は目で見えるヘソの形である。形であるけれど、それを「くねくねと曲がった」と描写した途端に、それは「表面」を描写するだけではなく、「内部」へつながる通路となる。「くねくね曲がった」ということばが「精神・こころ」のありかたの描写と自然に重なる。「精神・こころ」が「くねくねと曲がる」ことを私たちは知っているからである。だから、「かなしいおヘソ」ということばに出会っても、違和感はない。ヘソそのものが「かなしい」わけではない。ヘソに「つながる」なにか、ヘソと「つながっている」精神・こころが悲しいのである。
 ヘソは人間の誕生の徴である。ヘソで胎児は母親と「つながっている」。胎児が胎児になるためには、性行為が必要である。それは、ときには「恥ずかしい罪」「愚かな欲望」の結果であることもある。そういうものは「かなしい」。
 金はヘソを描写すること、見えるものをことばで追うことで、その見えるものの背後にある見えない「時間」「感情」にたどりつくのである。「見えなかったもの」を「見える」かたちに引っ張りだす(高める?)ことばの運動--それが詩である。

 金の詩がおもしろいのは、その「見えないもの」にたどりついたあと、そこで満足するのではなく、そこから飛躍することだ。
 金がそれまで書いてきた「見えないもの」とは「存在するけれど見えないもの」であった。「歴史/過去」というものであった。そこから、金は飛躍する。

私たちはヘソの上で平等だ
それは誕生日の傷あと
孤児たちの名札、
燐鉱を塗った白骨の橙色の唇が
がさがさと一番先にむしって食べる
従順な肉体の穂、
私たちはヘソの上であまりにも平等だ

 「平等」。それは「歴史/過去」にもあるし、「現在」にもある概念である。けれど、それはふつうはヘソの「背後」にあるわけではない。ヘソとは密着しない形で存在する概念である。ヘソ(肉体)と「平等」はかけ離れている。
 このかけ離れたものを、ことばで結びつけるとき--「平等」は「肉体」になる。
 「私」にとって、なくてはならないもの。それを欠いてしまっては「肉体」が成立しないものになる。
 1連目のことばの運動が、隠れているもの「見えないもの」を、「見えるもの」を描くことで、見える次元にまで引っ張りだしてくる運動だとすれば、2連目のことばの運動は、見えるようになったものの力を借りて、「まだ見えないもの」を存在させる運動である。「まだ存在しないもの」を存在させる運動である。
 ことばは、語ってしまえば、その語ったものを存在させてしまうのだ。田島の「クジラ」、伊与部の「死体」も存在しないものであるけれど、語れば「存在」になるか田島や伊与部が、いわば「自分のなかの、言いきれないなにか」を「クジラ」「死体」ということば呼んだのに対し、金は自分が欲するもの、必要とするものをことばにし、それを実現しようとするのだ。
 韓国のことばは「思想」が強いが、それは「まだ実現していない理想」をことばの力で生み出そうとする姿勢の強さでもある。
 金は「思想」を「肉体」にするために、「思想」を語ることばに「肉体」を強烈に結びつけるのである。

燐鉱を塗った白骨の橙色の唇が
がさがさと一番先にむしって食べる
従順な肉体の穂、

 この3行は、私にはなじみのない世界だが、韓国の人たちには、「思想」と「肉体」を強烈に結びつける、切り離せないものにするもの、忘れることのできない「歴史」かもしれない。
 「思想」と「肉体」を結びつけたあと、金は、いわば「歴史としての肉体」にさかのぼり、「平等」という「思想」を、未来-過去のなかに置き、「永遠」にまで高めるのである。
 この「時間感覚」は3連目で語りなおされている。

あなた、あなたが誰であれ、あなたのヘソを捨てさえしなかったなら、私はあなたを熱烈に赦します。春になり乾いた木の枝に若芽が芽生えるのを眺めたり、バタバタ--鳥たちが飛びあがるのを見る度に、私は湿疹のようにヘソが痒くなるのを感じます、今やヘソは過去完了ではなく、現在進行形で私の生の中に芽生え、お母さん--ああ、お母さん--と呼んでみれば、海辺を泣きながら歩いて行く一人の女性が浮かび上がります、彼女の悲しみ、彼女の愛、彼女の絶望に従って、私のヘソはまた止めどなく始原の胎の中に濡れて入り、母--慈悲と呪いの秘密口座である母--私の母よ……。

 「過去完了ではなく、現在進行形」--永遠とは、「現在進行形」なのだ。だから、どこにあるか、その「場」を特定できない。ことばが触れる瞬間、結晶化して、また消えるものなのである。
 見えるもの(ヘソ)から見えないもの(肉体の奥の精神・こころ・欲望)へ、そして見えないもの(精神)からまだ存在しないもの(思想・理想)へ、さらにまだ存在しないもの・実現していないもの(思想・理想)の原点を歴史(過去の時間)と結びつけて語るとき、「私」の思想・「私」の歴史は、「私」を超えて「国民」の思想・歴史になる。「国民」のなかに「永遠」が浮かび上がる。--それを、もういちど「母」をとおして「自分のもの」として抱きしめる。「過去完了ではなく、現在進行形」として。

時間の瞳孔―朴柱澤詩集 (韓国現代詩人シリーズ)
朴 柱澤
思潮社



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