岩佐なを「ゆめ」、藤田晴央「雪の泉」(「交野が原」70、2011年04月20日発行)
きのう読んだ、小長谷清実のことばは「音楽」がとても美しい。小長谷のことばの音の響きを聞いていると、軽やかさにびっくりしてしまう。「地声」という感じがしない。鍛え上げた「声」である。つくられた透明さがある。
それとは対照的なのが、岩佐なを、である。小長谷の詩といっしょに読んだせいか、久々に、うっ、気持ち悪いと感じてしまった。
「ゆめ」のなかほど。
「つやっぽい律動」ということばが出てくる。「ンムパカグロッチ」「ネロテロ」「ンムパカゲロッチ」「ウニウネ」がつやっぽいのか。その、へんてこな音のあいだにはさまっている「うん」「うん」がつやっぽいのか--これは、ひとの好みによって違うだろうなあ。
私は「ンムパカグロッチ」「ネロテロ」「ンムパカゲロッチ」「ウニウネ」というような「音」を自分の喉や舌をつかって出せない。カタカナ難読症なので、正確に読めないということもあるが、「音」が届いてこないので、反芻できないのである。こういう「音」、「ことば」に出会ったとき、私はとても気持ち悪く感じる。
私には、あいだにはさまっている(うん)(うん)の相槌だけが聞こえる。その「音」なら、私は私の肉体で繰り返すことができる。
で、そのことだけを考えるなら、「ンムパカグロッチ」「ネロテロ」「ンムパカゲロッチ」「ウニウネ」が気持ち悪くて、(うん)は気持ちいい(?)ということになるはずなのだが……。
(うん)(うん)と同じような感じで(どうか御唱和ください)(ゆめ成就までヒミツを隠す函も差し上げます)が「聞こえてくる」。
そのことが、ほんとうに、気持ちが悪い。
それは、どこから聞こえてきたのだろう。その「声」、その「音」は、どこから聞こえてきたのだろう。どうも、私の「外」ではない。私の「なか」、意識できない「記憶」のずーっと奥から、すっと浮かび上がってきた。「聞いたことがある」「このことば、聞いたことがある。こういう言い方を聞いたことがある」と思うのだ。
「意味」ではなく、響き、として、聞いたことがある。「御唱和」なんて、「意味」もわからずに「聞いて」いて、まわりで一斉に同じことばを発する声が聞こえて、そうか、声をそろえて何かをいうことが「御唱和」なのかと、あとから「知る」のだが、その「わからない」を「声」が追いかけてきて、「わからない」まま「わかる」という感じが、気持ちが悪いにつながるのである。「わからない」はずなのに、「知っている」のだ。
(ゆめ成就までヒミツを隠す函も差し上げます)も、何のことかわからないが、ほら「差し上げます」というようなゆったりと、低いところから響く「声」にたぶらかされて、妙なことになってしまう--そういういやあな記憶って、ない? 知っているでしょ?
これは、まあ、私の「生理反応」のようなものであるのだが。
「海に/加勢の流星がジュッと叫んで潜っていった」なんて、「嘘」に決まっているのだが、それが「嘘」なら(老いは背にでるね、タロ)も(ほぼ不可能にちかい)も「嘘」であっていいはずなのに、なぜか、「肉体」の奥から、その「声」が聞こえてきてしまう。「知っている」のだ。その「音」を。その「声」を。
気持ち悪いなあ。ぞくぞくするなあ。「ひっくりかえせ(てんぷく)」なんて、なぜ、「てんぷく」とひらがななんだよ。「転覆」なら、きっと気持ち悪くない。
「ひっくりかえせ(す)」と「転覆(させる/する)」は「意味」として同じである。それがひらがなで「ひっくりかえせ」「てんぷく」と繰り返されると、「意味」ではなく「音」がかってに動くのだ。「頭」で整理する前の、「肉体」の奥からことばが動く。「意味」もわからず繰り返していて、そのうち「意味」を知ってしまう--そういう、何と言えばいいのか、ことばの「原始」の次元を覗くような、覗いてしまう、いやあな感じがある。
別なことばで言えば、何か、怖いものがある。
こんなことば、「頭」では絶対に受け入れることはできないね。けれど、これと同じことば(音)を聞いたことはない? 私はどこかで聞いたことがある。こどもはそんなことを聞いてはいけない(聞く必要はないのだが)、「御唱和」と同じように「大人」のそばで聞いて、「意味」もわからず「肉体」になじませてしまう何か--その「音」の力、「地声」の力のようなものが、とても気持ちが悪い。怖い。
そして、困ったことに、気持ち悪く、怖いのだけれど、ときどき、しみじみと、そうだなあ、と思ってしまう。「地声」の奥にある「いのち」の図太い「つや」があるからかなあ。
*
藤田晴央「雪の泉」は、また別の声を持っている。
「こんこん」「しん(としずまり)」という表現を、岩佐の「御唱和ください」と比較するとわかる。藤田のことばは、「意味」をわからずにつかうことばではない。大人の真似をしてつかっていて、知らずに、その意味を知ってしまうことばではない。「地声」とは別の「音」である。最初から「音楽」である。「音楽」として与えられた「音」である。藤田は、そういう「音」をきちんと守ってことばを動かしている。
ここにあるのは、ことばの安心感である。
藤田のことばは音の安心感の上に立って、「意味」をつくる方向へと動いていく。
小長谷や岩佐の「意味」は「音」そのもの、「声」そのものにあるのに対し、藤田のことばは「音」「声」ではなく、「意味」をめざす。
「ゆきのえいえん」。これが藤田の「意味」である。
きのう読んだ、小長谷清実のことばは「音楽」がとても美しい。小長谷のことばの音の響きを聞いていると、軽やかさにびっくりしてしまう。「地声」という感じがしない。鍛え上げた「声」である。つくられた透明さがある。
それとは対照的なのが、岩佐なを、である。小長谷の詩といっしょに読んだせいか、久々に、うっ、気持ち悪いと感じてしまった。
「ゆめ」のなかほど。
ンムパカグロッチ(うん)ネロテロ
ンムパカゲロッチ(うん)ウニウネ
つやっぽい律動で踊りながら唄いながら
ぬばたまの連は「暗闇一族」を
組みあげていったのだから。
(どうか御唱和ください)
(ゆめ成就までヒミツを隠す函も差し上げます)
「つやっぽい律動」ということばが出てくる。「ンムパカグロッチ」「ネロテロ」「ンムパカゲロッチ」「ウニウネ」がつやっぽいのか。その、へんてこな音のあいだにはさまっている「うん」「うん」がつやっぽいのか--これは、ひとの好みによって違うだろうなあ。
私は「ンムパカグロッチ」「ネロテロ」「ンムパカゲロッチ」「ウニウネ」というような「音」を自分の喉や舌をつかって出せない。カタカナ難読症なので、正確に読めないということもあるが、「音」が届いてこないので、反芻できないのである。こういう「音」、「ことば」に出会ったとき、私はとても気持ち悪く感じる。
私には、あいだにはさまっている(うん)(うん)の相槌だけが聞こえる。その「音」なら、私は私の肉体で繰り返すことができる。
で、そのことだけを考えるなら、「ンムパカグロッチ」「ネロテロ」「ンムパカゲロッチ」「ウニウネ」が気持ち悪くて、(うん)は気持ちいい(?)ということになるはずなのだが……。
(うん)(うん)と同じような感じで(どうか御唱和ください)(ゆめ成就までヒミツを隠す函も差し上げます)が「聞こえてくる」。
そのことが、ほんとうに、気持ちが悪い。
それは、どこから聞こえてきたのだろう。その「声」、その「音」は、どこから聞こえてきたのだろう。どうも、私の「外」ではない。私の「なか」、意識できない「記憶」のずーっと奥から、すっと浮かび上がってきた。「聞いたことがある」「このことば、聞いたことがある。こういう言い方を聞いたことがある」と思うのだ。
「意味」ではなく、響き、として、聞いたことがある。「御唱和」なんて、「意味」もわからずに「聞いて」いて、まわりで一斉に同じことばを発する声が聞こえて、そうか、声をそろえて何かをいうことが「御唱和」なのかと、あとから「知る」のだが、その「わからない」を「声」が追いかけてきて、「わからない」まま「わかる」という感じが、気持ちが悪いにつながるのである。「わからない」はずなのに、「知っている」のだ。
(ゆめ成就までヒミツを隠す函も差し上げます)も、何のことかわからないが、ほら「差し上げます」というようなゆったりと、低いところから響く「声」にたぶらかされて、妙なことになってしまう--そういういやあな記憶って、ない? 知っているでしょ?
これは、まあ、私の「生理反応」のようなものであるのだが。
函を開けると、放たれた視線は
なやましい武器庫の先に張り巡らされた
鉄条網をくぐって砂浜に出る。
海洋に向かって坐る痩せた忍犬のうしろすがた
(老いは背にでるね、タロ)
タロだけが先日目撃したこと……海に
加勢の流星がジュッと叫んで潜っていった
有様とその意思をどう解釈して他者に伝えるか。
(ほぼ不可能にちかい)
「海に/加勢の流星がジュッと叫んで潜っていった」なんて、「嘘」に決まっているのだが、それが「嘘」なら(老いは背にでるね、タロ)も(ほぼ不可能にちかい)も「嘘」であっていいはずなのに、なぜか、「肉体」の奥から、その「声」が聞こえてきてしまう。「知っている」のだ。その「音」を。その「声」を。
ありえないことをおこすこと(死者叩き)
函を潰さずにひっくりかえせ(てんぷく)
だれがこのよでわたしだったか。
だれがつぎにわたしになるのか。
気持ち悪いなあ。ぞくぞくするなあ。「ひっくりかえせ(てんぷく)」なんて、なぜ、「てんぷく」とひらがななんだよ。「転覆」なら、きっと気持ち悪くない。
「ひっくりかえせ(す)」と「転覆(させる/する)」は「意味」として同じである。それがひらがなで「ひっくりかえせ」「てんぷく」と繰り返されると、「意味」ではなく「音」がかってに動くのだ。「頭」で整理する前の、「肉体」の奥からことばが動く。「意味」もわからず繰り返していて、そのうち「意味」を知ってしまう--そういう、何と言えばいいのか、ことばの「原始」の次元を覗くような、覗いてしまう、いやあな感じがある。
別なことばで言えば、何か、怖いものがある。
だれがこのよでわたしだったか。
だれがつぎにわたしになるのか。
こんなことば、「頭」では絶対に受け入れることはできないね。けれど、これと同じことば(音)を聞いたことはない? 私はどこかで聞いたことがある。こどもはそんなことを聞いてはいけない(聞く必要はないのだが)、「御唱和」と同じように「大人」のそばで聞いて、「意味」もわからず「肉体」になじませてしまう何か--その「音」の力、「地声」の力のようなものが、とても気持ちが悪い。怖い。
そして、困ったことに、気持ち悪く、怖いのだけれど、ときどき、しみじみと、そうだなあ、と思ってしまう。「地声」の奥にある「いのち」の図太い「つや」があるからかなあ。
*
藤田晴央「雪の泉」は、また別の声を持っている。
ゆきがそらから
こんこんとわきでている
こんこんとたえまなくいずみのようにわきでている
ほりこんだちいさなかまくらにからだをいれて
かおだけだして
ゆきがわいてくるのをみていると
あたりはしずまりかえり
やがて
ジョンのなきごえがきこえる
おばちゃんがめんどうをみている
きょうしつからあみもののおと
おかあちゃがおしえているきょうしつから
ざあざあとあみきのおと
「こんこん」「しん(としずまり)」という表現を、岩佐の「御唱和ください」と比較するとわかる。藤田のことばは、「意味」をわからずにつかうことばではない。大人の真似をしてつかっていて、知らずに、その意味を知ってしまうことばではない。「地声」とは別の「音」である。最初から「音楽」である。「音楽」として与えられた「音」である。藤田は、そういう「音」をきちんと守ってことばを動かしている。
ここにあるのは、ことばの安心感である。
藤田のことばは音の安心感の上に立って、「意味」をつくる方向へと動いていく。
小長谷や岩佐の「意味」は「音」そのもの、「声」そのものにあるのに対し、藤田のことばは「音」「声」ではなく、「意味」をめざす。
わたしは
かまくらからはいでて
だれもいないかぐちにたちあがり
ゆきのえいえんに
あゆみだす
「ゆきのえいえん」。これが藤田の「意味」である。
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