詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

岬多可子『静かに、毀れている庭』

2011-07-14 23:59:59 | 詩集
岬多可子『静かに、毀れている庭』(書肆山田、2011年07月10日発行)

 岬多可子『静かに、毀れている庭』は、ときどきことばが乱れる。その乱れに「肉体」を感じる。たとえば「苺を煮る」。

赤い苺を甘く
煮ているのであるが
そんなことき
底のほうからどんどんと
滲み出てきて 崩れていく。

(略)

じくじくと 苺は赤い血を吐くが
忸怩たる とはこういうことか。
うつくつと 琺瑯の鍋は音をたてるが
鬱屈した とはこいういことか。

 苺が煮に崩れて、「じくじく」と赤い色をこぼすことと「忸怩」とは無関係である。苺の煮崩れる様子と人間の思いとは無関係である。無関係であるうえに「じくじく」というのは現実の音でもない。それは人間がかってに押し付けた「音」にすぎない。
 そういう「無関係」を岬は、強引にわたってしまう。「頭」では絶対にわたらない部分を「肉体」でわたってしまう。
 「じくじく」というのは「音」だけれど、「音」だけではない。何かが崩れる。そして、はみだす。隠しておきたいものかもしれない。ほんとうは知ってもらいたいものかもしれない。はっきりとことばにはできないもの、絡み合っている何かである。そういうものが「肉体」のなかで、「じくじく」という「音」を手がかり(?)に、かってに「忸怩」という「概念」と結びつく。
 苺は恥じ入ってなどいない。けれど、岬は、恥じ入っているときの「肉体」は、何かを体から滲み出させ、体が崩れていくような感じがするのだ。「肉体」が煮崩れる苺になっていると感じるのだ。
 この、概念ではなく、「肉体」でことばの中へ入っていく感じがおもしろい。
 この「肉体」でつかみとる「概念」は「流通言語」とはならない。詩にとどまりながら、さまざまな「思い」を受け入れて、崩れ、乱れることで、たしかなものになっていくのである。
 「うつくつ」と「鬱屈」も同じだ。
 そんなことを思いながら、冒頭に戻ると、ふと何かが意識をよぎる。

赤い苺を甘く
煮ているのであるが

 この「甘い」は砂糖を放り込んで、「甘く」している。ジャムにしている、くらいの意味だろうけれど、「概念」を「頭」から引きずり出し、「意味」をいったんはぎ取り、「肉体」のなかへいれてしまう。そして、もう一度、外へ出すという「作業」(岬の、思想のつくり方)のことなのかなあ、とも思うのだ。
 固く、味気ない「概念」を、「肉体」になじみやすい「甘い」ものに加工する。自分の「肉体」にふさわしいものにしてしまう--そういうことかもしれないなあ、と思うのだ。
 「概念」がある瞬間、「概念」ではなく、あいまいな「肉体」になっていく。「肉体」のなかで、「甘く」なって、すみずみにゆきわたり、形のないものになる。

オリーブ色の天使の姿を刺繍している
半身あらわれたところで糸が足りなくなる

たくさんの天使を死なせてきた気がするので
死んではいけない ということを
言おうとして 言えない

 糸が足りなくて刺繍の天使が完成しないのは、天使を死なせることではない。死なせることではないけれど、そのままでは死んでしまう--生まれてこないのだから、死んでしまうということになりはしないか。
 この死ぬと生まれる、生まれないと死ぬのあいだを、岬の「肉体」は意識できないままわたってしまう。そのとき考えたことを言いたいけれど、「言おうとして 言えない」、ことばにならない。
 刺繍を刺すという「肉体」の動きが中断されたまま、その中断の中で、ことばにならないものが育っていく。
 「死んではいけない ということを/言おうとして 言えない」というのは、「甘い」論理であるが、それが「甘い」からこそ、思想なのだ。

<蔓>が<夢>と見えて
伸びていった先端が
支えを求めてさまよっているのは
不穏で不安で

 と始まる「あてどなく」は、ことばが「漢字」に頼っている分、「観念的」だ。「不穏」「不安」も漢字に頼っていて、おもしろくない。「ふあんでふおんで」とひらがなにするとずいぶん違った感じになるが、蔓、夢が漢字から始まったので、ことばが「視力」のなかで堅苦しくなっている。
 だが、その2連目。

でも
あるべきありかた
触れるか触れないか
痛痒のように
近づいては遠ざかる

 「痛痒のように」が、「肉体」をしっかり引き寄せている。「ことば」が「漢字」を手がかりに、近づいては遠ざかる。「つうようのように」とひらがなで書いてしまえば、「つうよう」がなんのことかさっぱりわからなくなる。
 そうか、視力も「肉体」なのか、と思った。教えられた。

 「箱の虫」にもはっとさせられる行がある。

女子生徒たちに観察させるための
幼虫五十体を持ち運ぶ
週を越すために
膝に抱え 電車に乗り 持ち帰る

さわさわと 暗い箱のなかで
葉を噛み砕いて
ぽとぽとと 身体の末端から
糞を落としている

くるしいだろう
かさなりあったまま よじれたり しているのを
蓋で抑えこみ
骨を抱くほどの姿勢で 座席に沈む

 「かいこ」か何かだろうか。まあ、虫はいいのだが、その虫の入ったはこを「骨を抱くほどの姿勢で」で抱え、椅子にすわるとき、岬の「肉体」は「比喩」ではなく、たしかに誰かの骨壺を抱いているのである。そうして、その骨壺の骨に対して「くるしいだろう」と想像している。死んでしまった人間、焼かれて骨になった人間は何も感じないかもしれない。しかし、人間か感じないからといって骨が何も感じないとはいえないだろう。「かさなったり よじれたり(よじれるような圧力をかけられたりして、むりやり骨壺におしこめられて」、「くるしいだろう」と想像する。
 「頭」ではなく、箱を抱くという「肉体」の形をとおして、岬は、「かいこ」ではなく遠い死者に触れる。「肉体」の形のなかへ、死者は「近づいては遠ざかる」。
 それぞれの詩を越えて、詩集の中の別の一行が他の作品の別の一行となって動きはじめる。そういうことが起きるのは、岬のことばが「肉体」をすみかとしているからである。「ことば」の区切り方が「甘い」。その「甘さ」を利用して、どこへでも動くのだ。「乱れる」ふりをして、ほんとうのことを言ってしまうのである。






桜病院周辺
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