鴛海裕「二月と四月のあいだ」(「投壜通信」01、2011年07月10日発行)
鴛海裕「二月と四月のあいだ」も「東日本大地震特集」のなかに置かれていなかったら違った具合に読んだかもしれない。
ここに書かれているのは大地と花のことなのだが、私は、なぜか海と海で生きる人たちのことを思った。海は津波となって、海で生きる人たちの家や船を奪いさった。海で生きる人たちは、大地に寝起きし、そこで食べ物を食べ、海から暮らしの糧を得るということになる。何人ものいのちが奪われた。それでも、やはり海が好き--その気持ちが、なぜか、「チボシ」の花のように思えるのだ。「チボシ」にかぎらず、大地に咲く花のように思えてしまうのだ。
鴛海は、植物、つまり「地に根を張るものたちは/大きな揺れをどう受け止めたのだろう」と問うている。この問いは「植物」だけの「思い」を問うているのだろうか。つまり、大地がゆれ、たとえばスノードロップはどう感じたか。タンポポやスミレはどう感じたか。チボシはどう思ったか。怖い、逃げたい、と思ったか。
どうなのだろう。
はげしくゆれる大地を感じ、自分のそばに根を張る仲間の草の不安や悲鳴を感じただろうか。
私はなぜが、植物は、他の植物の悲鳴を聞いたのではなく、大地そのものの悲鳴を聞いたのではないのか、と思ったのだ。
どこから、この揺れは来ているのか。遠い大地の、どこが破壊されたのか。その破壊の悲鳴を聞いて、大地こそ不安にならなかったか。
その不安を聞いて、花は、こわがらなくていいよ、大地はまだ生きているよ。君たちの生きている証拠を地中からつかみ取って、地上に運び、美しい花にして見せるよ。いつもの春のように--花たちは、そう言っているような気がしてならないのである。
海で暮らしている人たち、大震災のあと、津波の被害のあとも、海から離れることのできない人たちは、やはり「大丈夫だよ、海は生きているよ、その海と一緒に生きるよ、どこへも行かないよ」と海に呼びかけているような気がする。
自分ひとりが生きるのではない。誰かといっしょに生きたい。そう思うとき、花は大地と生きたいのだ。海で暮らす人は海で生きたいのだ。そんなことを私は思ったのである。
小さな女の子は「チボシが咲いた」という。それは「オオイヌノフグリ」。そしてそれは「地星」。違うことば(文字)が、違いながら、つながっている。そんな具合に、大地と花がつながって生きている。海と海で暮らす人は、つながって生きている。--あ、私のことばは、どこかで飛躍しているのだが、そんなことを思うのだ。
それは小さな女の子と鴛海の関係かもしれない。女の子のことば、そのことばとともに夢見ようとしているもの、それはどこかでつながっている。
草花が大地の夢を地上に運んで花として開いて見せることで生きるように、鴛海は女の子の「チボシ」という音を「地星」(地上に咲いた星)という文字にすることで、地上を星空(宇宙)につなげる。
このつながりのなかに、私は、
ということばを感じるのだ。「声」を感じるのだ。誰ものかみんな、自分の暮らしてきた「場所」が好き。その「場所」が奥にもっている何かが好き。それぞれの花は大地がもっている「星」を地上に運ぶ。それは、その大地が好きだから。
生まれ育ったところが好き、ふるさとが好き。
そういう「声」を私は聞いてしまうのだ。
鴛海裕「二月と四月のあいだ」も「東日本大地震特集」のなかに置かれていなかったら違った具合に読んだかもしれない。
二月二十四日、仙台では
スノードロップが咲き始めた
地に根を張るものたちは
大きな揺れをどう受け止めたのだろう
東京の春は寒かったので
四月になってようやく
タンポポやスミレが咲いた
祖母に手を引かれた小さな女の子が
-この花は、チボシっていうんだよね
咲いていたのは、オオイヌノフグリ
四月二十七日、仙台でも
ムスカリの群生の脇に
地星が咲いていた
ここに書かれているのは大地と花のことなのだが、私は、なぜか海と海で生きる人たちのことを思った。海は津波となって、海で生きる人たちの家や船を奪いさった。海で生きる人たちは、大地に寝起きし、そこで食べ物を食べ、海から暮らしの糧を得るということになる。何人ものいのちが奪われた。それでも、やはり海が好き--その気持ちが、なぜか、「チボシ」の花のように思えるのだ。「チボシ」にかぎらず、大地に咲く花のように思えてしまうのだ。
鴛海は、植物、つまり「地に根を張るものたちは/大きな揺れをどう受け止めたのだろう」と問うている。この問いは「植物」だけの「思い」を問うているのだろうか。つまり、大地がゆれ、たとえばスノードロップはどう感じたか。タンポポやスミレはどう感じたか。チボシはどう思ったか。怖い、逃げたい、と思ったか。
どうなのだろう。
はげしくゆれる大地を感じ、自分のそばに根を張る仲間の草の不安や悲鳴を感じただろうか。
私はなぜが、植物は、他の植物の悲鳴を聞いたのではなく、大地そのものの悲鳴を聞いたのではないのか、と思ったのだ。
どこから、この揺れは来ているのか。遠い大地の、どこが破壊されたのか。その破壊の悲鳴を聞いて、大地こそ不安にならなかったか。
その不安を聞いて、花は、こわがらなくていいよ、大地はまだ生きているよ。君たちの生きている証拠を地中からつかみ取って、地上に運び、美しい花にして見せるよ。いつもの春のように--花たちは、そう言っているような気がしてならないのである。
海で暮らしている人たち、大震災のあと、津波の被害のあとも、海から離れることのできない人たちは、やはり「大丈夫だよ、海は生きているよ、その海と一緒に生きるよ、どこへも行かないよ」と海に呼びかけているような気がする。
自分ひとりが生きるのではない。誰かといっしょに生きたい。そう思うとき、花は大地と生きたいのだ。海で暮らす人は海で生きたいのだ。そんなことを私は思ったのである。
小さな女の子は「チボシが咲いた」という。それは「オオイヌノフグリ」。そしてそれは「地星」。違うことば(文字)が、違いながら、つながっている。そんな具合に、大地と花がつながって生きている。海と海で暮らす人は、つながって生きている。--あ、私のことばは、どこかで飛躍しているのだが、そんなことを思うのだ。
それは小さな女の子と鴛海の関係かもしれない。女の子のことば、そのことばとともに夢見ようとしているもの、それはどこかでつながっている。
草花が大地の夢を地上に運んで花として開いて見せることで生きるように、鴛海は女の子の「チボシ」という音を「地星」(地上に咲いた星)という文字にすることで、地上を星空(宇宙)につなげる。
このつながりのなかに、私は、
好き、
ということばを感じるのだ。「声」を感じるのだ。誰ものかみんな、自分の暮らしてきた「場所」が好き。その「場所」が奥にもっている何かが好き。それぞれの花は大地がもっている「星」を地上に運ぶ。それは、その大地が好きだから。
生まれ育ったところが好き、ふるさとが好き。
そういう「声」を私は聞いてしまうのだ。