詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

鴛海裕「二月と四月のあいだ」

2011-07-25 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
鴛海裕「二月と四月のあいだ」(「投壜通信」01、2011年07月10日発行)

 鴛海裕「二月と四月のあいだ」も「東日本大地震特集」のなかに置かれていなかったら違った具合に読んだかもしれない。

二月二十四日、仙台では
スノードロップが咲き始めた

地に根を張るものたちは
大きな揺れをどう受け止めたのだろう

東京の春は寒かったので
四月になってようやく
タンポポやスミレが咲いた

祖母に手を引かれた小さな女の子が
-この花は、チボシっていうんだよね
咲いていたのは、オオイヌノフグリ

四月二十七日、仙台でも
ムスカリの群生の脇に
地星が咲いていた

 ここに書かれているのは大地と花のことなのだが、私は、なぜか海と海で生きる人たちのことを思った。海は津波となって、海で生きる人たちの家や船を奪いさった。海で生きる人たちは、大地に寝起きし、そこで食べ物を食べ、海から暮らしの糧を得るということになる。何人ものいのちが奪われた。それでも、やはり海が好き--その気持ちが、なぜか、「チボシ」の花のように思えるのだ。「チボシ」にかぎらず、大地に咲く花のように思えてしまうのだ。

 鴛海は、植物、つまり「地に根を張るものたちは/大きな揺れをどう受け止めたのだろう」と問うている。この問いは「植物」だけの「思い」を問うているのだろうか。つまり、大地がゆれ、たとえばスノードロップはどう感じたか。タンポポやスミレはどう感じたか。チボシはどう思ったか。怖い、逃げたい、と思ったか。
 どうなのだろう。
 はげしくゆれる大地を感じ、自分のそばに根を張る仲間の草の不安や悲鳴を感じただろうか。
 私はなぜが、植物は、他の植物の悲鳴を聞いたのではなく、大地そのものの悲鳴を聞いたのではないのか、と思ったのだ。
 どこから、この揺れは来ているのか。遠い大地の、どこが破壊されたのか。その破壊の悲鳴を聞いて、大地こそ不安にならなかったか。
 その不安を聞いて、花は、こわがらなくていいよ、大地はまだ生きているよ。君たちの生きている証拠を地中からつかみ取って、地上に運び、美しい花にして見せるよ。いつもの春のように--花たちは、そう言っているような気がしてならないのである。

 海で暮らしている人たち、大震災のあと、津波の被害のあとも、海から離れることのできない人たちは、やはり「大丈夫だよ、海は生きているよ、その海と一緒に生きるよ、どこへも行かないよ」と海に呼びかけているような気がする。
 自分ひとりが生きるのではない。誰かといっしょに生きたい。そう思うとき、花は大地と生きたいのだ。海で暮らす人は海で生きたいのだ。そんなことを私は思ったのである。
 小さな女の子は「チボシが咲いた」という。それは「オオイヌノフグリ」。そしてそれは「地星」。違うことば(文字)が、違いながら、つながっている。そんな具合に、大地と花がつながって生きている。海と海で暮らす人は、つながって生きている。--あ、私のことばは、どこかで飛躍しているのだが、そんなことを思うのだ。
 それは小さな女の子と鴛海の関係かもしれない。女の子のことば、そのことばとともに夢見ようとしているもの、それはどこかでつながっている。
 草花が大地の夢を地上に運んで花として開いて見せることで生きるように、鴛海は女の子の「チボシ」という音を「地星」(地上に咲いた星)という文字にすることで、地上を星空(宇宙)につなげる。
 このつながりのなかに、私は、

好き、

 ということばを感じるのだ。「声」を感じるのだ。誰ものかみんな、自分の暮らしてきた「場所」が好き。その「場所」が奥にもっている何かが好き。それぞれの花は大地がもっている「星」を地上に運ぶ。それは、その大地が好きだから。
 生まれ育ったところが好き、ふるさとが好き。
 そういう「声」を私は聞いてしまうのだ。



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フェルメールからのラブレター展

2011-07-25 10:39:42 | その他(音楽、小説etc)
フェルメールからのラブレター展(京都市美術館、2011年07月20日)

 今回公開されている「手紙を読む青衣の女」は修復されたものだと言う。アムステルダムで見たとき、頬(顔)から首にかけての汚れ(?)のようなものは何だろうと思った。それは修復によってどうなったのだろうと気になって見に行った。その汚れはそのままだった。あれはいったい何なのだろう。いつついた汚れなのだろうか。
 わからないものはわからないままにして……。
 「青衣の女」というから「青」が中心の絵である。中央に光のなかで変化する「青衣」がある。左右に椅子があり、その椅子の背もたれ、座面が青い革(?)で覆われている。その椅子の青が暗い藍に近く、女の窓に向いた軽い青と美しく響いている。
 椅子の青にも諧調があって、右の椅子の背もたれの折れ曲がって陰になった部分などとても強い感じがする。深い感じがする。あ、ここも青だったのか、と今回気がついた。
 左手前の、何だろう、ベッドカバーだろうか、ソファーのカバーだろうか、そこにもほとんど黒に近い藍があって中心の青の変化をしっかりと支えている。
 しかし、私が驚いたのは、実は「青」ではない。
 背後の壁の白の変化にびっくりしてしまった。とても明るい。特に窓際が静かで透明な白に生まれ変わっている感じがした。そして、その白が、青と同様、一様ではなく光のとどく距離によって変化している。その白の変化がとても美しい。
 その白に促されて、私は、次のようなことを考えた。
 手紙を読む女のこころ、光(希望)へ向かって動いていくこころのような感じがする。女は立ち止まって手紙を読んでいるのだが、読み進むにつれて、もっとはっきり読みたい、と光のなかへ一歩足を動かす感じがする。動きを誘う白である。
 青がじっとそこにある青、滞って(?)藍にまで沈んでいくのに対し、白は、その青を誘っている。光のなかへ誘っている。それが服にも手紙をもつ手にも、女の額にも、手紙そのものにも輝いている。
 光の方向へ、左側へという動きには、壁に吊るされた地図、その地図をまっすぐに垂らすための錘(?)の存在が大きく影響しているかもしれない。先頭に丸い玉がついた鉄の棒のようなものだが、この強い水平線が、絵を動かしている。
 女の手紙を読む視線(目と手紙を結ぶ斜め左下への斜線)、それと平行するように額(頭部)と地図をまっすぐにするための鉄の棒の先頭の玉を結ぶ見えない斜線があり、ちょうどその斜線と直角に交わるように窓から光が降り注いでいるような感じがする。その二つの斜線が交叉するあたりが、絵の一番濃密な部分であり、その濃密さを安定させる形で空間が広がっている。女の右背後の壁の白、その静かな陰--あ、これも美しいなあ、と思った。

 フェルメールは他に2点。「手紙を書く女と召使い」「手紙を書く女」。
 フェルメール以外では、ヘラルト・テル・ボルフの「眠る兵士とワインを飲む女」がおもしろかった。絵というよりも、その時代の風俗が伝わってきて、楽しかった。展覧会の主眼も、「時代を伝える絵画」という点にあるようだった。
                         (10月16日まで、京都市美術館)

フェルメールの世界―17世紀オランダ風俗画家の軌跡 (NHKブックス)
クリエーター情報なし
日本放送出版協会
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