尾山景子詩集『秘草秘草』(新・北陸現代詩シリーズ、能登印刷出版部、2011年06月30日発行)
尾山景子詩集『秘草秘草』には、何か、なつかしいものがある。「母草母草」という作品。
毛布に出来た握り皺--その皺から「川」へと動いていく意識。これが、なつかしい。尾山は「視力」の人なのだろう。とても自然な感じがする。「家のそば」が、たぶん、その「視力」(視線)のあり方を象徴している。「川」そのものへと意識が集中するのではなく、その周辺を含んで「川」を見ている。その「広がり」が、なつかしさを誘い込むのかもしれない。いったん視線を広げておいて、それから「涼しい水音」というように、視線から離れる、離れることで、「広がり」を豊かにし、また視線へもどってくる。そのとき、「泥」「草」「鬱蒼」ということばの中から「透明」があらわれる。「広がり」のなかには、何か矛盾したものが混在していて、その矛盾があるからこそ、その矛盾と対極にある(?)ものが静かに動く。--「泥」「草」「鬱蒼」へと視線がさまよいながら、その反対の「透明」を発見する。
それはどういえばいいのだろうか。遠い記憶の中から、ほんとうに見たいものが静かにあらわれてくる瞬間がある--そういう瞬間と出会うなつかしさだ。
そうなのだ。尾山のことばを読むとき、私は、そこに書かれているものと「出会う」のである。そして、その「出会う」ものは、私の知っている何かなのだ。
シワは「川」から「畦道」に変わっている。そして、「水は透明」であったが、ここでは「水」が「子供」に変わって、「しゃがむと似合う」に変わっている。(透明な水も「似合う」何か立ったかもしれない。)
そんなふうに変わるのだけれど、変わらないものがある。「変わる」ということが、変わらない。--ここに、何かがあるのだと思う。なつかしい何かがあるのだと思う。変わりながら、変わらぬ何かを探すこころ--それが「なつかしい」なのかなあ。
シワはもう一度「川」に変わるが、ほんとうに「川」に変わったのか、それとも「ばあさん」に変わったのか、よくわからない。
そういえば、シワが畔にかわったときも、ほんとうに「畔」に変わったのか、それとも「しゃがむ子供」に変わったのか、はっきりしない。きっと、両方に変わったのだ。そして、その「両方」であることが、「広がり」なのだ。
この「広がり」ゆえに、私は、その「広がり」に私の好きな物を投げ込むことができる。つまり「誤読」できる。だから、尾山のこの詩が気に入っているのかもしれない。
で。
この「広がり」の中に私がほんとうに投げ入れたいもの--なつかしいなあと感じているのは、実は「死の予感」である。鬼灯ということばが出てくるが、鬼灯、その赤いちょうちんは「死の火」である。
こんなことを書くと、眠っている尾山の母には申し訳ないが--あ、この母は死ぬのだな、と思い、その死が、とてもなつかしいのだ。
もし永遠があるとしたら、それは死である。
透明な水の、その透明さは、「いのち」より「死」のにおいが強い。泥やうっそうと繁る草は生きているが、水の透明さは「死んでいる」。畔でしゃがむ子供の「しゃがむ」という姿勢が「死」である。死んでいる。それは「動かない」。だから、死んでいる。死んだ姿勢で、何かを誘っている。
変わりながら変わらぬもの--死だけは、あらゆる存在を越えて「変わらない」ものである。死んでしまっては変わることができないからである。
この死との向き合い方、その静かさが、なぜか私にはなつかしく感じられる。死を意識するこころ、死を意識することで動くことば。--あらゆることばは、死と向き合わなければならない。死と出会わなければならないのかもしれない。
「非草非草」には、とても美しいことばがある。
この「ガラス戸は、冬の海の一枚の波より重い」には、絶対的な死がある。「いのち」を超越した死がある。これは、北陸の冬の海、富山湾独特の高波を見たことがない人にはわからない感覚かもしれない。
尾山は、いつも死を「見ている」のである。
「母草母草」で、最初、尾山は「シワ」を「川」として「見ている」。その視力は「川」のように具体的なものを通り越して、ほんとうは死を見ているのだ。
死を見た記憶--それがふいに呼び出されるので、尾山の詩はなつかしく感じられる。これは不謹慎な感想かもしれないのだが、私は、きょう、そんなふうに感じたのだ。
尾山景子詩集『秘草秘草』には、何か、なつかしいものがある。「母草母草」という作品。
寒い、と言うので毛布をかけてやる。しばらくして
暑くなってきた、と言うので胸元のあたりまで毛布
をまくる。咳をする。瞬間、右手でかるく毛布の端
をにぎる。うすいシワが毛布に出来る。むかしこん
な川が家のそばに走っていて、涼しい水音が聞こえ
ていた。泥の重さや、草の間で鬱蒼とした小川では
あったが、何故か流れる水は透明であった。
母は眠っている。
毛布に出来た握り皺--その皺から「川」へと動いていく意識。これが、なつかしい。尾山は「視力」の人なのだろう。とても自然な感じがする。「家のそば」が、たぶん、その「視力」(視線)のあり方を象徴している。「川」そのものへと意識が集中するのではなく、その周辺を含んで「川」を見ている。その「広がり」が、なつかしさを誘い込むのかもしれない。いったん視線を広げておいて、それから「涼しい水音」というように、視線から離れる、離れることで、「広がり」を豊かにし、また視線へもどってくる。そのとき、「泥」「草」「鬱蒼」ということばの中から「透明」があらわれる。「広がり」のなかには、何か矛盾したものが混在していて、その矛盾があるからこそ、その矛盾と対極にある(?)ものが静かに動く。--「泥」「草」「鬱蒼」へと視線がさまよいながら、その反対の「透明」を発見する。
それはどういえばいいのだろうか。遠い記憶の中から、ほんとうに見たいものが静かにあらわれてくる瞬間がある--そういう瞬間と出会うなつかしさだ。
そうなのだ。尾山のことばを読むとき、私は、そこに書かれているものと「出会う」のである。そして、その「出会う」ものは、私の知っている何かなのだ。
電話が鳴った。その場を離れて電話のある場所へ
移動した。じきに戻ってきた。毛布のシワが変って
いる。寝返りをうったらしい。シワは、深く斜めに
入っている。むかしこんな畦道で村の子供が二、三
人じゃんけんをしたりしていた。足に力をいれると
たちまち崩れてしまう畔ではあったが、何故か村の
子供がしゃがむと似合っていた。母は眠っている。
シワは「川」から「畦道」に変わっている。そして、「水は透明」であったが、ここでは「水」が「子供」に変わって、「しゃがむと似合う」に変わっている。(透明な水も「似合う」何か立ったかもしれない。)
そんなふうに変わるのだけれど、変わらないものがある。「変わる」ということが、変わらない。--ここに、何かがあるのだと思う。なつかしい何かがあるのだと思う。変わりながら、変わらぬ何かを探すこころ--それが「なつかしい」なのかなあ。
また、電話が鳴った。その場を離れて電話のある
場所へ移動した。じきに戻ってきた。母は仰向けに
なっていた。膝を立てていた。シワはその体を横切
るようにまん中に走っている。むかしこんな深い川
には季節の花が散り、夕暮れには背中を見せた花び
らが流れて行った。そしてそのあと決まって鬼灯を
売り歩くばあさん達の行列がはじまった。川縁を歩
きながら、「鬼灯いりませんかー。鬼灯いりません
かー」、川が濁って、川底が不安だった。母は眠っ
ている。物音ひとつしない静かな部屋。電話が鳴っ
ている。
シワはもう一度「川」に変わるが、ほんとうに「川」に変わったのか、それとも「ばあさん」に変わったのか、よくわからない。
そういえば、シワが畔にかわったときも、ほんとうに「畔」に変わったのか、それとも「しゃがむ子供」に変わったのか、はっきりしない。きっと、両方に変わったのだ。そして、その「両方」であることが、「広がり」なのだ。
この「広がり」ゆえに、私は、その「広がり」に私の好きな物を投げ込むことができる。つまり「誤読」できる。だから、尾山のこの詩が気に入っているのかもしれない。
で。
この「広がり」の中に私がほんとうに投げ入れたいもの--なつかしいなあと感じているのは、実は「死の予感」である。鬼灯ということばが出てくるが、鬼灯、その赤いちょうちんは「死の火」である。
こんなことを書くと、眠っている尾山の母には申し訳ないが--あ、この母は死ぬのだな、と思い、その死が、とてもなつかしいのだ。
もし永遠があるとしたら、それは死である。
透明な水の、その透明さは、「いのち」より「死」のにおいが強い。泥やうっそうと繁る草は生きているが、水の透明さは「死んでいる」。畔でしゃがむ子供の「しゃがむ」という姿勢が「死」である。死んでいる。それは「動かない」。だから、死んでいる。死んだ姿勢で、何かを誘っている。
変わりながら変わらぬもの--死だけは、あらゆる存在を越えて「変わらない」ものである。死んでしまっては変わることができないからである。
この死との向き合い方、その静かさが、なぜか私にはなつかしく感じられる。死を意識するこころ、死を意識することで動くことば。--あらゆることばは、死と向き合わなければならない。死と出会わなければならないのかもしれない。
「非草非草」には、とても美しいことばがある。
母親が最初に立ち寄る家は、ガラス戸を引かなければならない
ガラス戸は、冬の海の一枚の波より重い
この「ガラス戸は、冬の海の一枚の波より重い」には、絶対的な死がある。「いのち」を超越した死がある。これは、北陸の冬の海、富山湾独特の高波を見たことがない人にはわからない感覚かもしれない。
尾山は、いつも死を「見ている」のである。
「母草母草」で、最初、尾山は「シワ」を「川」として「見ている」。その視力は「川」のように具体的なものを通り越して、ほんとうは死を見ているのだ。
死を見た記憶--それがふいに呼び出されるので、尾山の詩はなつかしく感じられる。これは不謹慎な感想かもしれないのだが、私は、きょう、そんなふうに感じたのだ。