詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

尾山景子詩集『秘草秘草』

2011-07-05 23:59:59 | 詩集
尾山景子詩集『秘草秘草』(新・北陸現代詩シリーズ、能登印刷出版部、2011年06月30日発行)

 尾山景子詩集『秘草秘草』には、何か、なつかしいものがある。「母草母草」という作品。

寒い、と言うので毛布をかけてやる。しばらくして
暑くなってきた、と言うので胸元のあたりまで毛布
をまくる。咳をする。瞬間、右手でかるく毛布の端
をにぎる。うすいシワが毛布に出来る。むかしこん
な川が家のそばに走っていて、涼しい水音が聞こえ
ていた。泥の重さや、草の間で鬱蒼とした小川では
あったが、何故か流れる水は透明であった。
母は眠っている。

 毛布に出来た握り皺--その皺から「川」へと動いていく意識。これが、なつかしい。尾山は「視力」の人なのだろう。とても自然な感じがする。「家のそば」が、たぶん、その「視力」(視線)のあり方を象徴している。「川」そのものへと意識が集中するのではなく、その周辺を含んで「川」を見ている。その「広がり」が、なつかしさを誘い込むのかもしれない。いったん視線を広げておいて、それから「涼しい水音」というように、視線から離れる、離れることで、「広がり」を豊かにし、また視線へもどってくる。そのとき、「泥」「草」「鬱蒼」ということばの中から「透明」があらわれる。「広がり」のなかには、何か矛盾したものが混在していて、その矛盾があるからこそ、その矛盾と対極にある(?)ものが静かに動く。--「泥」「草」「鬱蒼」へと視線がさまよいながら、その反対の「透明」を発見する。
 それはどういえばいいのだろうか。遠い記憶の中から、ほんとうに見たいものが静かにあらわれてくる瞬間がある--そういう瞬間と出会うなつかしさだ。
 そうなのだ。尾山のことばを読むとき、私は、そこに書かれているものと「出会う」のである。そして、その「出会う」ものは、私の知っている何かなのだ。

 電話が鳴った。その場を離れて電話のある場所へ
移動した。じきに戻ってきた。毛布のシワが変って
いる。寝返りをうったらしい。シワは、深く斜めに
入っている。むかしこんな畦道で村の子供が二、三
人じゃんけんをしたりしていた。足に力をいれると
たちまち崩れてしまう畔ではあったが、何故か村の
子供がしゃがむと似合っていた。母は眠っている。

 シワは「川」から「畦道」に変わっている。そして、「水は透明」であったが、ここでは「水」が「子供」に変わって、「しゃがむと似合う」に変わっている。(透明な水も「似合う」何か立ったかもしれない。)
 そんなふうに変わるのだけれど、変わらないものがある。「変わる」ということが、変わらない。--ここに、何かがあるのだと思う。なつかしい何かがあるのだと思う。変わりながら、変わらぬ何かを探すこころ--それが「なつかしい」なのかなあ。

 また、電話が鳴った。その場を離れて電話のある
場所へ移動した。じきに戻ってきた。母は仰向けに
なっていた。膝を立てていた。シワはその体を横切
るようにまん中に走っている。むかしこんな深い川
には季節の花が散り、夕暮れには背中を見せた花び
らが流れて行った。そしてそのあと決まって鬼灯を
売り歩くばあさん達の行列がはじまった。川縁を歩
きながら、「鬼灯いりませんかー。鬼灯いりません
かー」、川が濁って、川底が不安だった。母は眠っ
ている。物音ひとつしない静かな部屋。電話が鳴っ
ている。

 シワはもう一度「川」に変わるが、ほんとうに「川」に変わったのか、それとも「ばあさん」に変わったのか、よくわからない。
 そういえば、シワが畔にかわったときも、ほんとうに「畔」に変わったのか、それとも「しゃがむ子供」に変わったのか、はっきりしない。きっと、両方に変わったのだ。そして、その「両方」であることが、「広がり」なのだ。
 この「広がり」ゆえに、私は、その「広がり」に私の好きな物を投げ込むことができる。つまり「誤読」できる。だから、尾山のこの詩が気に入っているのかもしれない。

 で。

 この「広がり」の中に私がほんとうに投げ入れたいもの--なつかしいなあと感じているのは、実は「死の予感」である。鬼灯ということばが出てくるが、鬼灯、その赤いちょうちんは「死の火」である。
 こんなことを書くと、眠っている尾山の母には申し訳ないが--あ、この母は死ぬのだな、と思い、その死が、とてもなつかしいのだ。
 もし永遠があるとしたら、それは死である。
 透明な水の、その透明さは、「いのち」より「死」のにおいが強い。泥やうっそうと繁る草は生きているが、水の透明さは「死んでいる」。畔でしゃがむ子供の「しゃがむ」という姿勢が「死」である。死んでいる。それは「動かない」。だから、死んでいる。死んだ姿勢で、何かを誘っている。
 変わりながら変わらぬもの--死だけは、あらゆる存在を越えて「変わらない」ものである。死んでしまっては変わることができないからである。
 この死との向き合い方、その静かさが、なぜか私にはなつかしく感じられる。死を意識するこころ、死を意識することで動くことば。--あらゆることばは、死と向き合わなければならない。死と出会わなければならないのかもしれない。

 「非草非草」には、とても美しいことばがある。

母親が最初に立ち寄る家は、ガラス戸を引かなければならない
ガラス戸は、冬の海の一枚の波より重い

 この「ガラス戸は、冬の海の一枚の波より重い」には、絶対的な死がある。「いのち」を超越した死がある。これは、北陸の冬の海、富山湾独特の高波を見たことがない人にはわからない感覚かもしれない。
 尾山は、いつも死を「見ている」のである。

 「母草母草」で、最初、尾山は「シワ」を「川」として「見ている」。その視力は「川」のように具体的なものを通り越して、ほんとうは死を見ているのだ。
 死を見た記憶--それがふいに呼び出されるので、尾山の詩はなつかしく感じられる。これは不謹慎な感想かもしれないのだが、私は、きょう、そんなふうに感じたのだ。


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J・J・エイブラムス監督「スーパーエイト」(★★★★)

2011-07-05 22:05:15 | 映画
 監督 J・J・エイブラムス 出演 エル・ファニング、カイル・チャンドラー

 J・J・エイブラムスはなかなかずるい監督である。この映画が一番ずるいのは、映画の舞台の年代を1970年代の後半(1980年代のはじめ?)に設定したことである。「ウォークマン」が登場した時代である。このころの映画は、(といっても、私ももう正確には思い出せないのだけれど)、いまのようにCGが全盛ではなかった。映像が「手作り」だった。その雰囲気を巧みに取り入れている。それが非常に懐かしい感じ、懐かしさを誘うのである。
 もちろん冒頭近くの列車の脱線や、事故現場を逃げ回る子供たちなど、非現実的すぎて、嘘丸出しのシーンもあるのだが、8ミリカメラで映画を撮るという子供たちを登場させることで、「特撮(と、あえて言っておこう)」という雰囲気を出している。小道具の「花火(火薬)」や模型の爆破話が巧みに組み合わされ、いま、スクリーンで展開されているシーンもそうやって撮ったのだと思わせている。
 映画中映画(子供たちの撮っている映画)の「手作り」感じが映画全体を乗っ取っている。「スーパーエイト」はJ・J・エイブラムスが撮っているのだけれど、この映画のなかの子供が「ゾンビ」映画ではなく、この「スーパーエイト」そのものを撮っているという「誤解」を引き起こすような感じで映像がつくられている。
 エイリアン映画? パニック映画--何と呼んでもいいのだが、「スーパーエイト」のメインのストーリーを無視して、「映画をつくることは楽しい」「映画を撮るのはこんなにおもしろい」という喜びを前面に押し出している。
 「ET+スタンドバイミー」のような映画と言われているけれど、むしろ、「ぼくらの未来へ逆廻転」の方が近い。「映画をつくる喜び」、嘘をつくってみんなを驚かせるという気持ちの方が強くでている。子供たちのつくる映画の中で「監督」が何度も「クオリティーが高くなる」というようなことを言うが、「クオリティー」を手に入れる喜びがあふれている。CG全盛の時代にあって、CGにはない「クオリティー」を追求しようとして、あえてウォークマンの時代へ逆戻りし、「手触り」を重視している。「手作り」を重視している。ゾンビの「化粧」や「血糊」などをていねいに描くことで、「人間」の「手作業」を見せている。途中にさらりと出てくる「模型の色」、グレーだけでも十数種類ある、というような「肉眼」の強調が、とてもおもしろい。
 これは、演じる側(映画にでる役者の側)にも同じことがいえるかもしれない。CGをつかわず、フィルムがまわっているあいだの一発勝負の楽しさ。これは、いいなあ。
 この映画の子役のうまさにはびっくりするが、特に、エル・ファニングがすばらしい。刑事の妻の役で、夫を心配する演技のリハーサルのときの完璧さ。映画の中で芝居をするという複雑な演技のなかで、このときは、それがそのまま映画としてつかえる完璧な演技をする。しかし、それはあくまで、子供たちのつくった「映画」のなかではなく、J・J・エイブラムスのつくっている映画の中での芝居。(あ、この映画を見ていない人には、きっと何がなんだかわかりにくい文章になっていると思うが……。)それとは別に、子供のつくった「映画」のなかでは、エル・ファニングは迫真の演技ではなく、あくまで子供が映画をつくっているという演技--つまり、あまい演技、学芸会よりは上手だが、学芸会の雰囲気を残した演技をしている。これは他の登場人物も同じである。この「スーパーエイト」と「ゾンビ」の映画での、芝居の切り替え--これが、すばらしい。
 現実があって、芝居がある。この映画では「現実」も芝居なのだけれど……。その現実と芝居の違い、「現実」のようにして「映画」をつくること、その「嘘」の喜び。「いま/ここ」にないものを映像の力を借りてつくってしまう喜び。
 いいなあ、これ。
 映画の最後、クレジット部分で、子供たちのつくった(といっても、J・J・エイブラムスがつくっているのだけれど)映画が上映される。子供っぽくて、偽物っぽくて、とてもいい。最後の最後に、その子供の映画のクレジット(?)にもひとつ仕掛けがあって、それも映画をつくる側のお遊び、喜びにあふれている。
 映画にしろ、何にしろ、ものをつくる喜びとは、自分の手で何かを工夫する喜びである。肉体を動かして、いま、ここになっかたものを生み出すという喜びである。

 だからね、
 「スーパーエイト」に戻ってしまうと、ちょっとつまらない。かなり、つまらない。最後は「ET」そのものになってしまうからねえ。
 だからね、(と私はもう一度書いてしまう)
 この映画は「エイリアン」の話ではないんです。タイトルが象徴しているように「8ミリカメラ」で映画を撮って、遊ぶストーリーなんです。映画を撮って(つくって)遊ぶ楽しさの延長線上に、この映画ができあがっているのです。子供のとき8ミリカメラで映画をつくって遊んだからこそ、J・J・エイブラムスは映画を撮る仕事をしているんですという「自伝」映画なのだ。「エイリアン」はお飾り。「宇宙船」もお飾り。「家族」のお話もお飾り。「お飾り」を無視して、映画を見てね。懐かしくて、涙が出てくるかも。





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