詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

青山みゆき「ホウレン草」

2011-07-22 23:59:59 | 詩集
青山みゆき「ホウレン草」(「投壜通信」01、2011年07月10日発行)

 「投壜通信」01号は「東日本大地震特集1」を組んでいる。「1」というのだから、今後2、3があるのかもしれない。
 和合亮一の「詩の礫」、さらにはいろいろな詩人が書いた詩からどんなふうにことばは変わってきているか。

 青山みゆき「ホウレン草」が一番印象に残った。

根っこが少し白かった
背がやけに高かった
茎ががっしりしていた
葉っぱの先まで青々としていた

ホウシャノウ、
口にするとガンになる、
ひとびとは皆
大声で言いふらした

農家の者たちは
ホウレンソウをむしって捨てた
それから暗い家にかくれてうめいた

畑は空っぽになった

 これは放射能がホウレンソウから検出された問題をテーマにしている。放射能が残留したホウレンソウを食べると健康に影響する。どれくらいの放射能がどれくらい影響するのか、まだ完全に実証されているわけではないが、風評も影響し、結局は売れない。それで農家の人たちは丹精こめて育てたホウレンソウを廃棄するしかなかったという「事実」を書いている。農家の人たちの悲しみと怒りを書いている。
 そう理解した上で、私はあえて「誤読」するのだが……。

ホウシャノウ、
口にするとガンになる、

 ここに書かれている「口にする」は「食べる」である。だが、私にはどうしても「ことばにする」という意味の「口にする」というふうに読めてしまうのである。
 放射能で汚染された野菜(食物)を食べるというのではなく、食べなくても、「ホウシャノウ」とことばにするだけで、人はガンになる。
 そして、そういう「うわさ(?)」を口にする(ことばにする)人たちは、思っているのである。
 放射能などということばを知らなければよかった。放射能というものの存在を知らなければよかった。そんな不気味なものに「名前」をつける必要のない暮らしなら、つまり、そんなことばが流通しない暮らしなら、どんなによかっただろう--人はそう思って泣いているのである。
 放射能は自然界にもあるのだが、いま、問題になっているのは、「人工的」に作り出された存在。科学の力によって生み出され、名前をつけられた「放射能」である。科学の力によって生み出されなければ、それは「名前」をつけられることもなく、ホウレンソウを汚染することもなかったのだ。
 名前をつける--名前をつけることで、ある存在を、はっきりと存在させてしまう。そこから始まる新しい「悲劇」。
 そういうことを私は思ったのである。

 それにしても、何と不思議なことだろう。
 「放射能」と書くと、こんな「誤解」は起きないのだが、青山が書いているようにカタカナで「ホウシャノウ」と書くと、「ホウシャノウ」は「ホウレンソウ」と非常に似てくる。
 「ホウレンソウ」を口にする(食べる)ことは「ホウシャノウ」を口にする(食べる)と同じことである--この不思議な一致(?)が、何と言えばいいのか、見えないはずの「放射能」を見えるように感じさせる。
 「放射能」は、あえていえば「ことば」によってそこに存在しているだけだったのが、いまや、「ことば」だけではなく、(科学的な概念ではなく)、「もの」として存在するようになっている。
 そんなことも感じさせる。

 「ホウシャノウ」は、

根っこが少し白かった
背がやけに高かった
茎ががっしりしていた
葉っぱの先まで青々としていた

 あ、目の前の「ホウレンソウ」そのものとして、そこに存在している。「ホウレンソウ」と「ホウシャノウ」は同じではないのだけれど、いま、同じものになっている。「ホウシャノウ」は見えないけれど「ホウレンソウ」は見える。
 同じようなことが、「牛肉」にも起きている。放射能で汚染された藁を食べた牛。その牛肉は、もう「牛肉」ではなく「ホウシャノウ」である。
 「ホウシャノウ」は見えるものになった--これが、東北大震災後、福島大一原発以後の、一番大きな変化である。
 和合亮一が「詩の礫」を書いていたとき、それは見えなかった。でも、青山が「ホウレン草」を書くときには、見えるものになっていたのだ。




西風
青山 みゆき
思潮社



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