伊与部恭子「家」(「something 」13、2011年06月30日発行)
何かわからないものがある。そのわからないものと詩人はどう向き合うか。きのう読んだ田島安江は「クジラ」(空飛ぶクジラ)ということばで「何か」を呼んでいた。そのとき、ちょっと不思議なことが起きていた。「クジラ」は詩のテーマになってもよさそうなのに、テーマは「クジラ」ではなく、「わたし」と「あの人」の関係だった。いや、田島は「クジラ」を書いたのかもしれないが、私は「クジラ」よりも、「わたし」と「あの人」の関係、さらには「あの人」をめぐる「わたし」の感情の方に関心が動いてしまい、「クジラ」を忘れてしまった。
これは、いいこと? 悪いこと? 言い換えると、私の読み方でよかったのか、悪かったのか。まあ、私は「誤読」をするのが一種の生きがいだから「間違い」だと指摘されても、感想を訂正する気持ちはないのだけれど……。
伊与部恭子「家」にも、わけのわからないものが出てくる。
ここに書かれている「死体」は「ほんとう」(ほんもの)ではない。田島の「クジラ」と同様「比喩」(あるいは象徴)である。「比喩」というのは「いま/ここにあるもの」を、「いま/ここにないもの」を引用することで強烈に印象づけることばの運動である。--もし「比喩」をそう定義していいなら、「死体」(あるいは「クジラ」)は「比喩」なのだろうか。
違うなあ。
伊与部も田島も、「いま/ここにあるもの」を「死体」「クジラ」と呼ぶことで、より印象の強いものにしようとしているとは言えない。むしろ「いま/ここにないもの」を、むりやり「ことば」を借りてきて、そこに出現させようとしている。
何のために?
わからない。
どこから? どこから、その「ことば」(つまり「死体」「クジラ」)をもってきた? わからないけれど、「ことば」の記憶だ。伊与部は「死体」ということばを知っている。「存在」も知っている。田島は「クジラ」を知っている。ことばを知っているということは、「存在」を知っているということであり、また、その「存在」が人に与える印象もなんとなく知っている。「存在」が伊与部、田島に与える印象を知っている。--同じことを何度も書いてしまうが、「死体」「クジラ」ということばをつかうとき、伊与部、田島はなんらかの印象を持っている。「こころ」のなかか、「頭」のなかかはわからないが、なんらかの印象(思い)が「死体」「クジラ」と一緒にあるはずだ。
その「印象」がそれではどういうものか--というのは書いている詩人にも、たぶんわからない。だから、書くこと、「死体」と書き、「クジラ」と書くことで、「こころ(あるいは頭)」のなかにあるものが動きだし、はっきりしてくるのを待っているのである。自分ではわからないから、ことばが動きだして、ことば自身で「答え」を見つけるのを待っているのかもしれない。
でも。
「答え」なんて、やっぱり、出てこないのではないのか。
たとえば伊与部が「死体」とは何か、そのことばであらわしたい何かとは何かは、この詩を読んでも私にはわからない。
「死体」が何であるかわからないのだけれど。
変なものを見つけて「警察に連絡する」というこころの動きはわかる。「対処する」といういいかげんな反応に対する気持ちもわかる。現場へ行ったけれど「死体」は見たくないので、目をそらすという気持ちはわかる。そして、それが「ほんもの」であるかどうかはっきりしないけれど、そこに見慣れないものがあれば、あそこに死体があるのだなと思う気持ちもわかる。そういうことを思い込むきっかけになったのが「黒っぽい布を纏ったもの」(つまり隠されたもの)、「柔らかそうな塊」(まだ死んで間もなくて、温かいかも、なんて想像たかも)だったということは、とてもよくわかる。
おもしろいでしょ?
わからないことが書いてあるはずなのに、そのひとつひとつはわかる。
田島の「クジラ」も「クジラ」が何かわからなかったけれど、「わたし」と「あの人」のやりとり、あれこれはわかる。
わからないことが書いてあると、わかることを探して読んでしまう。
待望の家が完成した。かれど、ある部屋はめったにつかわない--そういうことがある。そういうことがあるのは、わかる。
「死体」かどうかわからないけれど、どこの家庭にも「そういうこと」はある、どこの家庭にもあるというような話もよく聞く。体験する。
さらには「家人」が「あれ」ということばで、何かを語ることもよくある。
伊与部の詩には「わかる」ことばかりが書かれている。「死体」がわからないので、「わかる」ことが逆に鮮明になる。
どこの家庭(家)にもある、ありふれたあれこれ。--それを浮かび上がらせるために、「死体」はわざと書かれているのだ。
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何かわからないものがある。そのわからないものと詩人はどう向き合うか。きのう読んだ田島安江は「クジラ」(空飛ぶクジラ)ということばで「何か」を呼んでいた。そのとき、ちょっと不思議なことが起きていた。「クジラ」は詩のテーマになってもよさそうなのに、テーマは「クジラ」ではなく、「わたし」と「あの人」の関係だった。いや、田島は「クジラ」を書いたのかもしれないが、私は「クジラ」よりも、「わたし」と「あの人」の関係、さらには「あの人」をめぐる「わたし」の感情の方に関心が動いてしまい、「クジラ」を忘れてしまった。
これは、いいこと? 悪いこと? 言い換えると、私の読み方でよかったのか、悪かったのか。まあ、私は「誤読」をするのが一種の生きがいだから「間違い」だと指摘されても、感想を訂正する気持ちはないのだけれど……。
伊与部恭子「家」にも、わけのわからないものが出てくる。
建築中の新居に死体がある と家人が言った
警察に連絡すると対処すると言われたがすぐにではないらしい。現場へ下見に行っても死体は見たくないので屋根の辺りにばかり目を泳がせていたが 黒っぽい布を纏った柔らかそうな塊が視界の端をかすめたので やはり在るらしい。
それを内に収めたまま壁が張られ 戸が填め込まれて新居は完成した。
幸いそれがあるのは裏手の土間で 普段は入ることもない。
しかし気になって友人に相談すると「うちにもあるよ」と事も無げに言った。何処の家にも一つや二つあるものだそうだ。
日々の忙しさにまぎれ 最近では死体と一緒に暮らしていることなどすっかり忘れているが 時折家人が炬燵で蜜柑を剥きながら「あれ 最近幸せそうな顔をしている」などと言うことがある。
ここに書かれている「死体」は「ほんとう」(ほんもの)ではない。田島の「クジラ」と同様「比喩」(あるいは象徴)である。「比喩」というのは「いま/ここにあるもの」を、「いま/ここにないもの」を引用することで強烈に印象づけることばの運動である。--もし「比喩」をそう定義していいなら、「死体」(あるいは「クジラ」)は「比喩」なのだろうか。
違うなあ。
伊与部も田島も、「いま/ここにあるもの」を「死体」「クジラ」と呼ぶことで、より印象の強いものにしようとしているとは言えない。むしろ「いま/ここにないもの」を、むりやり「ことば」を借りてきて、そこに出現させようとしている。
何のために?
わからない。
どこから? どこから、その「ことば」(つまり「死体」「クジラ」)をもってきた? わからないけれど、「ことば」の記憶だ。伊与部は「死体」ということばを知っている。「存在」も知っている。田島は「クジラ」を知っている。ことばを知っているということは、「存在」を知っているということであり、また、その「存在」が人に与える印象もなんとなく知っている。「存在」が伊与部、田島に与える印象を知っている。--同じことを何度も書いてしまうが、「死体」「クジラ」ということばをつかうとき、伊与部、田島はなんらかの印象を持っている。「こころ」のなかか、「頭」のなかかはわからないが、なんらかの印象(思い)が「死体」「クジラ」と一緒にあるはずだ。
その「印象」がそれではどういうものか--というのは書いている詩人にも、たぶんわからない。だから、書くこと、「死体」と書き、「クジラ」と書くことで、「こころ(あるいは頭)」のなかにあるものが動きだし、はっきりしてくるのを待っているのである。自分ではわからないから、ことばが動きだして、ことば自身で「答え」を見つけるのを待っているのかもしれない。
でも。
「答え」なんて、やっぱり、出てこないのではないのか。
たとえば伊与部が「死体」とは何か、そのことばであらわしたい何かとは何かは、この詩を読んでも私にはわからない。
「死体」が何であるかわからないのだけれど。
変なものを見つけて「警察に連絡する」というこころの動きはわかる。「対処する」といういいかげんな反応に対する気持ちもわかる。現場へ行ったけれど「死体」は見たくないので、目をそらすという気持ちはわかる。そして、それが「ほんもの」であるかどうかはっきりしないけれど、そこに見慣れないものがあれば、あそこに死体があるのだなと思う気持ちもわかる。そういうことを思い込むきっかけになったのが「黒っぽい布を纏ったもの」(つまり隠されたもの)、「柔らかそうな塊」(まだ死んで間もなくて、温かいかも、なんて想像たかも)だったということは、とてもよくわかる。
おもしろいでしょ?
わからないことが書いてあるはずなのに、そのひとつひとつはわかる。
田島の「クジラ」も「クジラ」が何かわからなかったけれど、「わたし」と「あの人」のやりとり、あれこれはわかる。
わからないことが書いてあると、わかることを探して読んでしまう。
待望の家が完成した。かれど、ある部屋はめったにつかわない--そういうことがある。そういうことがあるのは、わかる。
「死体」かどうかわからないけれど、どこの家庭にも「そういうこと」はある、どこの家庭にもあるというような話もよく聞く。体験する。
さらには「家人」が「あれ」ということばで、何かを語ることもよくある。
伊与部の詩には「わかる」ことばかりが書かれている。「死体」がわからないので、「わかる」ことが逆に鮮明になる。
どこの家庭(家)にもある、ありふれたあれこれ。--それを浮かび上がらせるために、「死体」はわざと書かれているのだ。
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