川上明日夫『川上明日夫詩集』(思潮社、現代詩文庫192 、2011年06月20日発行)
私は川上明日夫の詩をほとんど読んだことがない。『川上明日夫詩集』ではじめて読むといった方が正確である。読みはじめてすぐ、この詩人は「意味」ではなく「音」を書いている、呼吸を書いていると感じた。
「あなたはひくくたれこめて」には「あ」の音が響いている。
女と部屋にいる。そしてセックスをする。性器と性器が結合するまでのセックスが描かれているのだと思うが、肉体がたしかに結合する前に、喉が開かれ、そこから「声」がもれている。「あ」。一番、開放的な音。「声」を隠したくないのだ。あるいは「声」をたよりに、肉体を動かして行きたいのだ。
「あなた」「はな」「あなた」「あなた」「わたし」「やかん」「あなた」「わたし」と「あ」の音がつづく。「やさい」と意地悪な感じで「レタス」とシンコペーションするみたいに「た」のなかに「あ」が動いてゆく。そのあと「あげられない」とふたたび「あ」があらわれ……。
「あ」の音がほんとうに好きなのだと思う。(詩を読み進むと「ああ」という感嘆のことばがしきりに出てくる。)
ここには「意味」はない。ただ、「声」を出すこと、「声」がたぶん「感情」をつくっていくのである。感情が「声」をつくるのではなく、「声」が感情をつくる。それは、この詩が、実際に性交する前に、しきりに「あ」の音を発するところに象徴的にあらわれている。
「あ」と「声」を出せば、そこから「ああ」が始まり、性交が快感へと疾走するのである。
しかし、この「あ」は、私にはなんだか気持ちが悪い。
「あげられない」(あげる)ということばの「あ」のせいかもしれない。妙にやさしい。俗なことばでいうと、女っぽい。
抵抗感がない。
川上は美しい「音」が好きなのだ--ということはわかるが、その「美しい音が好き」という感情(?)、思想(?)を追いつづけるのは、ちょっと疲れる。
しかし、この印象は『月見草を染めて』という詩集から少し変わる。(しかし、この詩集のタイトルは、とても気持ちが悪い。「音」になりきれていない--と私は思う。感じる。)
「道守荘、狐川まで」がおもしろい。
ことば(音)が「しりとり」のように繰り返される。「水映し 水添い/添いきれなかった想いを」という2行では「水/水」「添い/添い」と緊密に動き、そのあと「澄ます」があらわれて、冒頭まで「音」が戻る。戻ることで、そこに不思議な「完結」が生まれる。「閉じる」ことで、その閉じられた世界のなかで「音」が「和音」になる--そういう感じがするのだ。
途中にはさまれる「想い」は「添い」の「お・い」と結びついているのだが--あ、これは、気持ちが悪い。
だけれど、そのほかが楽しいので、まあ、我慢して読んでしまう。
そして「澄ます」が次の瞬間、ぱっと変わる。(あえて、もう一度前から引用しなおす。)
この「住ます」のあとの「地平(とち)」の発見がすばらしく美しい。
「とち」というのは「私」ではない。「肉体」ではない。それは「私の肉体」を無視して存在する「もの」である。「とち」には名前があるが、それは「私の肉体」よりも前から存在している。そこに住んでいる「他人」発した「音」である。つまり「あ」のように、「私の声」とは無関係な「音」をもっている。その強い音に、川上の「あ」の音への偏執的な愛が洗い流されるとでも言えばいいのだろうか。
突然の「狐川」ということば、「音」が「もの」そのものとして存在している。「音」の肉体がそこにある。それが美しい。
この音の肉体に出会って、川上の「肉体の音」はうろたえる。必死になって、「肉体の音」を響かせようとする。
「音」のなかに「感情」をつくろうと懸命である。同じ感じがしばらくつづくのだが……。
また、川上の「肉体の音(声)」を蹴散らすように、「音の肉体」が噴出してくる。
いいなあ。
「音の力」。自分(川上)のものではない「音の力」。そこに住んでいる誰かが(その誰か以前の祖先が)繰り返すことで作り上げた「音」。
「あ」のように単純というか、純粋というか、まだ何にも染まっていない「音」ではなく、繰り返されることで濁った音。濁ることで共有された音。「他人の音」。
「他人の音」の中には「他人の地平」がある。川上は「地平」を「とち」と読んでいるが、私は、それを「ちへい」と読み替えたい。
川上は、土地の名前をとおして、他人に出会ったのだ。そしてその他人は「他人の音」でもあるのだ。
ここから川上は変わっていく--そういう印象が直感のようにして、私に向かってやってくる。
この2行と一緒に。
私は川上明日夫の詩をほとんど読んだことがない。『川上明日夫詩集』ではじめて読むといった方が正確である。読みはじめてすぐ、この詩人は「意味」ではなく「音」を書いている、呼吸を書いていると感じた。
「あなたはひくくたれこめて」には「あ」の音が響いている。
あなたはひくくたれこめて
ゆたかに
花の方法で眼を閉じる
この部屋 満ちている
苦しい秘密
脱ぎながら
何もいわないで死んでゆく
あなたの気持ち
つーと白い手がのびてくる
あなたから
わたしへの夜間飛行
そんな あなたに
私は野菜(レタス)さえもあげられない
春のようにとても美味しい殺人
女と部屋にいる。そしてセックスをする。性器と性器が結合するまでのセックスが描かれているのだと思うが、肉体がたしかに結合する前に、喉が開かれ、そこから「声」がもれている。「あ」。一番、開放的な音。「声」を隠したくないのだ。あるいは「声」をたよりに、肉体を動かして行きたいのだ。
「あなた」「はな」「あなた」「あなた」「わたし」「やかん」「あなた」「わたし」と「あ」の音がつづく。「やさい」と意地悪な感じで「レタス」とシンコペーションするみたいに「た」のなかに「あ」が動いてゆく。そのあと「あげられない」とふたたび「あ」があらわれ……。
さつじん(殺人)
「あ」の音がほんとうに好きなのだと思う。(詩を読み進むと「ああ」という感嘆のことばがしきりに出てくる。)
ここには「意味」はない。ただ、「声」を出すこと、「声」がたぶん「感情」をつくっていくのである。感情が「声」をつくるのではなく、「声」が感情をつくる。それは、この詩が、実際に性交する前に、しきりに「あ」の音を発するところに象徴的にあらわれている。
「あ」と「声」を出せば、そこから「ああ」が始まり、性交が快感へと疾走するのである。
しかし、この「あ」は、私にはなんだか気持ちが悪い。
「あげられない」(あげる)ということばの「あ」のせいかもしれない。妙にやさしい。俗なことばでいうと、女っぽい。
抵抗感がない。
川上は美しい「音」が好きなのだ--ということはわかるが、その「美しい音が好き」という感情(?)、思想(?)を追いつづけるのは、ちょっと疲れる。
しかし、この印象は『月見草を染めて』という詩集から少し変わる。(しかし、この詩集のタイトルは、とても気持ちが悪い。「音」になりきれていない--と私は思う。感じる。)
「道守荘、狐川まで」がおもしろい。
酒を澄ます
手のひらの
丸い淋しさを利く
水映し 水添い
添いきれなかった想いを
じっと 澄ます
ことば(音)が「しりとり」のように繰り返される。「水映し 水添い/添いきれなかった想いを」という2行では「水/水」「添い/添い」と緊密に動き、そのあと「澄ます」があらわれて、冒頭まで「音」が戻る。戻ることで、そこに不思議な「完結」が生まれる。「閉じる」ことで、その閉じられた世界のなかで「音」が「和音」になる--そういう感じがするのだ。
途中にはさまれる「想い」は「添い」の「お・い」と結びついているのだが--あ、これは、気持ちが悪い。
だけれど、そのほかが楽しいので、まあ、我慢して読んでしまう。
そして「澄ます」が次の瞬間、ぱっと変わる。(あえて、もう一度前から引用しなおす。)
水映し 水添い
添いきれなかった想いを
じっと 澄ます
住ます
ここは旅ふかい地平(とち)
手紙のうえに いま
ぽつりと秋がのぼった
芒ゆれ
狐川
この「住ます」のあとの「地平(とち)」の発見がすばらしく美しい。
「とち」というのは「私」ではない。「肉体」ではない。それは「私の肉体」を無視して存在する「もの」である。「とち」には名前があるが、それは「私の肉体」よりも前から存在している。そこに住んでいる「他人」発した「音」である。つまり「あ」のように、「私の声」とは無関係な「音」をもっている。その強い音に、川上の「あ」の音への偏執的な愛が洗い流されるとでも言えばいいのだろうか。
突然の「狐川」ということば、「音」が「もの」そのものとして存在している。「音」の肉体がそこにある。それが美しい。
この音の肉体に出会って、川上の「肉体の音」はうろたえる。必死になって、「肉体の音」を響かせようとする。
あなたの恨みにひときわ
涼やかに酔い
ただ
夢いきれ染め さらに
月 鎮め
ああ 遠いどこかで 何処かで
また こんな夜
あなたの悲鳴も堕ちていった
「音」のなかに「感情」をつくろうと懸命である。同じ感じがしばらくつづくのだが……。
深々と
水を張るのだ
伏目のように拡げる仕草で
それから 身をおこすと
女は
折りめただしく四方へ
枯れていった
越前(えちぜん) 道守荘(ちもりのしょう) 社郷(やしろのさと)
狐川
また、川上の「肉体の音(声)」を蹴散らすように、「音の肉体」が噴出してくる。
いいなあ。
「音の力」。自分(川上)のものではない「音の力」。そこに住んでいる誰かが(その誰か以前の祖先が)繰り返すことで作り上げた「音」。
「あ」のように単純というか、純粋というか、まだ何にも染まっていない「音」ではなく、繰り返されることで濁った音。濁ることで共有された音。「他人の音」。
「他人の音」の中には「他人の地平」がある。川上は「地平」を「とち」と読んでいるが、私は、それを「ちへい」と読み替えたい。
川上は、土地の名前をとおして、他人に出会ったのだ。そしてその他人は「他人の音」でもあるのだ。
ここから川上は変わっていく--そういう印象が直感のようにして、私に向かってやってくる。
越前 道守荘 社郷
狐川
この2行と一緒に。
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