詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

川上明日夫『川上明日夫詩集』

2011-07-29 23:59:59 | 詩集
川上明日夫『川上明日夫詩集』(思潮社、現代詩文庫192 、2011年06月20日発行)

 私は川上明日夫の詩をほとんど読んだことがない。『川上明日夫詩集』ではじめて読むといった方が正確である。読みはじめてすぐ、この詩人は「意味」ではなく「音」を書いている、呼吸を書いていると感じた。
 「あなたはひくくたれこめて」には「あ」の音が響いている。

あなたはひくくたれこめて
        ゆたかに
花の方法で眼を閉じる
この部屋 満ちている
苦しい秘密
脱ぎながら
何もいわないで死んでゆく

あなたの気持ち

つーと白い手がのびてくる
あなたから
わたしへの夜間飛行
そんな あなたに
私は野菜(レタス)さえもあげられない

春のようにとても美味しい殺人

 女と部屋にいる。そしてセックスをする。性器と性器が結合するまでのセックスが描かれているのだと思うが、肉体がたしかに結合する前に、喉が開かれ、そこから「声」がもれている。「あ」。一番、開放的な音。「声」を隠したくないのだ。あるいは「声」をたよりに、肉体を動かして行きたいのだ。
 「あなた」「はな」「あなた」「あなた」「わたし」「やかん」「あなた」「わたし」と「あ」の音がつづく。「やさい」と意地悪な感じで「レタス」とシンコペーションするみたいに「た」のなかに「あ」が動いてゆく。そのあと「あげられない」とふたたび「あ」があらわれ……。

さつじん(殺人)

 「あ」の音がほんとうに好きなのだと思う。(詩を読み進むと「ああ」という感嘆のことばがしきりに出てくる。)
 ここには「意味」はない。ただ、「声」を出すこと、「声」がたぶん「感情」をつくっていくのである。感情が「声」をつくるのではなく、「声」が感情をつくる。それは、この詩が、実際に性交する前に、しきりに「あ」の音を発するところに象徴的にあらわれている。
 「あ」と「声」を出せば、そこから「ああ」が始まり、性交が快感へと疾走するのである。

 しかし、この「あ」は、私にはなんだか気持ちが悪い。
 「あげられない」(あげる)ということばの「あ」のせいかもしれない。妙にやさしい。俗なことばでいうと、女っぽい。
 抵抗感がない。
 川上は美しい「音」が好きなのだ--ということはわかるが、その「美しい音が好き」という感情(?)、思想(?)を追いつづけるのは、ちょっと疲れる。

 しかし、この印象は『月見草を染めて』という詩集から少し変わる。(しかし、この詩集のタイトルは、とても気持ちが悪い。「音」になりきれていない--と私は思う。感じる。)
 「道守荘、狐川まで」がおもしろい。

酒を澄ます
手のひらの
丸い淋しさを利く
水映し 水添い
添いきれなかった想いを
じっと 澄ます

 ことば(音)が「しりとり」のように繰り返される。「水映し 水添い/添いきれなかった想いを」という2行では「水/水」「添い/添い」と緊密に動き、そのあと「澄ます」があらわれて、冒頭まで「音」が戻る。戻ることで、そこに不思議な「完結」が生まれる。「閉じる」ことで、その閉じられた世界のなかで「音」が「和音」になる--そういう感じがするのだ。
 途中にはさまれる「想い」は「添い」の「お・い」と結びついているのだが--あ、これは、気持ちが悪い。
 だけれど、そのほかが楽しいので、まあ、我慢して読んでしまう。
 そして「澄ます」が次の瞬間、ぱっと変わる。(あえて、もう一度前から引用しなおす。)

水映し 水添い
添いきれなかった想いを
じっと 澄ます
住ます
ここは旅ふかい地平(とち)
手紙のうえに いま
ぽつりと秋がのぼった
 芒ゆれ
狐川

 この「住ます」のあとの「地平(とち)」の発見がすばらしく美しい。
 「とち」というのは「私」ではない。「肉体」ではない。それは「私の肉体」を無視して存在する「もの」である。「とち」には名前があるが、それは「私の肉体」よりも前から存在している。そこに住んでいる「他人」発した「音」である。つまり「あ」のように、「私の声」とは無関係な「音」をもっている。その強い音に、川上の「あ」の音への偏執的な愛が洗い流されるとでも言えばいいのだろうか。
 突然の「狐川」ということば、「音」が「もの」そのものとして存在している。「音」の肉体がそこにある。それが美しい。
 この音の肉体に出会って、川上の「肉体の音」はうろたえる。必死になって、「肉体の音」を響かせようとする。

あなたの恨みにひときわ
涼やかに酔い
ただ
夢いきれ染め さらに
月 鎮め
ああ 遠いどこかで 何処かで
また こんな夜
あなたの悲鳴も堕ちていった

 「音」のなかに「感情」をつくろうと懸命である。同じ感じがしばらくつづくのだが……。

深々と
水を張るのだ
伏目のように拡げる仕草で
それから 身をおこすと
女は
折りめただしく四方へ
枯れていった

越前(えちぜん) 道守荘(ちもりのしょう) 社郷(やしろのさと)
 狐川

 また、川上の「肉体の音(声)」を蹴散らすように、「音の肉体」が噴出してくる。
 いいなあ。
 「音の力」。自分(川上)のものではない「音の力」。そこに住んでいる誰かが(その誰か以前の祖先が)繰り返すことで作り上げた「音」。
 「あ」のように単純というか、純粋というか、まだ何にも染まっていない「音」ではなく、繰り返されることで濁った音。濁ることで共有された音。「他人の音」。

 「他人の音」の中には「他人の地平」がある。川上は「地平」を「とち」と読んでいるが、私は、それを「ちへい」と読み替えたい。
 川上は、土地の名前をとおして、他人に出会ったのだ。そしてその他人は「他人の音」でもあるのだ。
 ここから川上は変わっていく--そういう印象が直感のようにして、私に向かってやってくる。

越前 道守荘 社郷
 狐川

 この2行と一緒に。

川上明日夫詩集 (現代詩文庫)
川上 明日夫
思潮社
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マルコ・ベロッキオ監督「愛の勝利を ムッソリーニを愛した女」(★★★★)

2011-07-29 23:46:38 | 映画
監督 マルコ・ベロッキオ 出演 ジョヴァンナ・メッツォジョルノ、フィリッポ・ティーミ

 ジョヴァンナ・メッツォジョルノとフィリッポ・ティーミのセックスシーンにびっくりする。特別に過激なこと(?)をしているわけではないのだが、目が離せない。ジョヴァンナ・メッツォジョルノがムッソリーニに夢中になっているのが伝わってくる。セックスの官能の悦び、というのではない。セックスの官能を超えている。それはセックスをするというより、ムッソリーニを発見していくという感じ。ムッソリーニの可能性を子宮で感じとる興奮がスクリーンからあふれてくる。
 フィリッポ・ティーミのムッソリーニはうさんくさくて、ペテン師のにおいがつきまとっているが、その負の部分をセックスで洗い流し、隠れている可能性のすべてを引き出して見せる、誰も知らないムッソリーニを子宮で育てていくのだ、という悦びにあふれている。
 ものすごいですなあ。これだけで、この映画を見た価値がある。
 このあとは、ジョヴァンナ・メッツォジョルノはムッソリーニに裏切られ(ムッソリーニは家庭を選んでしまう)、捨てられるだけではなく、精神病院へ追いやられ、愛の痕跡を消されてしまう。それでもジョヴァンナ・メッツォジョルノはムッソリーニを愛しつづける。ムッソリーニを発見し、育てたのは自分だという自負を生き抜く。ジョヴァンナ・メッツォジョルノにとって愛とは人の可能性を発見し、それを育てることなのだけれど、これはムッソリーニにとってはうれしいことではない。女に育てられ、最高権力者になったということを認めることは、自分の価値を低めることだと思ってしまったんだろうなあ。で、彼女の存在を抹殺しようとする。
 この、一種理不尽な戦いが、延々とつづく。
 映画の力は、その理不尽な戦いを、ジョヴァンナ・メッツォジョルノの肉体に封じ込めているところにある。ジョヴァンナ・メッツォジョルノを捨てて、家庭を選んだあと、ムッソリーニはほとんど登場しない。いや、登場するのだが、ジョヴァンナ・メッツォジョルノとはきちんと向き合わない。セックスしたときのように、真っ裸では向き合わない。だから、ジョヴァンナ・メッツォジョルノは、目の前にいないムッソリーニを相手に、ひとりで戦う。ジョヴァンナ・メッツォジョルノの肉体が、たったひとりで、戦いつづける。愛も、怒りも、絶望も、ただ肉体だけで具体化する。
 このジョヴァンナ・メッツォジョルノの演技力はすごい。演技力というか、存在感、生のジョヴァンナ・メッツォジョルノと言えるかもしれない。実際、彼女の肉体を見ていると、相手がムッソリーニであることを忘れてしまう。ヒットラーでも、スターリンでも、毛沢東でもいい。いや、そういう巨大な人間ではなく、普通の、となりのおじさんでもいい。相手が誰であるかは、どうでもよくなる。愛したのだ、男を育てたのだ、その男の子供を産んだのだという子宮の存在そのものだ。だから、彼女の悲しみや絶望は、「ムッソリーニを愛した女」を超え、女そのものの感情になる。女そのものの肉体になる。
 特別な女の悲劇を見ているのではなく、いま・ここに生きている女という性そのものの絶望と怒り、愛と悲しみ、そして悦びにさえ見える。個人であるけれど、個人を超越して女という普遍に到達している。
 ジョヴァンナ・メッツォジョルノはムッソリーニを愛し、ムッソリーニを発見し、ムッソリーニを育てると同時に、彼女自身を発見し、彼女自身を普遍にまで育てたのである。これを、ジョヴァンナ・メッツォジョルノはほんとうに彼女ひとりの肉体で具現化するのである。
 すごい、すごい、すごい。
 映画は、このジョヴァンナ・メッツォジョルノの壮絶な戦いを、古いフィルム(ムッソリーニの実写を含む)やチャプリンの映画(キッド)、さらには当時の映画の手法(大きな文字をスクリーンに登場させる)などを巧みに融合させながら「ドキュメンタリー」に、あるいは「史実」にしようとしている。とても巧い、とても技巧的に完成された映画である。(あたりまえか……。)完璧な映画になっている。
 しかし。
 それが私にはちょっと不満。ムッソリーニとその時代にこだわったために、ジョヴァンナ・メッツォジョルノの具現化した女が、その時代の女に封じこめられてしまったような感じがしないでもない。相手がムッソリーニだったから、こういう悲劇があったというのは「事実」なのだが、相手がムッソリーニでなくても、女は同じ悲劇を生きる--その普遍的な事実が、なんだか「物語」のなかにとじこめられてしまったような感じがするのである。ジョヴァンナ・メッツォジョルノの演技は「物語」を突き破っているのに、マルコ・ベロッキオがそれをもう一度「物語」に封印してしまっている感じがするのである。
 だからね、というのは少し論理的におかしいかもしれないけれど、映画を見終わるとムッソリーニがとってもつまらない人間に見えるでしょ? 実際につまらない人間なのかもしれない。けれど、ムッソリーニがつまらない人間にみえてしまえば、マルコ・ベロッキオは何のためにそんなつまらない人間を愛したのか--という変な疑問が残ってしまい、彼女の具現化した絶望や怒りが、なんとなく虚しくなる。弱くなる。それが残念。
                              (KBCシネマ1)



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ワシントンナショナル・ギャラリー展(2)

2011-07-29 09:16:09 | その他(音楽、小説etc)
ワシントンナショナル・ギャラリー展(2)(国立新美術館、2011年07月20日)

 セザンヌ「『レヴェヌマン』紙を読む画家の父」は不思議な絵である。素人の私からみるとデッサンが狂っている。セザンヌの父が背もたれ、ひじ掛けのある椅子に腰掛けて新聞を読んでいるのだが、ひじ掛けの描き出す「透視図」が変である。ひじ掛けが手前にむかって狭まって見える。椅子の前面よりも背後の方が広い。椅子の座面が台形になっている。しかも逆台形に。こんな椅子ある?
 で、この狂った透視図をセザンヌは巧妙に隠している。セザンヌの父はまっすぐに腰をおろさず、画面を中心にしていうと向かって右側半分に上半身をずらして座っている。ひじ掛けと座面がつくりだす直角の隅っこを隠すようにして座っている。逆台形の前面の線は足で隠されて見えないようになっている。
 でも、いくら隠したって、これは狂っているよなあ--と思うのだが、絵の前を歩きながら通りすぎたとき、変なことが起きた。
 虎の絵で、どこから見ても(右から見ても、左から見ても、正面から見ても)、どうしても目が合ってしまうというものがある。(たしか小倉城にも、その一枚があった。)その虎の絵のように、動きながら右から見る、正面から見る、左から見ると、どういえばいいのだろう、まるで「ほんとう」の人間が座っているように見えるのである。誰かが椅子に座っている--その前を、その人のことを気にしながら歩いていく。ちらちらと視線をやりながら。そのとき見える「人間」のように、セザンヌの父が見えるのである。
 通りすぎながら対象を見るとき、私たちの目は(私の目は?)、その人のまわりを含め、つまり全体を見ているのは見ているのだが、視線の焦点は体のある一部を見ている。たとえば顔を。あるいは、組んでいる足の組み方を。あるいは、上半身を傾けている、その傾き具合を。
 自然に見えたのである。
 正面からじーっと探るように見たときは、狂って見えるデッサンが、動きながら見ると気にならない。気にならないどころか、自然に見える。
 モノの「日傘の夫人」について書いたとき、モネはモデルの手前にある空間を描いている、と書いたが、同じような言い方をすると、セザンヌは何を描いているのだろうか。絵の前を通りすぎながら見ると自然に見える絵だから、やはり手前の空間? 違うなあ。セザンヌの絵の前では、「空間」を感じない。モデルの奥、モデルから始まる空間しか感じない。モデルの奥の空間を感じるからこそ、その奥に向かっての透視図の狂いが気になるのだ。
 では、何を見ている。
 絵の前を通りすぎる。何度も、往復する。
 あ、絵は動かないが、目は動いている。私が動き回っている。そうなのだ。セザンヌの目は動いているのである。
 考えてみれば、これは自然なことだ。何かを見つめるとき、私たちは「一点」にとどまって何かを見るわけではない。いろいろな角度から見る。私の「肉体の目」は二つだが、その二つの位置は肉体とともに動く。視点はひとつではない。複数ある。複数の目が一枚の絵のなかで出会っているのである。複数の目が一枚の絵を作り上げているのである。
 この複数の目をさらに過激にすると、たとえばピカソになる。ひとりの顔のなかに横から見た目、正面からみた目が同居することになる。セザンヌはそこまで過激なことをしていないが、その先駆けをやっている。それぞれの細部をがっしりと描きながら、複数の視点で画面を再構成している。
 絵とは、セザンヌにとって、対象の「再現」ではなく、「再構築/再構成」なのだ。再構築・再構成のために、対象を四角や円や三角や、揺るぎない純粋な形にまでつきつめているのだ--そう思った。
                             (09月15日まで開催)



セザンヌ (ニューベーシック) (タッシェン・ニューベーシックアートシリーズ)
クリエーター情報なし
タッシェン
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