詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

池井昌樹「無事湖」

2011-07-24 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
池井昌樹「無事湖」(「投壜通信」01、2011年07月10日発行)

 池井昌樹「無事湖」は「投壜通信」の「東日本大地震特集1」という「場」に書かれていなければ「東日本大震災」と関係があるとは思わないかもしれない。

どこかのえきのどのホーム
無事湖(むじこ)というなのみずうみがあり
うみとはいえど なばかりの
それはちいさなみずうみがあり
えきちょうさんのしゃれかしら
それともみんなのゆめかしら
ゆきかうものらのざわめきをよそに
無事湖ばかりはしずもりかえり
こけむしたそのみなそこに
つがいのきんぎょもすんでおり
ぽこりとあぶくをふかしたり
いつもなかよくまどろんでおり
あんなところで
よくとくもなく
そっとぼくらも
いきていたいね
ぽこりぽこりとささやきかわし
ふたりならんでみとれていたが
みとれるまにもときはゆき
ときははやてのようにゆき
どこかのえきのどのホーム
おもいだせないそのどこか
無事湖はいまもこけむしながら
しずもりかえっているかしら
すぎゆくときのはやてをよそに
ぽこりとあぶくふかしたり
あんなことろでふたりきり
いまもゆめみているからし

 東日本大震災で奪われた「くらし」。それは、どんなものだったのだろうか。思い出すことは難しい。思い出そうにも、目の前の変わり果てた「ふるさと」の姿が、思い出をかき乱すだろう。
 それでも、その困難を超えて、池井はことばを動かしてみる。「くらし」のなかの「無事湖」という名前のにたくされた「みんなのゆめ」を思ってみる。

こけむしたそのみなそこに
つがいのきんぎょもすんでおり
ぽこりとあぶくをふかしたり
いつもなかよくまどろんでおり
あんなところで
よくとくもなく
そっとぼくらも
いきていたいね

 のんびり、おだやかな情景が浮かぶ。
 だけではない。
 「いきていたいね」という1行で、私は、つまずく。立ち止まってしまう。
 「ぽこりあぶくをふかし」「いつもなかよくまどろんで」いるという、のんびり(?)した風景が一瞬、冷たい空気で洗われるような、強い驚きがある。
 「くらしていたね」「すごしていたいね」の方が、私には「「ぽこりあぶくをふかし」「いつもなかよくまどろんで」ということばにはぴったりくるように思う。もっといけいらしいことばを考えれば「ぼんやりしていたい」かもしれない。
 けれど、池井は、そうは書かない。
 「いきていたいね」とことばが動くと、一瞬、のんびりした風景、穏やかな風景が消えてしまう。これは、私だけの印象だろうか。

いきていたいね

 これは、切実な叫びなのだ。「無事湖」という「しゃれ」か「ゆめ」かわからないようなことば、名前--その奥にあるものをぼんやりと考えてしまうが、それはほんとうは切実な「生きる」願いなのだ。
 「無事(むじ)」は「無事(ぶじ)」でもある。
 「無事湖」は「無事故」にしてしまうと、逆に「事故」を連想し、すこしいやな気持ちになる。だから、「故」を「湖」に変えることで、ちょっとことばをずらして、「事故」がやってこれないようにする。そんなことばの動かし方のなかにも、人間の「ゆめ」と「いのり」がある。
 そして、その「ゆめ」「いのり」のさらに奥にあるのは「生きていたい」というたったひとつの思いなのだ。

 「生きていたい」「生きていて」--そういう切ない思いを破壊してしまった東日本大震災。
 そのあと、池井は、「生きていたい」という「声」をしっかりと聞き取り、それをことばにして動かしている。

どこかのえきのどのホーム
おもいだせないそのどこか

 「おもいだせない」。思い出せないけれど、思い出せないと感じるのは、その「思い」そのものははっきりしているからだ。その、けっして消えない「思い」そのものとして「いきていたいね」という「声」がある。
 この「声」は、いつもの池井の「ぼんやりしていたい」(放心していたい)といっしょのもののはずなのに、池井は、いま池井の「声」を書かずに、誰かの「声」を書いている。誰かの「声」とつながろうとしている。
 その「誰か」はいつも池井が思い描いているような、親しいひとを超えたひとである。だから「ぼんやりしていたい」ではなく「いきていたいね」になるのだ。




母家
池井 昌樹
思潮社


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