詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

一方井亜稀『疾走光』

2011-07-06 23:59:59 | 詩集
一方井亜稀『疾走光』(思潮社、2011年04月25日発行)

 一方井亜稀『疾走光』の巻頭の「前兆」を読んで私はとまどってしまった。

風が
吹いていた
雲がすばやく
流れる隙から
覗く空は針穴から覗く
まっさらな世界
のようだ

 ことばは「対象」と向き合っている。そして「対象」になろうとしている。「のようだ」という1行が、その「対象」と向き合う「私」(書かれていない認識者)の強い精神をあらわしている。「私」は必要がない。認識する力が「対象」を存在させる。そして、その「認識する力」とは「覗く」ということばが象徴しているように「視力」である。目の力で「対象」を存在させてしまう。「まっさらな世界」というのは、「覗き見た」世界であると同時に、「覗き見る」私の世界である。

覗く空は針穴から覗く

 この1行の「覗く」の繰り返しの構造そのままに、「覗き見た世界」と「覗き見る世界」は「覗く」ということばのなかで、合体してしまう。そのとき「私」が消失して、また同時に「対象」も消失してしまう--そうして、世界が「まっさら」になる。最初の状態(?)になる。そういうことを一方は夢見ているのだろう。
 あ、すごい、と私は声を上げそうになった。
 「私」が消えてしまっても、「視力」は存在し、その視力が世界を存在させる。「まっさら」さえも「存在」として浮かび上がらせる。
 私は目の手術をして以来、こういう強い視力に出会うと、めまいがしてしまう。何を見ているのかよくわからなくなる。(手術前から、私の目はよくはないのだが……)
 そのせいなのか、どうなのか、よくわからないのだが、

こんな日は
向かいのクリーニング屋の
女主人が欠伸をする
昼だというのに街灯がともる
生き物たちは息を詰め
穴に籠もって
水が足りない
ビスケットが足りない
スペードのクィーンを奪い合い
血眼になって札を捲る
兄と弟
入りの悪いラジオは確かに
台風の接近を告げ

 これはなんだろうか。--さっぱりわからないのである。何がここにかかれていることばを繋ぎ止めているのかわからないのである。
 「私」が消失してしまったからなのか。
 「私」が消失したあとも存在する視力は、こういう世界と出会うのか。そのとき「私」はどう「存在」しているのか。

風が
吹いていた
散々叩いても開かなかったドアの
蝶番があんなにも馬鹿になって
男が茫然と
手のひらを眺める
世界は遠いのか
近いのか

 「散々叩いても開かなかったドアの」の「叩く」の「主語」は誰か。「私」なら少しは印象が違ってくるが、この詩では「男」である。そして男は石川啄木のように「手のひら」を眺めている。「覗く」よりも意識は集中していないだろう。
 その集中していない「視力」のなかで、「世界は遠いのか/近いのか」。あ、これは、困った。「茫然」としていれば、「遠い/近い」は関係ないだろうなあ。
 そんなことを思っていると、

雨粒がひとつ
落ちてくる

 「雨粒がひとつ」か。また、ふいに強い視力が戻ってくる。いや、これは「茫然」と一体化した視力なのかな? 強い視力は「雨粒」の「ひとつ」を突き抜けて、何かを見てしまうものなのかな?

 何か、視力が混乱してしまうのである。私の視力が弱いという肉体と関係があるかもしれないが、この一方の視力についていけないなあ、と感じてしまう。こうなると「誤読」もできない。

 「夏の光」。

夏の食べ物は
白い陶器に
丁寧に並べられ
窓ガラスから両の目は何故か遠くを見たがった
むかし
魚を飼っていたから
小さくてたくさんの
光を集めて
息を吐いて
驚いたら目を丸くする魚だった

 「遠くを見たがった」--ここにも強い視力が出てくる。その強い視力は、時間を超えて「むかし」を見てしまう。「光を集めて/息を吐いて」。ここに、ふいに「息を吐いて」という「肉体」が出てくるところが非常に非常に非常に非常に非常に非常におもしろいのだが、どうも、私にはそのあとをついて行くことかできない。引用はしないが、このあとも「目」が出てきて、そこにも「手渡されてゆく目線である」という美しい魅力的な、非常に非常に非常に非常に非常に非常におもしろいことばがあるのだが、私にはそのあとをついて行くことかできない。どうも、一方の「視力」(目、視線)というものが「私」という「主語」、「私」という「肉体」とは別なところにあるような気がしてならないのである。
 「むかし」という1行が不思議だったが、「前兆」の「こんな日は」も、「きょう」ではなく「むかし」のある一日かもしれないと思うのだ。一方の「肉体」は「きょう/いま」という「時間」を超越して、「きょう/いま」をここではないものにしてしまう。そういう「肉体」が持っている強い視力--それに私は混乱してしまう。

 困ったなあ。読み通せないなあ。読み通せないまま感想を書くと、また誰かが「読まずに感想を書くのはいけない」と批判するかな? 私は子供のときから(小学校の読書感想文のときから)、読まずに書いたって、世界はどこかでつながっているかは感想文だってきっとかってにつながってくれると信じているのだが。
 というような、よけいなことを考えながら読んでいたら、「リミット」という作品にであった。ぱっと、視界が開けた。目が見えたような気がした。それで、大急ぎで、さかのぼって感想を書いているのである。

燃えそうだ
業の深さが(息も出来ない)
身体を蝕む 燻っている
書いた手紙が戻ってきた
住所を否定された
のか それとも

地理を習わなかった
とは惜しいことをした舌打ちを
して
明日の天気を占う

脱ぎ捨てた手袋の残骸を
見放して
外はまだ雨が降っている
(冷たい雨だ)

 ふいに「肉体」を感じたのである。「視力」ではない「肉体」を感じたのである。かっこのなかに入っていることば--その闖入に「肉体」を感じたのである。かっこをつかった詩は、「リミット」前にもあるのだが、そのときは「肉体」を感じなかった。けれど、この詩には感じる。
 「業の深さ」とは何のことかわからないが、(息も出来ない)が、世界と「肉体」の関係を圧縮する。「視力」というのは離れていないと成立しないものだが、この詩では「私」と「対象」が離れるのではなく、固く密着している。そして、その密着によってことばが動く。
 あ、こういう詩こそ、私は読みたいのだ。

書いた手紙が戻ってきた
住所を否定された
のか それとも

地理を習わなかった

 ついたり離れたりすることばの動き--それがそのまま「肉体」を感じさせる。「混乱」と一緒にある「肉体」、精神と一緒にある「肉体」を感じさせる。「視力」はこういうあいまいで強引な距離の変化を許してくれないね。みだれることで深くなる遠近感を許してくれない。「視力」の遠近感は「一点透視」だけれど、ここでは「焦点」が世界を引き留めない。逆に、放散させる。散らばらせている。「1行空き」がとてもおもしろい。
 「見放して」という1行があるが、いいなあ、「見る」が「放棄」されている。そしてその瞬間、別の「肉体」が目覚める。

(冷たい雨だ)

 「冷たい」は「視力」ではなく「触覚」がとらえた世界である。
 このときも一方は「視力」を同時に生きているだろうけれど、「視力」にこだわっていない。ほかの感覚も「私」の「肉体」で繋ぎ止めている。

かじかむ手をこすり合わせて昨日は
散々さ迷い歩いた
見つからない ものを探して
捜索願を届けた
(冷たい雨が降っていた)

 「見つからない」ものは「視力」かもしれない。強靱な目の力かもしれない。だから、もう一度「冷たい」が登場するのである。「触覚」が「肌」があらわれてきて、「私」が「いま/ここ」にいると告げる。

電話帳を捲る風が
耳朶をからめとって
いま
ひとつの声になって
(飛んでゆきたい)

 「耳」と「声」。聴覚、喉--は、何覚? わからないけれど、まあ、いい。
 「視力」は「飛んでゆきたい」などといわなくても「飛んでゆく」。「私」の「肉体」から離れて行ってしまう。でも「肉体」は飛んではゆけない。だから「飛んでゆきたい」と欲望する。その瞬間に「肉体」がはっきりと、「いま/ここ」に存在する。
 やっと、一方に出会えたと思ったのだ。
 ただし、「飛んでゆきたい」の「ゆきたい」という欲望のあらわし方には、なんとなく、違和感が残った。




疾走光
一方井 亜稀
思潮社



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