大橋政人「水の中」、高階杞一「とびこえて」(「ガーネット」64、2011年07月01日発行)
きのうは若い(たぶん)女の裸を見たので(書いてなかったけれど、見えてしまった)、きょうは正反対の裸。大橋政人「水の中」。
夕日が「ヌラヌラ」から始まり、「むさ苦しい」「ぬうっ、ぬうっ」と、どうも男のハダカは美しいとは言えないねえ。で、美しくないからだと思うのだが、想像力が具体的にならないというか、「抽象」に向かってしまう。「肉眼」「肉耳」「肉喉」から離れてしまう。
この想像は、完全に、「頭」でする想像である。もし、ほんとうに誰かが水の中に沈んだままだったら、手や足や、水着で隠した性器に「目」があるわけではないのだけれど、水中にある「死」(死体)を感じ取って、大騒ぎする。手や足が、ふいにありえないものに触れて、その瞬間に「声」になる。制御できない「肉喉」「肉舌」が「ことば以前のことば」を振り絞る。
ここには、ハダカということばがはっきり書かれているけれど、ほんとうは「肉体」が書かれていないことになる。「頭」が書かれているのである。
最後、「首から上だけで/漂ってくる者もいる」が象徴的である「首から上」とは「頭」だね。
主役(?)を「水の中」の「肉体」にしてことばを動かすと違ったものが見えてくるだろうと思った。
*
大橋は「君恋し」の歌詞の「唇あせねど」についていろいろ書いているが、どうもよくわからない。なぜ、「あせねど」がおかしい? ことばというのは、その部分だけを取り出してもよくわからないことがある。
大橋は問題にしていないが、
二行目の「みだるる心に うつるは誰が影」に視点を置き、そこからことばを見直せば大橋の誤解は簡単にとけるはずである。(と、思う)。
「みだるる心に うつるは誰が影」は、その影が「誰」とほんとうに問いかけているわけではない。答えはわかってしまっている。「君」なのである。「君」以外にない。だからこそ、「君恋し」なのである。こころはどんなに乱れても「君」しか見えない。「君」ゆえに、こころは乱れるのである。最初から、この歌詞のことばは「逆説」を「文体」としているのである。
「みだるる心に うつるは君の影」以外にありえないなら、「唇あせねど」は「私のこころのなかの君」の描写である。私のこころのなかでは、君の唇はけっしてあせない。いつまでもいつまでも魅力的である。だからこそ、恋しいのである。
この「私のこころのなかの君、その唇」を大橋は「思い」と単純化しているが、「唇」は「思い」ではない。「肉体」である。
歌の主人公(歌っている人)は「肉体」で「君」とつながっている。「思い(頭?)」でつながっているのではない。
「肉体」(私のことばで言いなおすと「肉・肉体」とでもいうべきものだが)は「君」とつながっているのに、「君」はここにいない。だから、その「肉体」を追い求めて、涙が「肉・肉体」からあふれるのである。
ここに歌われている「思い」は「こころ」ではなく「肉体」なのである。
*
高階杞一「とびこえて」。こういう詩は、私は苦手である。気持ちが悪いのである。
「こどもの肉体」が私には見えないのである。想像はできるけれど、「肉体」で感じることができない。「はしゃぎながら」と書いてあるけれど、どんなふうに? 「うれしさに」と書いてあるけれど、どんな具合にうれしい? 水たまりをいくつもいくつも飛び越えるくらいに……。うーん、行儀がよすぎてわからない。うれしかったら、水たまりをばしゃばしゃしない? 「雨に唄えば」では主人公が大雨なのに水たまりでバシャバシャダンスを踊っていた。水たまりって、バシャバシャ壊して遊ぶから楽しい。汚れるからうれしい。
私は、ここに書かれている「肉体」にはついてゆけない。「肉体」を感じることができない。だから、気持ち悪いと感じる。

きのうは若い(たぶん)女の裸を見たので(書いてなかったけれど、見えてしまった)、きょうは正反対の裸。大橋政人「水の中」。
泳ぎ疲れて
プールサイドで休んでいると
バタフライで荒れた
水も静まり
夕日が
水面を
ヌラヌラ流れてくることもある
ここは
昼間から
人間がハダカを晒す場所
向こうの暮らすも
本日のレッスンが終わって
クールダウンの水中歩行
夕日の中を
胸から上だけの
中高年のむさ苦しい男が七、八人
こっちに向かって
いっせいに歩きだす
横一列の
海坊主
音楽も
証明も消えた水の中を
ぬうっ、ぬうっと歩いてくる
誰もしゃべらず
誰も笑わず
(本日、水の中に
忘れられたままのひとはいないだろうか)
中には
首から上だけで
漂ってくる者もいる
夕日が「ヌラヌラ」から始まり、「むさ苦しい」「ぬうっ、ぬうっ」と、どうも男のハダカは美しいとは言えないねえ。で、美しくないからだと思うのだが、想像力が具体的にならないというか、「抽象」に向かってしまう。「肉眼」「肉耳」「肉喉」から離れてしまう。
(本日、水の中に
忘れられたままのひとはいないだろうか)
この想像は、完全に、「頭」でする想像である。もし、ほんとうに誰かが水の中に沈んだままだったら、手や足や、水着で隠した性器に「目」があるわけではないのだけれど、水中にある「死」(死体)を感じ取って、大騒ぎする。手や足が、ふいにありえないものに触れて、その瞬間に「声」になる。制御できない「肉喉」「肉舌」が「ことば以前のことば」を振り絞る。
ここには、ハダカということばがはっきり書かれているけれど、ほんとうは「肉体」が書かれていないことになる。「頭」が書かれているのである。
最後、「首から上だけで/漂ってくる者もいる」が象徴的である「首から上」とは「頭」だね。
主役(?)を「水の中」の「肉体」にしてことばを動かすと違ったものが見えてくるだろうと思った。
*
大橋は「君恋し」の歌詞の「唇あせねど」についていろいろ書いているが、どうもよくわからない。なぜ、「あせねど」がおかしい? ことばというのは、その部分だけを取り出してもよくわからないことがある。
大橋は問題にしていないが、
宵闇せまれば 悩みは涯なし
みだるる心に うつるは誰が影
君恋し 唇あせねど
涙はあふれて 今宵も更け行く
二行目の「みだるる心に うつるは誰が影」に視点を置き、そこからことばを見直せば大橋の誤解は簡単にとけるはずである。(と、思う)。
「みだるる心に うつるは誰が影」は、その影が「誰」とほんとうに問いかけているわけではない。答えはわかってしまっている。「君」なのである。「君」以外にない。だからこそ、「君恋し」なのである。こころはどんなに乱れても「君」しか見えない。「君」ゆえに、こころは乱れるのである。最初から、この歌詞のことばは「逆説」を「文体」としているのである。
「みだるる心に うつるは君の影」以外にありえないなら、「唇あせねど」は「私のこころのなかの君」の描写である。私のこころのなかでは、君の唇はけっしてあせない。いつまでもいつまでも魅力的である。だからこそ、恋しいのである。
この「私のこころのなかの君、その唇」を大橋は「思い」と単純化しているが、「唇」は「思い」ではない。「肉体」である。
歌の主人公(歌っている人)は「肉体」で「君」とつながっている。「思い(頭?)」でつながっているのではない。
「肉体」(私のことばで言いなおすと「肉・肉体」とでもいうべきものだが)は「君」とつながっているのに、「君」はここにいない。だから、その「肉体」を追い求めて、涙が「肉・肉体」からあふれるのである。
ここに歌われている「思い」は「こころ」ではなく「肉体」なのである。
*
高階杞一「とびこえて」。こういう詩は、私は苦手である。気持ちが悪いのである。
長く降りつづいた雨がやみ
水たまりに
今朝は
青空が映っています
両側に田んぼが広がる道を
こどもたちが
はしゃぎながら
歩いています
約束はみんな
雨で
流れてしまったけれど
ひさしぶり晴れたうれしさに
こどもたちは歩いていきます
水たまりを
いくつも いくつも
とびこえて
「こどもの肉体」が私には見えないのである。想像はできるけれど、「肉体」で感じることができない。「はしゃぎながら」と書いてあるけれど、どんなふうに? 「うれしさに」と書いてあるけれど、どんな具合にうれしい? 水たまりをいくつもいくつも飛び越えるくらいに……。うーん、行儀がよすぎてわからない。うれしかったら、水たまりをばしゃばしゃしない? 「雨に唄えば」では主人公が大雨なのに水たまりでバシャバシャダンスを踊っていた。水たまりって、バシャバシャ壊して遊ぶから楽しい。汚れるからうれしい。
私は、ここに書かれている「肉体」にはついてゆけない。「肉体」を感じることができない。だから、気持ち悪いと感じる。
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