詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

河邉由紀恵『桃の湯』

2011-07-01 23:59:59 | 詩集
河邉由紀恵『桃の湯』(思潮社、2011年05月25日発行)

 河邉由紀恵『桃の湯』は、人間関係がそのまま肉体関係であるような、不思議なおもしろさがある。肉体関係といっても、セックスだけではない。もちろんセックスもあるのだが……。
 詩集のタイトルになっている「桃の湯」。

ひるすぎの桃の湯には
だれもいない

うすら広い脱衣場
考えるのをやめるために
ここに来ているのに
やはり 私は考えている

桃の湯の表には
誓願寺という観音寺があり
ふわっとした風にのったおばあさんが
墓のそばで
鳩にパン屑をやっているのを見た

桃の湯の裏には
ドノヴァン7というホテルがあり
ざらっとした背中のおんなが
腕をからませて
男とミュールで歩いているのを見た

桃の湯は
そのあいだにある
ねっとりと 空気が静かな場所だ

せっけんで泡立てて
膝のうらがわを洗う
足のうらを洗う
背中を洗う
それから

ぬるいほうのお湯に体をしずめる
やはり 私は考えている

 私が「肉体」と呼んだものは、たとえば「膝のうらがわ」「足のうら」。それは、だれの肉体にもあるのだけれど、普段は気にしていない。しっかりとは見つめていない。見る機会が少ないと言ってもいい。膝のうらがわが好き、足のうらが好き--と言うと、それはそれで色っぽく、おもしろい気がするが、そこまでの「執着」は河邉のことばからは感じられない。それは、たしかにあるのだけれど、あまり「ことば」にしない、あいまいなものである。自分の「膝のうらがわ」も、他人の「膝のうらがわ」もどんな風になっているか、そんなことはあまり気にしない。いちいち「定義」しない。「意味」を求めたりしない。--つまり、たとえば石川啄木のように「手のひらをじっと見る」とか、リンカーンのように「40過ぎたら、男は顔に責任がある」とか、というようなことを「膝のうらがわ」と結びつけることはない。
 それはたしかに「存在」はするが、「あいまい」な存在である。
 この「あいまい」を別のことばで言うと「ふわっとした」や「ざらっとした」というきちんと定義できない感覚である。
 「ふわっとした風にのったおばあさん」は「風」が「ふわっとし」ているのではない。まあ、風も「ふわっとし」ているのだが、それ以上に「おばあさん」が「ふわっとし」ているのである。というより、「ふわっとした」がは、そのまま「おばあさん」なのである。
 「ざらっとした背中のおんな」も「ざらっとし」ているのは「背中」ではなく「おんな」である。「ざらっとした」は「おんな」そのものなのである。
 人間を、「ふわっとした」とか「ざらっとした」ということばそのものにしてしまうと、変かもしれないが、私のいいたい「肉体関係」とは、この感触のことなのである。
 「ふわっとした関係」「ざらっとした関係」。
 河邉は、おばあさんを見たとき、おばあさんと「ふわっとした関係」になったのだ。ホテルに入るおんなを見たとき、おんなと「ざらっとした関係」になったのだ。
 「ふわっとした」も「ざらっとした」も、それはしかし、河邉の「肉体」の中で起きた感覚の動きである。
 で、というか、だから、というか……。
 他人の肉体と触れて(ここでは、見て、だけれど)、その見た人(河邉)の肉体のなかで、何かが起きるとしたら--それは「セックス」といってもいいかもしれないね。
 セックスそのものではないけれど、なにかセックスに通じることがある。
 この「あいまい」なものを、河邉は、ていねいに書いている。ていねいに、ことばで動かしている。

 ちょっと戻って……。いや、少し言い換えたいことがあって、ちょっと戻ってと私は書いてしまったのだが。
 先に、「ふわっとした」も「ざらっとした」も、それはしかし、河邉の「肉体」の中で起きた感覚の動きである--と、私は書いたが、これは「正確」ではない。私は「セックス」ということばを書きたくなって、そんなことを書いてしまったのだが、「ふわっ」も「ざらっ」も本当は河邉の肉体のなかで起きてはいない。
 それは「おばあさん」と河邉、「おんな」と河邉の「あいだ」で起きた現象なのである。
 桃の湯が「おばあさん」と「おんな」の「あいだ」にあるように、「おばあさん」と河邉、「おんな」と河邉の「あいだ」で動いた何かなのである。「あいだ」は「空気」と言ってもいいのかもしれない。

 「おばあさん」も「おんな」も変わらない。河邉も変わらない。変わるのは「あいだ」である。「あいだ」が「ふわっとした」り、「ざらっとした」りするのだ。さらには、それは「ねっとり」にもなってしまう。

 「肉体」とは「あいだ」の発見である、と河邉は言うかもしれない。「肉体関係」とは「あいだ」の変化のことであると河邉は言うかもしれない。

 さらにおもしろいのは、こういう「あいだ」の変化に関することを河邉は「考えている」と書いていることだ。何かを考えるのをやめるために「桃の湯」にきたのに、そこで湯のなかに体をしずめて、やはり「考えている」。
 しかし、「ふわっ」や「ざらっ」が、あるいは「ねっとり」が「考える」こと?
 違う--という意見もあるだろうけれど、私は、それは「考え」だと思う。「ふわっ」「ざらっ」「ねっとり」は肉体が感じる感触だが、その感触が「考え」であるというのが、河邉のおもしろいところなのだ。
 別なことばで言えば。
 この「ふわっ」「ざらっ」「ねっとり」が河邉の「思想」なのである。「肉体」なのである。ほんとうに河邉が感じたことを、河邉のことばで言いなおしたら「ふわっ」「ざらっ」「ねっとり」になる。それ以外ではない。「肉体」にしっかりと結びついた、河邉から切り離すことのできないことば--そのことばを通って、河邉は「あいだ」、つまり河邉と誰か別のひとの「あいだ」へ出てゆく。
 「自分から出てゆく」--エクスタシー。
 あ、またセックスに戻ってしまうけれど(私はスケベなのか、どうしても、そんなことを考えてしまう)、こんなふうに「思想」というようなおおげさなことばをつかいながら、知らず知らずセックスにもどってしまうことを許してくれることばというのは、いいなあ、と思う。



桃の湯
河邉 由紀恵
思潮社



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コメント (2)
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誰も書かなかった西脇順三郎(225 )

2011-07-01 22:37:51 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『壌歌』のつづき。「Ⅱ」の部分。
 西脇の詩には、高尚なこと(?)と俗なことが並列して出てくる。そこが私は好きだ。高尚なことばは窮屈である。その窮屈さを俗が破ってくれる。
 モナカ屋のおばあさんに、「人間は宇宙人だ」と言わせたあとの、つぎの部分。

三軒茶屋でつかれはて
ミョーガをにた汁をかけ
ウドンをたべるころは
桃色の夕暮が
野原のまん中におりていた

 実際に西脇がうどんの薬味にミョウガをつかったのかどうかわからないが、この「肉体」の感覚が私はとても気に入っている。
 私はミョウガが大好きである。
 そういうどうでもいいことが、ある詩を好きにさせるということもある。
 この部分の前には、「ソバの白い花」や「コホロギ」も出てくるのだが、私はこの「ミョーガ」だけで夏を感じるのだ。西脇の詩は「季節」を描いているわけではないが、この瞬間に「季節」がくっきりみえる。そうして私自身の「肉体」が目覚める。うどんをにミョーガのにた汁をかけるのだから、夏は夏でも、涼しくなりかけた晩夏--という感じがぱっと体のなかを洗っていく。
 そうすると、めんどうくさい「哲学」のことばは、まあ、いいか、別なときに考ええようという気持ちになる。
 「哲学」からの離脱が楽しいのである。

 そして、「肉体」がリフレッシュするから、「桃色の夕暮」が美しくなる。「精神」で見ているのではなく「肉眼」そのもので世界と出会っている感じがする。




西脇順三郎詩集 (岩波文庫)
西脇 順三郎
岩波書店
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