詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

一方井亜稀『疾走光』(2)

2011-07-07 23:59:59 | 詩集
一方井亜稀『疾走光』(2)(思潮社、2011年04月25日発行)

 「予感」まで読み進んできて、あれっ、と私は思った。

りんごが赤い実をつけ
それまで持たないと思っていたヒールのストラップも
案外平気な顔で街を闊歩している

 「ヒール」って何? もしかしてハイヒールのヒール? 一方井亜稀って、女装趣味の男? いや、誰がどんな嗜好をであってもかまわないのだが、びっくりした。いやいや、もしかすると、女?
 名前を見ていて、それを実際にワープロで入力しながら、その読み方を気にしていなかった。字面というか、漢字の画数がだんだん増えていくややこしさ、特に「稀」の面倒さくささから、私は勝手に男だと思っていたけれど「井亜稀(いあき)」ではなく「亜稀(あき)」と読ませるのか。「一方(ひとかた)井亜稀(いあき)」ではなく、「一方井(いっかたい)亜稀(あき)」だったのか。詩集の奥付のルビで確認して、いや、それでも「いっかた・いあき」かもしれないぞ、き思ったのだが、栞に和合亮一と高塚謙太郎が「一方井」と書き、ふたりとも「彼女」と呼んでいるのだから、うーん、女性なんですねえ。
 うーん。うーん。うーん。
 私の偏見なのだろうけれど、女性が、こんな視力優先の、視力のなかで「私」を消滅させて世界を浮かび上がらせることばをつかうとは、思っても見なかった。
 「前兆」の、

風が
吹いていた
散々叩いても開かなかったドアの
蝶番があんなにも馬鹿になって
男が茫然と
手のひらを眺める
世界は遠いのか
近いのか

 という部分は、そこに登場してくる人物が「男」であることによって、かろうじて視線だけ残して消失した「私」と重なる--「私」が反映されていると、私は感じたのだが、そうか、女性が、その女性の肉体を消失して(あるいは拒絶してなのかな?)、男を見ているのか。男を「存在」する人間の象徴と見ているのか。
 うーん、うーん、うーん。
 私はうなりっぱなしである。
 私は男だから、もし自分というものを視力だけ残して消失させてしまったとしたら、どうやって「自己同一化」(アイデンティファイ、いえば現代風かな?)するかといえば、やはり、自分のなじんでいる存在(肉体)に頼る。男を自分の代弁者にする。
 その感覚からいうと、もし書き手が女性なら、ここでは「女が茫然と」になるだろうなあ、と思う。これは私の勝手な思い込みだが、女性がここで「男が」と書くということにびっくりしてしまう。(もっとも、「男」に先だち「女主人」ということばがあるから、一方井は先に「女」に自己同一化し、そのご世界を広げるために、ここでは「男」を出しているとはいえるのだけれど……。でもね、私の感覚では、そういうときは「女主人」ではなく「女」なのである。「女主人」と「主人」をつけてしまうのは、そこに自己同一化できない何かがあってなのだ。--私のなかの「男」は、そう主張している。)
 男女同権というか、性差を超えるという感覚は、女性の方が発達しているということなのかもしれない。
 「予感」のつづき。

あの時は
それどころじゃないのだとあんなに悲鳴を上げたくせにあっさりと過ぎてゆく日々に同調出来ぬままいっそ占い師のもとへと駆け込みたいが
悪態をついて
帰ってくるのがおちだろう

 この、それまでのきっぱりした「視線」とは違って、なんとも「ぐちゃぐちゃ」した感じはなんだろう、と思っていたが、そうか、女性だったのか。
 あ、こんなことを書くと、フェミニズムを主張している人から怒られそうだが、谷内は偏見の塊だ言われそうだが……。
 でも、

夕方
AMラジオをつけ
知らない言語が庭の茂みへと流れてゆくのを眺めながら
(誰がいる訳でもないのに)
その名前を呼びたい はやく
未だ出会わぬ人の名前を呼びたがって喉は少しずつ開いてゆく
口腔運動
舌は強靱な構えを見せて

 「知らない言語が庭の茂みへと流れてゆくのを眺めながら」の「言語」という抽象的なもの、見えないものを「眺める」という視力の強さは、私にはどうしても男の精神(形而上学優先の頭脳・精神)に感じられる。「口腔運動」「舌の強靱な構え」という「肉体」の把握の仕方も、私の感じている「女性」とはあまりにも違いすぎてびっくりする。

 そうか、女性のことばはここまで変化したのか、と感心しながら、一方で、女性のことばを学ぶことで作り替えなければならない思想がたくさんあるのにと思いつづけている私には、あ、こういう具合にことばがかわっていっていいのかなあ、という疑問も残る。

塹壕のようなライブハウスで不協和音を浴びるエレキギターの軽いキックそれは決まって週末に行われる駅から徒歩十分の
                                  (「雨」)

レコード針を落とす仕草でかきむしられる脳内の心拍数は未だ勘定が間に合わず唯々スピーカーから割れるノイズが後頭部に焼き増しされる
                                  (「雨」)

 たぶん実際に体験したことのない「塹壕」ということどはの使い方、おなじような「レコード針」ということばの選択、「脳内の」からつづくことばの飛躍--これは、もう捨て去るべき「抒情」なのではないだろうか、というのが私の思いである。

真夏の喧騒の中で
遠くを睨んでいたピッチャーの視線は
もうそこにはなかった
                                 (「秋雨」)

 というセンチメンタルも、もういいんじゃない?
 念押しのような、

アンダースローされた視線が
宙を射抜いて
縁側で
蚊取り線香を炊く夏が過ぎて
                                 (「秋雨」)

 も、叩きこわして、ことばを動かしてほしいなあ、と私は思う。
 こんな古くさい「男の詩」は読みたくない。一方井亜稀は「女の詩」として書き直しているのかもしれないが、書き直しになっているのかどうか、私にはわからない。
 女性にとって、一方井亜稀のことばの運動はどんなふうにみえるのだろうか。それを聞いてみたいと思った。





疾走光
一方井 亜稀
思潮社



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