吉浦豊久「白い光景」(「ネット21」23、2011年07月20日発行)
吉浦豊久は「くせもの」である。「くせもの」加減は、少し岩佐なをに似ている。しかし、この少し似ているというのは私だけが感じることかもしれない。岩佐のように「音」そのものが「くせもの」というのではない。
どこに、「くせもの」を感じるか。
「白い光景」という作品。その前半。
塩は死をイメージさせる。「死海」という海があるが、その海は塩分濃度が高すぎて生きられない。塩の白は、また死のイメージでもある。
「まるで死んだ村みたい」ということばは、当然、その後の展開を想像させる。死の世界が始まるのだと思わせる。
ところが、吉浦は、改行して(つまり、少し「間」をおいて)、「という形容は見事に外れた」とつづける。吉浦も実は「死」をイメージした、想像したと「告白」しておいて、それが「外れた」と告げる。
この呼吸が「くせもの」である。
という2行は、「事実(?)」というものだけを見ていくとき、あってもなくてもいい。いや、ない方がいい。吉浦の「想像」は事実とは無関係だからである。どんなふうに想像しようと、そこにある「村」の姿がかわるわけではない。「想像」によってかわるのは、つまり、想像したことによって影響を受けるのは「村」ではなく、吉浦自身であるからだ。吉浦が、あっ、と驚いているだけで「村」には何の変化もない。
ないはずなのだが……。
ないはずなのだが、変なことが起きる。
「文体」が変わる。
「岩鹽賣買處」という立て札の「旧字」。突然、「古い」村が登場する。「現代」の世界を描いているものだと思っていたのだが、どうやらそうではないらしい。
「新字」「旧字」の違いを「文体」の変化というのは大げさかもしれないが、文字が変わると、そこに描き出される世界がかわる。
村の様子を「旧字」を利用して、一気に、現代から引き剥がしてしまう。
そこでは「文体」が変わっている。
村の様子を具体的に描くときに、ことば(表記)そのものが変わっている。変わっているのだが、そのことを「立て札」のせいにして、変わっていないと感じさせる。
そのところが「くせもの」である。
想像が「見事に外れた」のだから、吉浦の目撃する「村」の姿が、それまで書かれていることと完全に違っていても当然である。「下帯襦袢」「垂れ乳房」など、「現代」から遠いものが次々に出てくるが、想像が「見事に外れた」のだから、そういうものが出てきてもまったくかまわないのだが、それを「旧字」によって、ずるーっと、地殻をずらすように動かしていくところが「くせもの」である。
そんなふうにずるーっと世界を動かしたあと、「白い地蔵堂か」以下、あれっ、これって「死んだ村」見たいじゃない?と思わせる世界へ戻る。
そのとき、「岩鹽賣買處」からの数行が「散文」形式にだらだらつづいていたのに対して、突然「行わけ」形式に変わるのも絶妙である。
ことばを「意味」ではなく、呼吸や文字の形によって動かしているのである。「意味=頭で整理できるもの」ではなく、改行の呼吸(ことばの息継ぎ)や文字の形という視覚--つまり「肉体」で動かしている。
吉浦のことばは「村」を描写しているのであるが、そのことばを追っていくとき「村」が見えるというよりも、吉浦の「肉体」が見える。吉浦の感じている、「変な感じ」の、肉体のなかの「変」に、私は共振してしまう。
変な「村」(見たこともない村)に驚くというよりも、その村を変と感じるときの、吉浦の「肉体」のなかで起きている異変に共振してしまう。
だから、次の展開がとても自然に感じられる。
「自分の体の中に もう一人自分の知らない自分が住んでいる」。その「自分の知らない自分」が何かを見てしまう。感じてしまう。
吉浦は、その「自分の知っている自分」と「自分の知らない自分」の違いを「文体」の「違い」として表現するのだが、「自分の知っている自分」から「自分の知らない自分」へとすりかわる(?)瞬間に、
という、とんでもなく客観的なことばをさしはさむのである。
吉浦は「自分の知らない自分」をもちろんコントロールできないけれど、「自分の知っている自分」は完全にコントロールしている。
「自分の知っている自分」は完全にコントロールしながら、「自分の知らない自分」がふわっと遊びに出てくるのを受け止めている。
この呼吸が「くせもの」である。
*
岩佐のことばが「音」を巧みに利用して動くのに対し、吉浦のことばは「音」(聴覚)ではなく「字面」というか「視覚」を利用して動いているとも言えるかもしれないが--これは困ったことに(というのは、私にとって困るということなのだが)、ちょっと不気味な「肉体」である。
私は「頭」とか「視覚」というものを、あまり重視していない。(視覚よりも聴覚の方が、人間にとって重要な感覚であると感じている、といった方がいいのかもしれない。)
「頭」ではなく、「頭」ではないもの、「視覚」ではなく「視覚ではないもの」のなかにこそ「思想」があると感じているのだが、そういう私の感じていることと、吉浦の書いている世界はうまくかみ合わない。
論理的にかみ合わないのだけれど、なぜか、共振もしてしまう。
それも「肉体」として共振してしまう。
いや、それとも、これは「肉体」の共振ではなく、「頭」の共振なのかなあ。あこがれなのかなあ。
想像力--定型化した想像力を捨てていく時のきっぱりした力と、肉体のなかにある「いのち」をしっかりみつめる視力。
「くせもの」と私は書いてしまったが--これは私の「ごまかし」かもしれない。たどりつけない何か「くせもの」と呼ぶことで私は私を安心させようとしているのかもしれない。
吉浦豊久は「くせもの」である。「くせもの」加減は、少し岩佐なをに似ている。しかし、この少し似ているというのは私だけが感じることかもしれない。岩佐のように「音」そのものが「くせもの」というのではない。
どこに、「くせもの」を感じるか。
「白い光景」という作品。その前半。
出無精で 住んでいる地区のことはほとんど知らない。友人が訪ねてきて、こ
の近くに岩塩の採掘場があるらしい、と言うのだ。
地区の外れの竹林の道を 友人と歩く
竹林の登りくねった道の果てに
樅の林が広がり そこのこす暗い道を抜けていくと
あたりは 白熊の群のような岩山が続続
試しに舐めてみると塩辛い岩塩の山だ
白い岩根を巧みに彫ってつくった幾つもの白い家が 隠し砦みたい
遠目に犬小屋程度の大きさと思っていたのに
近づくと普通の大きさの白い街道が展がっていた
「まるで死んだ村みたい」
という形容は見事に外れた
塩は死をイメージさせる。「死海」という海があるが、その海は塩分濃度が高すぎて生きられない。塩の白は、また死のイメージでもある。
「まるで死んだ村みたい」ということばは、当然、その後の展開を想像させる。死の世界が始まるのだと思わせる。
ところが、吉浦は、改行して(つまり、少し「間」をおいて)、「という形容は見事に外れた」とつづける。吉浦も実は「死」をイメージした、想像したと「告白」しておいて、それが「外れた」と告げる。
この呼吸が「くせもの」である。
「まるで死んだ村みたい」
という形容は見事に外れた
という2行は、「事実(?)」というものだけを見ていくとき、あってもなくてもいい。いや、ない方がいい。吉浦の「想像」は事実とは無関係だからである。どんなふうに想像しようと、そこにある「村」の姿がかわるわけではない。「想像」によってかわるのは、つまり、想像したことによって影響を受けるのは「村」ではなく、吉浦自身であるからだ。吉浦が、あっ、と驚いているだけで「村」には何の変化もない。
ないはずなのだが……。
ないはずなのだが、変なことが起きる。
「文体」が変わる。
「岩鹽賣買處」の立て札の前で 下帯襦袢だけの女たちが荷馬車に麻袋を乗せ
ていた 垂れ乳房の透けてみえる半袖腰巻姿の女たちが 「砂糖取扱處」の旗
の下に停っている牛車に木箱や樽を運び 「米穀仲買取引處」の板看板がある
倉庫から引き綱のついた荷車に 刺子もんぺ姿の女たちが 米俵を積んでいた
白い風景の中に
真っ黒い汗びっしょりの女たちが働いているそれらの白い三品を扱っている建
物の背後に登ってみた
白い地蔵堂か
白い炭小屋
白い納屋に
白髪の老婆や子供たちが 白い仏像を転がしたように寝そべっていた
「岩鹽賣買處」という立て札の「旧字」。突然、「古い」村が登場する。「現代」の世界を描いているものだと思っていたのだが、どうやらそうではないらしい。
「新字」「旧字」の違いを「文体」の変化というのは大げさかもしれないが、文字が変わると、そこに描き出される世界がかわる。
村の様子を「旧字」を利用して、一気に、現代から引き剥がしてしまう。
そこでは「文体」が変わっている。
村の様子を具体的に描くときに、ことば(表記)そのものが変わっている。変わっているのだが、そのことを「立て札」のせいにして、変わっていないと感じさせる。
そのところが「くせもの」である。
想像が「見事に外れた」のだから、吉浦の目撃する「村」の姿が、それまで書かれていることと完全に違っていても当然である。「下帯襦袢」「垂れ乳房」など、「現代」から遠いものが次々に出てくるが、想像が「見事に外れた」のだから、そういうものが出てきてもまったくかまわないのだが、それを「旧字」によって、ずるーっと、地殻をずらすように動かしていくところが「くせもの」である。
そんなふうにずるーっと世界を動かしたあと、「白い地蔵堂か」以下、あれっ、これって「死んだ村」見たいじゃない?と思わせる世界へ戻る。
そのとき、「岩鹽賣買處」からの数行が「散文」形式にだらだらつづいていたのに対して、突然「行わけ」形式に変わるのも絶妙である。
ことばを「意味」ではなく、呼吸や文字の形によって動かしているのである。「意味=頭で整理できるもの」ではなく、改行の呼吸(ことばの息継ぎ)や文字の形という視覚--つまり「肉体」で動かしている。
吉浦のことばは「村」を描写しているのであるが、そのことばを追っていくとき「村」が見えるというよりも、吉浦の「肉体」が見える。吉浦の感じている、「変な感じ」の、肉体のなかの「変」に、私は共振してしまう。
変な「村」(見たこともない村)に驚くというよりも、その村を変と感じるときの、吉浦の「肉体」のなかで起きている異変に共振してしまう。
だから、次の展開がとても自然に感じられる。
ここは果して どこなのか
何時代なのか
一瞬そう思った時 立暗が襲ってきた
地区の地図の中を捜してみても
それらしき岩塩の山は見当たらない
自分の体の中に もう一人自分の知らない自分が住んでいるのかも知れない
数世紀飛び越した自分が
「自分の体の中に もう一人自分の知らない自分が住んでいる」。その「自分の知らない自分」が何かを見てしまう。感じてしまう。
吉浦は、その「自分の知っている自分」と「自分の知らない自分」の違いを「文体」の「違い」として表現するのだが、「自分の知っている自分」から「自分の知らない自分」へとすりかわる(?)瞬間に、
「まるで死んだ村みたい」
という形容は見事に外れた
という、とんでもなく客観的なことばをさしはさむのである。
吉浦は「自分の知らない自分」をもちろんコントロールできないけれど、「自分の知っている自分」は完全にコントロールしている。
「自分の知っている自分」は完全にコントロールしながら、「自分の知らない自分」がふわっと遊びに出てくるのを受け止めている。
この呼吸が「くせもの」である。
*
岩佐のことばが「音」を巧みに利用して動くのに対し、吉浦のことばは「音」(聴覚)ではなく「字面」というか「視覚」を利用して動いているとも言えるかもしれないが--これは困ったことに(というのは、私にとって困るということなのだが)、ちょっと不気味な「肉体」である。
私は「頭」とか「視覚」というものを、あまり重視していない。(視覚よりも聴覚の方が、人間にとって重要な感覚であると感じている、といった方がいいのかもしれない。)
「頭」ではなく、「頭」ではないもの、「視覚」ではなく「視覚ではないもの」のなかにこそ「思想」があると感じているのだが、そういう私の感じていることと、吉浦の書いている世界はうまくかみ合わない。
論理的にかみ合わないのだけれど、なぜか、共振もしてしまう。
それも「肉体」として共振してしまう。
いや、それとも、これは「肉体」の共振ではなく、「頭」の共振なのかなあ。あこがれなのかなあ。
「まるで死んだ村みたい」
という形容は見事に外れた
想像力--定型化した想像力を捨てていく時のきっぱりした力と、肉体のなかにある「いのち」をしっかりみつめる視力。
「くせもの」と私は書いてしまったが--これは私の「ごまかし」かもしれない。たどりつけない何か「くせもの」と呼ぶことで私は私を安心させようとしているのかもしれない。
或る男―吉浦豊久詩集 (1984年) | |
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