詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

犬飼愛生「苗字はなんにしよう」、小長谷清実「浮浪猫一匹」ほか

2011-07-10 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
犬飼愛生「苗字はなんにしよう」、小長谷清実「浮浪猫一匹」ほか(「交野が原」70、2011年04月20日発行)

 ひとの考え(ことば)というのは不思議なものだと思う。かってに動いて行って、人間を動かしてしまう。人間がことばを動かすのではなく、ことばが人間を動かす。こういう瞬間に、詩、はあると思う。
 犬飼愛生「苗字はなんにしよう」の前半。

忘れたい
許したいと悩んでいたら
鯛になってしまった

しばらく機嫌よく
そのへんを泳ぎ回っていたのだが
やっぱり苦しくなって
口がぱくぱく動きだした

たい
たい
(忘れたい・許したい)

私の乳房からは
まだ新鮮なお乳があふれていて
子どもがうれしそうに
ちうちう吸っている

おめでたいじゃないの あんた

魚の世界には盗った盗られたなんてないのよ
亭主なんていくらでもいるわ
ほらみてよ 私なんか と
子持ちシシャモ夫人が
大きな腹を揺らしながら
何度目かの産卵の準備をしている

 下世話に読むと、「私」の「亭主」は浮気をした。さて、どうしたものか。離婚してしまおうか。そうしたら「苗字」は何にしよう。特に、この乳飲み子の苗字は……というような状況を、ちょっとわきから見ているという状態だろうか。
 書き出しの「忘れたい/許したいと悩んでいたら/鯛になってしまった」のナンセンスなことばの展開がいい。「ナンセンス」というのは「無意味」ということなのだが、この「無意味」をもう少し考えていくとどうなるか。「無意味」とはどういうことなのか。
 「意味」がないとしたら、このことばの運動には何があるのか。「たい」「たい」ということばの繰り返しのリズム。「たい」という欲望をあらわすことばが、魚の「鯛」と重なってしまう、音のおかしさ。そうして、そう思った瞬間、「許したい」「忘れたい」を一瞬、忘れてしまうということ。
 忘れ「たい」、許し「たい」と「鯛」は「意味」は無関係であるが、「音」がいっしょ。そう思えるのは、私達がことばを「音」として聞いているからだ。犬飼の詩は文字で書かれているけれど、文字だけを追っていくとき(音を消してしまって読むとき)、「たい」と「鯛」は重ならない。声に出さなくても、「肉体」の奥で「声」を動かすとき「たい」と「鯛」が重なる。
 「意味」はないのだけれど、「音」があり、同時に「音」を聞き取る「肉体」がある。「意味」とは無関係に存在してしまう「肉体」というものが、私たちにはある。
 これはいいことなのか、悪いことなのか、あるいはばかばかしいことなのか、よくわからないが、どういうときでも「生きている」(肉体が動いている)、何かになって動いているというのは、まあ、おもしろいことだ。
 でも、こういうことは、長続きはしない。人間は鯛ではないから、泳ぎつづければ(私は鯛だとふざけまわれば)、だんだん感情が苦しくなる。「肉体」と「感情」が離れて動いてしまう。忘れ「鯛」、許し「鯛」けれど、忘れられない、許せない。だからこそ、忘れたい、許したい、なのかもしれない。
 そんなどたばたした肉体と感情の対立とは無関係に、乳は張る。子どもは乳を吸う。そこにも「肉体」がある。

 「無意味」と「無関係」は、どう違うだろう。
 とても似ている。「意味」は「関係」とほとんど同じである。忘れ「たい」、許し「たい」と「鯛」は無関係である。
 「関係」(そには「亭主」と「私」の関係も、もちろんある)をきちんと維持するのは、めんどうくさい。修復しながら生きるのはめんどうくさい。そこへ行くと、「いのち」にかかわる「肉体」というものはたくましいものである。男と女の関係などには配慮をしない。勝手に乳はあふれてくる。そして、子どもはもちろん親の男女の関係などに口を挟まない。はだ、腹が減ったら乳を吸う。--というところに、犬飼は、いっしゅの「希望」のようなものを感じている。
 これは忘れ「たい」、許し「たい」の「たい」が「鯛」にかわる瞬間の飛躍にちょっと似ている。何かめんどうくさいものをほうりだして、ただ純粋に「生きている」ということにつながる「欲望」のようなものがある。

 「無意味」「無関係」が前面に出てくるとき、たぶん「頭」「感情」のうじゃうじゃが捨てられるのだ。そして、そういうものを捨ててしまったって、まあ、生きているということがわかる。
 --ということ、なのかな?

 でも、こういう考え方は「めでたい」のかもしれないねえ。と、もう一匹の「鯛」が登場する。
 どうも「生きる」というのは複雑である。
 論理的に、正確に(?)、考えようとすると、ことばはうまく動かない。あっちへ行ったり、こっちへ来たり。はみだしたり、ひっこんだり。
 
 この詩は、(この詩にかぎらず、どんな詩でも)、あれこれうるさいことを言ってはいけないのだ。ややこしいことばは詩を壊してしまう。
 忘れ「たい」、許し「たい」と思っていたら、「鯛」なっちゃった。あんたばかね、そういうのおめで「鯛」っていうのよ--というのは、もちろん、ほめことばだねえ。



 小長谷清実「浮浪猫一匹」は、庭に迷い込んだ猫を描いている。

まんまるいふたつの眼の先には
時間がゆっくり波うち
流れていて
その動きが なぜか
曖昧模糊を生きる
生き物の
凹凸に上下する腹部のように見えるのか
やわらかな腹部のように見えるのか

やわらかな時間を捕捉しようかと
狙っているのか
あわよくばそこに身を投じようかと
窺っているのか

 小長谷のことばには、犬飼の、忘れ「たい」、許し「たい」、「鯛」のようはっきりした繰り返しではないが、やはり「音」の繰り返しがある。その繰り返しを呼んでいると、なんだか書かれていること(意味?)がわからなくなり、「音」の中で、思考がというより、「肉体」がふわーっととろけていく感じがする。「放心」と「肉体」のとろけた感じがどこかで重なる。
 この感覚--私は好きである。



 犬飼、小長谷のことばを読んだ後、高階杞一「答は空」を読むと「意味」が強すぎて、窮屈な気持ちになる。

こどもと散歩しながら
聞いてみる
ねえ
この世で一番のお金持ちは誰だか知ってる?
こどもは首をかしげて僕を見る
僕は得意気に言う
答は空
見てごらん
あんなに立派な太陽や
白いきれいな雲をもっている
夜には月や星まで出してくる
どんなお金持ちもあれは買えない
どう、すごいだろ?

 この詩の最後は、「空ってすごいね//空ってすごいね お父さん」で終わるのだが、このとき、こどもはほんとうにそう思っているのかな? こう言えばお父さんが歓んでくれると思って、無意識に媚びているのかな?






わが友、泥ん人
小長谷 清実
書肆山田
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ニキータ・ミハルコフ監督「戦火のナージャ」(★★★★)

2011-07-10 21:01:43 | 映画
監督 ニキータ・ミハルコフ 出演 ニキータ・ミハルコフ、オレグ・メンシコフ、ナージャ・ミハルコワ

 この映画はとてもわかりにくい。1943年と1941年を行き来するのだが、ロシアの歴史を知らない私には、この2年の区別がつかない。スターリンへの憎悪や宗教の問題も、私にはよくわからない。
 いくつも美しいシーンがある。ニキータ・ミハルコフが幼い娘を抱いてボートで川下りをするシーンがとりわけ美しい。(「太陽に灼かれて」でつかわれていたニキータ・ミハルコフと幼いナージャ・ミハルコワの映像)。映画の中では、それはニキータ・ミハルコフとナージャの共通の記憶であり、その記憶によってふたりは戦場を彷徨いながらもつながっている。生きる希望そのものの、やわらかな光にみちた映像である。
 また、それとは対照的なシーン。虐殺が行われる村(ナージャが逃げ込んだ村)の自然の美しさ、乾いた金色の麦の穂や、あふれる光が、惨殺とは無関係にそこにある--その不思議さを、むき出しの形で伝えてくる映像である。
 いずれも、空気そのものの匂いまで感じられるような、ニキータ・ミハルコフ特有の映像である。
 今回びっくりしたのは、ニキータ・ミハルコフの塹壕をドイツの戦車が襲った後の映像である。 240人(だったかな)の死体。その、だれものが腕時計をしている。そしてその時計は動いている。歯車がまわり、秒針がまわる--その音がスクリーンに広がる。人が死ぬ。そのこととは無関係に、時間は動いている。
 何のために?
 虐殺が行われた村の美しい自然が、たとえば、そのとき語られる「神」のある意味での「意思」だとすれば、この動きつづける「時間」とは何だろう。それもまた「神」の意図なのだろうか。
 ここでは「神」は語られず、スターリンの愚かさが告発される。ドイツの戦車に小銃で戦えと指示したスターリンの無謀さ。そして、そういう戦線へロシア人の典型のような長身のエリートを送り込み、エリートだからドイツ兵に勝てるというような「机上の論理」が告発される。
 しかし、その告発は、「時間」がそういうときも存在するということについては何も語らない。
 何も語らないからこそ、ここにはニキータ・ミハルコフのいちばんの主張がこめられていると思う。
 人間には無関係に過ぎていく時間。いつでも存在してしまう時間。それを生きていく--つまり充実したものにしていくのは人間の力なのだ。人間の力が充実するとき、「時計」の音は消える。人間の鼓動が「時計」にかわって、時間を動かしていく。
 このことを象徴的に語るのが、ラストシーンである。
 戦場看護婦のナージャが破壊された教会で瀕死の兵を見つける。治療を試みるが、助ける方法などない。若い兵士は、死の間際に、ナージャに「胸を見せてくれ。まだ一度も見たことがないんだ」と訴える。ナージャは、それしかできることがないと知って、ためらいながらも、静かに服を脱ぎ、美しい乳房を見せる。兵は死に、カメラはナージャの背中を写したまま、高く高く宙へとのぼっていく。雪が、廃墟となった教会と、上半身裸のナージャの上に降ってくる。
 このとき、ナージャの小さな心臓の音、その震えと、消えていく若い兵士の鼓動の音が聞こえる。--効果音として、というのではなく、沈黙の中で、私は、その交錯する鼓動の音を聞いてしまうのである。
 この映画で、ニキータ・ミハルコフは「音」を映画に定着させることに成功した、と感じた。これまでニキータ・ミハルコフが「音」をどんなふうに扱ってきたのか(音にどんな仕事をさせてきたのか)、私は気を配ってみたことがなかったが、今回は、音に気がついた。
 そして、この「音」を「ことば」にまで広げていくと、またこの映画の別の姿が見えてくるかもしれない。この映画で描かれる悲劇では「ことば」がとても重要な働きをしている。ナージャを追い詰めるのは、「党よりも家族が大事」と言った彼女自身のことばである。また、彼女の乗った赤十字船が撃沈されたとき、最後の「すくい」のようにして彼女に働きかけてくるのは「洗礼」のことば、「神」のことばである。さらには、この悲劇をつらぬいているのは「伝聞」としての「ことば」である。誰も「真実」を知らない。誰がどこで生きているか知らない。その知らないことを「生きている」とことばにして、信じるとき、それは人間を動かす力になる。
 この「ことば」にならなかった「ことば」、人間のこころのなかで動いている「ことば」をニキータ・ミハルコフは映像にしているといえるかもしれない。




太陽に灼かれて [DVD]
クリエーター情報なし
パラマウント ホーム エンタテインメント ジャパン


人気ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする