犬飼愛生「苗字はなんにしよう」、小長谷清実「浮浪猫一匹」ほか(「交野が原」70、2011年04月20日発行)
ひとの考え(ことば)というのは不思議なものだと思う。かってに動いて行って、人間を動かしてしまう。人間がことばを動かすのではなく、ことばが人間を動かす。こういう瞬間に、詩、はあると思う。
犬飼愛生「苗字はなんにしよう」の前半。
下世話に読むと、「私」の「亭主」は浮気をした。さて、どうしたものか。離婚してしまおうか。そうしたら「苗字」は何にしよう。特に、この乳飲み子の苗字は……というような状況を、ちょっとわきから見ているという状態だろうか。
書き出しの「忘れたい/許したいと悩んでいたら/鯛になってしまった」のナンセンスなことばの展開がいい。「ナンセンス」というのは「無意味」ということなのだが、この「無意味」をもう少し考えていくとどうなるか。「無意味」とはどういうことなのか。
「意味」がないとしたら、このことばの運動には何があるのか。「たい」「たい」ということばの繰り返しのリズム。「たい」という欲望をあらわすことばが、魚の「鯛」と重なってしまう、音のおかしさ。そうして、そう思った瞬間、「許したい」「忘れたい」を一瞬、忘れてしまうということ。
忘れ「たい」、許し「たい」と「鯛」は「意味」は無関係であるが、「音」がいっしょ。そう思えるのは、私達がことばを「音」として聞いているからだ。犬飼の詩は文字で書かれているけれど、文字だけを追っていくとき(音を消してしまって読むとき)、「たい」と「鯛」は重ならない。声に出さなくても、「肉体」の奥で「声」を動かすとき「たい」と「鯛」が重なる。
「意味」はないのだけれど、「音」があり、同時に「音」を聞き取る「肉体」がある。「意味」とは無関係に存在してしまう「肉体」というものが、私たちにはある。
これはいいことなのか、悪いことなのか、あるいはばかばかしいことなのか、よくわからないが、どういうときでも「生きている」(肉体が動いている)、何かになって動いているというのは、まあ、おもしろいことだ。
でも、こういうことは、長続きはしない。人間は鯛ではないから、泳ぎつづければ(私は鯛だとふざけまわれば)、だんだん感情が苦しくなる。「肉体」と「感情」が離れて動いてしまう。忘れ「鯛」、許し「鯛」けれど、忘れられない、許せない。だからこそ、忘れたい、許したい、なのかもしれない。
そんなどたばたした肉体と感情の対立とは無関係に、乳は張る。子どもは乳を吸う。そこにも「肉体」がある。
「無意味」と「無関係」は、どう違うだろう。
とても似ている。「意味」は「関係」とほとんど同じである。忘れ「たい」、許し「たい」と「鯛」は無関係である。
「関係」(そには「亭主」と「私」の関係も、もちろんある)をきちんと維持するのは、めんどうくさい。修復しながら生きるのはめんどうくさい。そこへ行くと、「いのち」にかかわる「肉体」というものはたくましいものである。男と女の関係などには配慮をしない。勝手に乳はあふれてくる。そして、子どもはもちろん親の男女の関係などに口を挟まない。はだ、腹が減ったら乳を吸う。--というところに、犬飼は、いっしゅの「希望」のようなものを感じている。
これは忘れ「たい」、許し「たい」の「たい」が「鯛」にかわる瞬間の飛躍にちょっと似ている。何かめんどうくさいものをほうりだして、ただ純粋に「生きている」ということにつながる「欲望」のようなものがある。
「無意味」「無関係」が前面に出てくるとき、たぶん「頭」「感情」のうじゃうじゃが捨てられるのだ。そして、そういうものを捨ててしまったって、まあ、生きているということがわかる。
--ということ、なのかな?
でも、こういう考え方は「めでたい」のかもしれないねえ。と、もう一匹の「鯛」が登場する。
どうも「生きる」というのは複雑である。
論理的に、正確に(?)、考えようとすると、ことばはうまく動かない。あっちへ行ったり、こっちへ来たり。はみだしたり、ひっこんだり。
この詩は、(この詩にかぎらず、どんな詩でも)、あれこれうるさいことを言ってはいけないのだ。ややこしいことばは詩を壊してしまう。
忘れ「たい」、許し「たい」と思っていたら、「鯛」なっちゃった。あんたばかね、そういうのおめで「鯛」っていうのよ--というのは、もちろん、ほめことばだねえ。
*
小長谷清実「浮浪猫一匹」は、庭に迷い込んだ猫を描いている。
小長谷のことばには、犬飼の、忘れ「たい」、許し「たい」、「鯛」のようはっきりした繰り返しではないが、やはり「音」の繰り返しがある。その繰り返しを呼んでいると、なんだか書かれていること(意味?)がわからなくなり、「音」の中で、思考がというより、「肉体」がふわーっととろけていく感じがする。「放心」と「肉体」のとろけた感じがどこかで重なる。
この感覚--私は好きである。
*
犬飼、小長谷のことばを読んだ後、高階杞一「答は空」を読むと「意味」が強すぎて、窮屈な気持ちになる。
この詩の最後は、「空ってすごいね//空ってすごいね お父さん」で終わるのだが、このとき、こどもはほんとうにそう思っているのかな? こう言えばお父さんが歓んでくれると思って、無意識に媚びているのかな?
ひとの考え(ことば)というのは不思議なものだと思う。かってに動いて行って、人間を動かしてしまう。人間がことばを動かすのではなく、ことばが人間を動かす。こういう瞬間に、詩、はあると思う。
犬飼愛生「苗字はなんにしよう」の前半。
忘れたい
許したいと悩んでいたら
鯛になってしまった
しばらく機嫌よく
そのへんを泳ぎ回っていたのだが
やっぱり苦しくなって
口がぱくぱく動きだした
たい
たい
(忘れたい・許したい)
私の乳房からは
まだ新鮮なお乳があふれていて
子どもがうれしそうに
ちうちう吸っている
おめでたいじゃないの あんた
魚の世界には盗った盗られたなんてないのよ
亭主なんていくらでもいるわ
ほらみてよ 私なんか と
子持ちシシャモ夫人が
大きな腹を揺らしながら
何度目かの産卵の準備をしている
下世話に読むと、「私」の「亭主」は浮気をした。さて、どうしたものか。離婚してしまおうか。そうしたら「苗字」は何にしよう。特に、この乳飲み子の苗字は……というような状況を、ちょっとわきから見ているという状態だろうか。
書き出しの「忘れたい/許したいと悩んでいたら/鯛になってしまった」のナンセンスなことばの展開がいい。「ナンセンス」というのは「無意味」ということなのだが、この「無意味」をもう少し考えていくとどうなるか。「無意味」とはどういうことなのか。
「意味」がないとしたら、このことばの運動には何があるのか。「たい」「たい」ということばの繰り返しのリズム。「たい」という欲望をあらわすことばが、魚の「鯛」と重なってしまう、音のおかしさ。そうして、そう思った瞬間、「許したい」「忘れたい」を一瞬、忘れてしまうということ。
忘れ「たい」、許し「たい」と「鯛」は「意味」は無関係であるが、「音」がいっしょ。そう思えるのは、私達がことばを「音」として聞いているからだ。犬飼の詩は文字で書かれているけれど、文字だけを追っていくとき(音を消してしまって読むとき)、「たい」と「鯛」は重ならない。声に出さなくても、「肉体」の奥で「声」を動かすとき「たい」と「鯛」が重なる。
「意味」はないのだけれど、「音」があり、同時に「音」を聞き取る「肉体」がある。「意味」とは無関係に存在してしまう「肉体」というものが、私たちにはある。
これはいいことなのか、悪いことなのか、あるいはばかばかしいことなのか、よくわからないが、どういうときでも「生きている」(肉体が動いている)、何かになって動いているというのは、まあ、おもしろいことだ。
でも、こういうことは、長続きはしない。人間は鯛ではないから、泳ぎつづければ(私は鯛だとふざけまわれば)、だんだん感情が苦しくなる。「肉体」と「感情」が離れて動いてしまう。忘れ「鯛」、許し「鯛」けれど、忘れられない、許せない。だからこそ、忘れたい、許したい、なのかもしれない。
そんなどたばたした肉体と感情の対立とは無関係に、乳は張る。子どもは乳を吸う。そこにも「肉体」がある。
「無意味」と「無関係」は、どう違うだろう。
とても似ている。「意味」は「関係」とほとんど同じである。忘れ「たい」、許し「たい」と「鯛」は無関係である。
「関係」(そには「亭主」と「私」の関係も、もちろんある)をきちんと維持するのは、めんどうくさい。修復しながら生きるのはめんどうくさい。そこへ行くと、「いのち」にかかわる「肉体」というものはたくましいものである。男と女の関係などには配慮をしない。勝手に乳はあふれてくる。そして、子どもはもちろん親の男女の関係などに口を挟まない。はだ、腹が減ったら乳を吸う。--というところに、犬飼は、いっしゅの「希望」のようなものを感じている。
これは忘れ「たい」、許し「たい」の「たい」が「鯛」にかわる瞬間の飛躍にちょっと似ている。何かめんどうくさいものをほうりだして、ただ純粋に「生きている」ということにつながる「欲望」のようなものがある。
「無意味」「無関係」が前面に出てくるとき、たぶん「頭」「感情」のうじゃうじゃが捨てられるのだ。そして、そういうものを捨ててしまったって、まあ、生きているということがわかる。
--ということ、なのかな?
でも、こういう考え方は「めでたい」のかもしれないねえ。と、もう一匹の「鯛」が登場する。
どうも「生きる」というのは複雑である。
論理的に、正確に(?)、考えようとすると、ことばはうまく動かない。あっちへ行ったり、こっちへ来たり。はみだしたり、ひっこんだり。
この詩は、(この詩にかぎらず、どんな詩でも)、あれこれうるさいことを言ってはいけないのだ。ややこしいことばは詩を壊してしまう。
忘れ「たい」、許し「たい」と思っていたら、「鯛」なっちゃった。あんたばかね、そういうのおめで「鯛」っていうのよ--というのは、もちろん、ほめことばだねえ。
*
小長谷清実「浮浪猫一匹」は、庭に迷い込んだ猫を描いている。
まんまるいふたつの眼の先には
時間がゆっくり波うち
流れていて
その動きが なぜか
曖昧模糊を生きる
生き物の
凹凸に上下する腹部のように見えるのか
やわらかな腹部のように見えるのか
やわらかな時間を捕捉しようかと
狙っているのか
あわよくばそこに身を投じようかと
窺っているのか
小長谷のことばには、犬飼の、忘れ「たい」、許し「たい」、「鯛」のようはっきりした繰り返しではないが、やはり「音」の繰り返しがある。その繰り返しを呼んでいると、なんだか書かれていること(意味?)がわからなくなり、「音」の中で、思考がというより、「肉体」がふわーっととろけていく感じがする。「放心」と「肉体」のとろけた感じがどこかで重なる。
この感覚--私は好きである。
*
犬飼、小長谷のことばを読んだ後、高階杞一「答は空」を読むと「意味」が強すぎて、窮屈な気持ちになる。
こどもと散歩しながら
聞いてみる
ねえ
この世で一番のお金持ちは誰だか知ってる?
こどもは首をかしげて僕を見る
僕は得意気に言う
答は空
見てごらん
あんなに立派な太陽や
白いきれいな雲をもっている
夜には月や星まで出してくる
どんなお金持ちもあれは買えない
どう、すごいだろ?
この詩の最後は、「空ってすごいね//空ってすごいね お父さん」で終わるのだが、このとき、こどもはほんとうにそう思っているのかな? こう言えばお父さんが歓んでくれると思って、無意識に媚びているのかな?
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